◆行き先◆
 
浅い春。
草木はまだ芽吹ききらず、雪が消えたばかりの畑は所々に枯れ草が見えるだけ。
その向こうに広がる山々は白く雪に覆われ、青空を写して冷ややかな色を示している。
でも目を閉ざすと――全身に降り注ぐ陽の光は間違いなく暖かみを増し、遠くから聞こえる鳥の声も心なしか華やいでいるようだ。
 
 
「…メア、ネメア!」
静寂を破り、唐突に若い娘の声が耳に飛び込んでくる。
大木に寄りかかり、目を閉じていたネメアはため息を付きながら目を開けた。
「ナスカ、なんの騒ぎだ――」
ナスカと呼ばれた少女、かつていた大陸では「無限のソウルを持つ者」と呼ばれた娘は、走ってきて赤くなった頬のままで身振り手振りで騒ぎ出した。
「お昼寝してたの?意外ーーー、だって普段は一年や二年寝なくても平気みたいな顔してるのに!」
いや、それだけ寝ないでいたら、いくら体力があっても死ぬだろうと生真面目に考え、ネメアは額を抑える。
「私の寝顔がそんなに珍しかったのか?」
その声にナスカはぱっと目を見開き、それからぶんぶんと首を振った。
「そうじゃないって。あのね、あっちの沼!びっくりしたの、一ヶ月前に通りかかったときと全然違ってたの!」
「違う?何か危険な妖物でも?」
手元に置いてあった槍を取りかけたネメアに、ナスカはまたぶんぶんと首を振った。
「そうじゃなくて!一ヶ月前は沼は氷と雪で真っ白だったでしょ?それが、周りが草が生えて、白鳥とかがいたの!」
ネメアはまた額を抑える。頭痛がしてきたようだ。
 
「……草や白鳥がそれほどに珍しいのか」
「そうじゃないってば!」
ナスカは駄々っ子のように地団駄を踏む。大陸にいた頃とは比べものにならないほど、幼児めいた動作だ。
「草や白鳥なんて見飽きるほど見てるってば!私が驚いてるのは、同じ場所で人の手も何も加わってないのに、
一ヶ月前と後ですっかり様子が変わってるって事!まるで別の場所みたいなのよ!」
そう言われてもネメアはナスカが何に興奮しているのかよく分からない。
無表情に自分を見返すネメアに、ナスカはため息を付いた。
「分かんないかなぁ…草とか鳥なんて私も見慣れてるって…でも、少し前までは全然違う、『冬』の気色だったでしょ?色が何もなくて、閑散として、寂しくて…。それが今は色が付いているの。見慣れた光景の筈なのに、
それがすごく嬉しい感じがするの。誰かが言ってた『冬になると春が待ち遠しい』って言葉の意味を実感した気がするのよ」
 
彼等の故郷であるバイアシオン大陸は、はっきりとした四季がなかった。
季節がかわってもせいぜい咲き乱れる花の色が変わる程度。これほどまでに劇的に光景が変わるなど、
想像したことすらなかったのだ。
ネメアもそれは同様なのだが、元来細かいことにいちいちとらわれるタイプでないネメアは、ナスカがこれほどまでに感動しているのが今一つ理解できない。
表情からそれを察したナスカは、やれやれ、といった風に肩を落とした。
それからびしっと指差し、いっぱしの保護者ぶった口調になる。
 
「暗い!というか、鈍い!闇の気配を感じまくるのはいいけど、季節の移り変わりとか、そういうどうでも良いような事に注意いかなすぎ!どうせ、今だって、せいぜい『ああ、晴れてるな』くらいしか思ってなかったでしょ」
「…どうでも良いような事なら、別に注意する必要もないと思うが」
「それは違う!そう言う些細なことが、人生の潤いってものなの、判る?」
せいぜい20年かそこらしか生きていない小娘に人生の潤いを説かれてもなんとも釈然としないのだが、
ナスカは反論させる気もなくまくし立てた。
 
「ネメアって、絶対人生損してる!確かに生まれとか育ちとかいろいろいろいろ思うことはあると思うけど、
私なんてずっと普通の娘だと思ってたのに、いきなり竜王だのなんだのに注目されたあげくに敵扱いされてみたり、しまいには人間じゃないみたいなこと言われてみたりショックの連続だったけど、こうやってじっくり人生楽しんでるじゃないの。ネメアだって、闇とか戦い以外に興味を持って人生楽しむべきよ」
何に対して興味を持つのかは他人に強制されることではないだろうと、ネメアはごく真面目に考え込む。
ナスカは口を尖らせた。
 
「ああ、もう、また考えてる。眉間のしわが取れなくなるじゃないの」
そう言うと、木の根本に座り込んだままのネメアの腕を引っ張る。
つられて立ち上がったネメアに向かい、ナスカは大きく深呼吸してみせた。
「ネメアもしてご覧よ、そうしたら、空気が変わってるの判るでしょ」
言われるままに、ネメアは大きく息を吸い込んだ。
肺の隅々まで行き渡る空気は、確かに本の数日前と比べても柔らかさと暖かみが増し、どこか草の香も混じっている。
 
「明日になればきっともっと暖かくなるわ。小さい木の芽も大きく育つ。土を割って出たばかりの蕾も綻び始める。
時間が過ぎていくのが目に見えるよう…すごくわくわくするわ」
ナスカは目の前に広がる山脈を指差した
 
「キャラバンの人がいってたわ。あの山の中腹には家を持たずに移動する人たちがいるんだって。
家畜をつれて青い草を求めて、テントを持ってずっとずっと旅をするんだって。当たり前のようにそんな生き方をしている人たちがいるなんて、なんだかすごいと思わない?」
バイアシオンでは定住しないで生きる人々はある程度決まった職業の者達ばかりだった。
だがここではそうやって旅をする遊牧民の一族というのは、珍しくもないのだという。
季節にあわせて人々は旅をする。
南から北へ、北から南へ。季節を追うように生きる人々もいる。
ナスカは目をきらめかせて、青空の向こうを仰ぎ見る。
 
「もっともっと遠くに行きたい。いろんな所に行きたい。いろんな物が見たい」
始めての冬を過ごし、始めての春の訪れを見た娘は、初めて見る植物の葉一枚にも感動したようにはしゃぐ。
「綺麗なものって、どこにでもたくさん落ちてるものなのね。汚いものも嫌なものも沢山あるけど、それでもやっぱり世界は綺麗よ……」
そううっとりと呟いてから、ナスカは目をきりっとつり上げてネメアを見た。
「また、何を言ってるんだろうって呆れた目で見てる。ネメアってば…やっぱり鈍感なんだ」
急に口を尖らせてナスカは歩き出した。
振り向かずにすたすたと歩き続ける娘に、ネメアは苦笑しながら追いかける。
 
訳の分からないことを騒ぐ癖はあるが、――いや、それだからこそ、得難いパートナーであると、ネメアは承知している。彼女の言うとおりにネメアは、自分が人間味に欠けている部分があることを嫌と言うほど知っていた。
ナスカはその欠けている部分を十二分に満たし、ネメアの前に自分の知らなかった生き方を示してくれる。
少なくとも数年前のネメアであれば――陽光の変化や空気の香など、感じ取ろうなどと思いもしなかっただろう。
過去と運命に縛られていた頃の自分であれば。
 
冷たいはずの雪の思いがけない暖かさ。
ひやりとした空気の澄み切った心地よさ。
気楽に声を掛け合う人々の素朴な優しさ――これなど、ネメア1人であれば、決して経験することはなかったはず。物怖じせずに人の輪に入っていくナスカと一緒に旅をして、始めてネメアは自分が特別視されることのない
人間関係を味わった気がする。この新しい大陸で出会う人々にとってネメアは「英雄」でもなんでもない、
ただの「旅人」であり、または「隣人」。
 
ナスカのように態度に表すことはなくても、ネメアは十分この大陸で始めて知った事に興味を持ち、楽しんでいる。そして今現在、ナスカのコロコロとすぐに変わる表情に一番興味があると言ったら、この娘はどうするのだろう。僅かばかり人の悪い笑みがネメアの口元に浮かぶ。
振り向いたナスカが、一瞬驚いたように目を見張り、それから赤い顔で怒鳴った。
「人の後ろ姿見て、ニヤニヤしてるんじゃなーーーーい!」
 
ナスカは上目遣いでネメアを睨みながら、後ろ手で背中や上着の裾をなぞりだした。
乱れていたり、何か変な物をくっつけて歩いているのを見られたとでも思ったのだろう。
実際にナスカは以前藪を通ったとき、背中にトゲのついた草の実を山のように着けていたのに気が付かず、町に入ってから大慌てで払い落としていた。確かその時は「なんで教えてくれなかったのよ!」とえらい剣幕で怒鳴られた覚えがある。
ネメアにしてみれば、別に危険物でもない草の実が着いていたくらいで何だ、という気分だったのだが…。
 
何も着いていないことを確認したナスカは、つかつかとネメアに近付くと、腕を掴んだ。
「離れたところで笑われてると、何か嫌な気分になるわ。早く、行こう。今日中にあの山の麓の村に着かなくちゃ。
そして山を越えるの。あの山の向こうは、まだ冬なんだって…この大陸では、たくさんの季節が一緒に並んでいる
みたい」
そう言ってナスカはまた遠くに目をやった。
さっきまで怒っていたのがまるで嘘だったかのように、透明な眼差しで。
ネメアはその娘を不思議な面もちで見る。
もっともっと遠くへ――ナスカの口癖だ。
この大陸をすべて回ったら、また海を越えて遠くの場所へ、海の果てまでも旅していきたい。
世界の不思議をすべてその目で見るまで、ナスカの好奇心が尽きることはなさそうだ。
ネメアは薄く笑い、娘の背中を追う。
 
もっともっと遠くへ――すべての不思議を見つけるまで。
そう呟く少女そのものが、ネメアにとっては最大の不思議だった。
 
 
TOP