賢者の森
 
 
オルファウスの机の上に、一通の手紙がある。
ほんの数日前に届いたばかりなのに、記された日付は一年前。
長い旅をしてきたことを示すように、クシャクシャになって所々にシミのある手紙。
 
中に書かれていたのは、他愛のない近況報告。
「今、○○という町にいる」
「ここでも冒険者は必要とされている。当分落ち着くつもりだ」
という、実に素っ気ない文章。
「ネメア兄さんらしいわね」
と、エンシャントのギルドから手紙を預かってきたケリュネイアがくすくすと笑った。
 
 
エンシャント崩壊後、事後処理を終え、背負わされた運命全てに決着をつけた息子は、
別の大陸に、新たな道を求めて旅立っていった。
そしてそちらの大陸に到着後、最初に落ち着いた街から便りを出したらしい。
それがどこをどう渡ったのか、ここに届いたのは一年後。
 
ネメアの手紙には、まだ続きがあった。
「こちらは言葉がだいぶ違う。あれは難儀しているようだ」
「通貨の種類が多すぎて、買い物に行くたびにつり銭を誤魔化されたと怒っている」
「先日、あれの言い間違いで親子と間違われたらしい」
 
「あれ」と何下に書かれているのは、バイアシオンを出るときに同行した少女――
いや、今はもう少女と呼ぶのもおかしい年齢だろう。
始めての大陸で右往左往しながらも、元気いっぱいでやっているらしい彼女の事が
どこか微笑ましげに書かれていた。
少し滲んでしまったインクの向こうに、この文を書くときにおそらくは苦笑していただろう、
生真面目な息子の顔が目に浮かぶ。
 
 
 
「なんだ、またその手紙見てたのかい」
何をするともなく手紙を眺めていたオルファウスに気が付き、ネモがひょいと机に飛び乗った。
 
「お行儀悪いですね」
振り払おうとする手を軽くかわし、ネモは鼻先で手紙を突っつく。
「一年も前の手紙なんて、近況報告の意味が全くないな。それを後生大事に何度も読み返すなんざ、お前も普通の心配性な親ばかだって事だな」
「立派な親ばかですよ。親心を揶揄にされると、殺意を覚えるくらいにはね」
にっこり微笑んだオルファウスが、思いがけない素早さでネモを捕まえ、両耳を引っ張った。
 
「イデー!止めろ、男女!」
「おやおや、人にお願いするときの言葉遣いを知らないらしいですね。そんな役立たずの口はここですか?」
さらににっこりしたオルファウスが、今度はネモの上顎と下顎を掴んで上下に大きく開かせた。
 
「イデイデイデ!わーった、わーった、やめろーーー!」
じたばたじたばと爪を振り回し、ようやくオルファウスの手から逃れたネモは、
素早く棚の上に駆け上ると身を伏せた。
油断なく上から自分を見下ろすネモに、オルファウスはくすりと見た目だけは優雅な笑みを浮かべる。
 
「冗談ですよ。もうしませんから、下りていらっしゃい。お茶を入れますから、つき合ってください」
「冗談かぁ?本当なんだか」
お茶とミルクがテーブルに並び、ようやくネモが棚から下りてきた。
「いきなり手を出すなよ?」
胡散くさげにいいながらミルクを舐めはじめるネモに、オルファウスは意味ありげな笑い方をした。
そして自分もお茶を一口飲みかけて席を立つ。
その動作につられたようにネモが顔を上げると、外は残照の最後の一欠片が闇にのみこまれる直前の黄金色に染まっている。
はっきりとした四季の変化に乏しいバイアシオンだが、それでも日暮れは紛れもなく早くなり、
秋の到来を告げていた。
 
室内に明かりを灯し、席に戻ったオルファウスが、ちょこんと顔を上げているネモに話しかける。
「あなたは変わりませんね。一年前も、一年後の今も」
「ガキならともかく、この年で一年ぽっちで変わってたまるか。お前だって、変わらないだろうが」
「おや、私は変わったつもりですよ。ほんのわずか、水滴が岩に穴を穿つほどにゆっくりとした変化ですが、変化は変化でしょう?」
「少なくとも、性格が悪いのはかわっとらんがな」
憎まれ口を叩いてから、一気にネモはオルファウスの手の届かない距離までとびすさった。
が、オルファウスの方は何やら考え込んでいるようで、別に手を出す気配もない。
 
そろそろとネモがテーブルに戻ると、それにさえも気が付いていないように、オルファウスは窓の
外を眺めながら独り言のように言った。
 
「一年経って、あの子たちは今どうしているのでしょうね。言葉はもう覚えて不自由はないでしょうし、
違う場所に移動したのかも知れませんね。騒動に巻き込まれているかもしれないし、困ったことにぶつかったかもしれないし、それでも、きっともう便りをよこすなんて事はないんでしょうね。寂しいことです」
「ずいぶんと殊勝なこと言ってるな。どこかのメロドラマにでもはまったのか?」
オルファウスはネモと視線を合わせた。
身構えたネモに、オルファウスは額を抑える。笑いがこみ上げてきたようだ。
 
「本当にあなたは変わりませんね。おそらく来年になっても、同じような事を言って、
同じような事をしているのでしょう…多分、私も」
「お前は変わったんだろう?来年は、何を言われても悠然としてひたすらレース編みとかしてるかもしれんだろう」
「レース編みの練習台に、あなたが髯を提供してくれるなら、それも楽しそうですけれどね。
…冗談ですから、ここにいなさい」
さーっと窓枠から外に飛び出す体勢のネモに、オルファウスはついに笑い出した。
 
「あなたが言ったように、私だって一年やそこらでは、目に見えるほどの変化はないでしょう。
でも、あの子たちは違う。この一分一秒ごとに何かを得て、そして成長していくのです」
「ネメアがあれ以上でかくなったら大変だな。ここんちのベッドも作り替えなきゃならんだろう」
「その時は床で寝て貰いますから、別にいいんですよ。…って、あなた、わざと意味を取り違えているでしょう」
「ガキ共は育つのが仕事だ。別にお前が今更ぐちゃぐちゃ言うことでも無かろうに」
そろそろと大回りでテーブルに戻り、ネモはまたミルク皿の前に陣取った。
 
「本当に、口が悪いですね。…確かに、その通りですが…。判っていても、思いを馳せたくなるのが、
親心…というものですよ」
「そんなもんかい、俺にはわからんね。少なくとも、あそこまで育ったガキん事で、今更あれこれ思い悩むってのは、暇な証拠だよ」
素っ気なく突き放した物言いのネモに、オルファウスは薄く笑う。
 
「暇…そうかも知れませんね。それでは、私も何か暇つぶしに始めてみましょうかね」
「止めとけ。お前が動くと、きっとはた迷惑なことをしでかすんだ」
「まったく。あなたと来たら、人にどうしろ、といいたいのだか」
オルファウスがわざとらしいため息を付く。
 
「年寄りは大人しくしてなって事だ。はた迷惑な戯れ言でも、はた迷惑な騒動を起こすよりかは、
ちっとはマシだろ」
「あなたは戯れ言につき合ってくれるという事ですか?」
「俺も暇だからな。誰かさんのおかげで」
「責任をとって、こうして世話をしてあげてるでしょう」
「当たり前だ。お前が俺を元通りにするまで、100年でも世話をかけ通してやる」
「それでは、100年後も、あなたを相手に私は戯れ言を言っているのでしょうね」
「話が長いのは、年寄りの証拠だからな。ま、暇つぶしに聞くくらいはしてやるさ」
言うだけ言って満足したらしいネモは、大あくびをしてソファーの上に丸まってしまった。
 
「やれやれ、進歩がありませんね…お互い様かも知れませんけど」
苦笑するとオルファウスは窓の外へ目を向けた。
 
 
――私の子供達。
今はどこにいますか?
ここの時間は、もどかしいほどゆっくりと流れています。
殆ど変わることのなかったここの一年とは裏腹に、あなた達の一年はどれほどのものを
あなた達に与えたのでしょう。
 
次に会うとき、あなた達はどれほど成長しているのでしょう。
歩み続けるあなた達を、私がどれほど誇りに思っているか、どうすれば伝えられるのでしょう。
 
私はここにいて、流れてゆく時間を見守り続けています。
 
いつか――あなた達がここへ戻るときがあるのか、それすらも判らぬ今ではあるけれど、
それでも私はここにいて、あなた達の旅の行く末を見届けたいと願っています。
 
私の子供達。
年寄りの戯れ言と笑いますか?
私がいつか――遠いいつかの再会を心待ちにしているという事。
 
もしも再び、あなた達に会えるのだとしたら。
 
その時は、ここで昔語りをしましょう。
 
あなた達が知らなかった事、そして、私の知らないあなた達の事を思いつくままに。
この世界にただ一つ、あなた達だけの歴史を、語りましょう。