久々に帰った家は、こもった空気と埃で一杯だった。
チャカは急いで家中の窓を開け、新鮮な空気と入れ替える。
明るい陽射しの中で見る我が家は、長く人が住んでいなかったために荒れ果て、まきあがる綿埃と蜘蛛の巣で見るも無惨な有様だ。
「あーあ、前に埃落としたのいつだっけ…」
うんざりとした顔でチャカは井戸端に行った。バケツに水を汲み、掃除の前にまずほったらかしになっていた雑巾を洗う。
「まず天井の埃を落として、…シーツを洗って毛布を干す方が先かな。雨漏りしてないかどうか、屋根も調べないと」
これからやるべき事を次々と頭に浮かべ、チャカはますますうんざり顔になった。
やるべき事が山のようにある。
冒険者として今まで貯めた金を使い、人を雇って家の手入れをさせる、という事は頭に浮かばなかった。
何といっても自分の家だ。自分で守っていくつもりだった。
「家の手入れをして、それから、食い物と、薪を調達しないと。そうだ、皿とコップと鍋を全部磨かなきゃ。やることが沢山ある、何たって、久々の我が家だしな」
あの日、夜逃げ同様にノーブルを後にしたのはもう何年も前になるんだろう。
自分達の運命を変えたエリエナイ公爵は、今はもういない。
もちろん、あの太りすぎの蛙のような代官ももういない。
『ノーブル伯』によって派遣された代理人は実直な男で、私腹を肥やすこともなく、ただ黙々と決まった額の税金を徴収するだけで無理難題をふっかけることもない。
村の人々は、新しい領主『ノーブル伯』の寛大さを口を揃えて讃えるが、その正体がかつて自分達が反乱の首謀者に仕立て上げようとした女だとは気が付かない。
チャカの姉――今はノーブル伯の称号を持ち、ロストールやディンガルの中枢にも一目置かれるようになった娘は、自分の故郷であるノーブルの建て直しに影で尽力しつつも、自分の故郷とは二度と認めようとしなかった。
冒険者として村を訪れることがあっても、けして自分の家には立ち寄らなかった。
そして巻き込まれた大きな戦いを乗り切った今、姉はこの大陸そのものを後にしてしまった。伝説の勇者と共に。
チャカは綺麗になった雑巾をぎっちりと絞り、新しく水を湛えたバケツを手に、家の中へ帰る。そして今度はシーツやカーテンを一纏めにして持ち出し、洗濯盥につけこんで水を入れる。
長く使っていなかった石鹸は小さく固くなり、ヒビまで入っている。
それを濡らして布に塗りたくり、チャカは力を込めて布を揉み始めた。
とりあえず、綺麗になればいい。何度か水をかえ、ぼさぼさとした埃っぽさの消えた布を、洗濯竿に引っかけた。
「いい天気だから、昼過ぎには乾くな」
満足そうにそれを眺め、今度は納屋から梯子を持ち出し屋根にかけた。
慎重に屋根に登り、はいつくばるようにして、ペンキが剥げているところはないか、板に穴が開いているところはないかを調べる。
とりあえず、急いで修理しなくてはならない場所は無さそうだった。チャカはほっとすると、箒を持ってきて煙突の蜘蛛の巣を払った。
仕事で村に立ち寄るたびに、チャカはこっそりと家に戻って簡単な掃除や片づけを繰り返した。姉はそれを知っていたが、止めたりしない代わりに、共に来ることもしなかった。姉にはこの村は狭すぎたのだと思う。
むろん、父母が残してくれた家や畑に愛着がなかったわけではないと思う。でもそれ以上に、村の大人達の示した卑怯な行いが許せなかったのだ。
姉は、この村の住人であることを忘れたがっていた。だが、チャカはそこまで思い切ることが出来なかった。
数年経ってこの村に足を踏み入れたとき、チャカは真っ先に自分達の家に戻った。まるで罪人の家のように窓やドアに板が打ち付けられているのを見て、正直、悔しくて悲しくて仕方がなかった。
それを剥がして中にはいると、そこはあの日、彼等が出ていったときのまま。貯蔵庫には腐った芋やにんじんが異臭を放ち、ネズミに食い散らかされたパンくずがカビだらけになって散らばっている。
チャカは悔し涙を堪えながら、それらのゴミを片付け、裏庭の小さな野菜畑の隅に埋めた。家具にとりあえず布だけかけて宿に戻ってきた弟が目を赤くしているのを見て、気丈な姉は黙って抱きしめてくれた。
姉はあの時、この村の住人に、完全に愛想づかししたのだと思う。自分達に都合の悪いことを、無かったことにしようとしていると知ってしまったのだ。
チャカは数年前の夜を思い出しながら、ふと庭の隅に目をやった。
手入れがなされず雑草ばかりになった畑の一画に、芋やニンジンなどの葉がでたらめに生えている。
あの時埋めた生ゴミ化した野菜から根付いたのだとは思えなかったが、チャカはなぜか嬉しくなった。この畑の手入れはもともと自分がしていたのだ。ひょっとして、収穫されずにほったらかしになっていた物が、毎年勝手に生えてきていたのかも知れない。
(ひょっとして、おれに収穫されるのを待ってたのかな)
そんな気がして、自然と口元がほころぶ。
屋根の上から村全体を見回すと、あの時黄金の実りをつけていた彼等の畑は今はただの荒れ地になっている。
あれを耕すのは大変だ。また一から全部やり直し。
幸い、姉は旅立つ前に大枚の金を残していってくれた。
新しい鍬や麦の種を買ったり、手伝いの男を雇うことも容易だろう。
村に戻るといった弟に向けた姉の苦笑が忘れられない。
――今のお前なら、冒険者としても、どこかの家臣としても、立派にやっていけるのに。何なら私の権限でノーブルの代官にだってしてやれるのに。
全部断って農夫に戻るといったら、姉は寂しそうに苦笑いをして、それから彼の肩を叩いた。
――お前ったら、ほんと、なんでも勝手に決めちゃうんだから。
勝手に決めるのは姉ちゃんの方だろう、と言い返したら、姉は首を振って言った。
――村に帰らずに冒険者になろうって言って、ギルドに駆け込んだのはお前じゃないの。
本当にそうだったかどうかは自分でも覚えてなかったが、続いた姉の言葉は、自分への自信につながった。
――お前はお調子者みたいだけど、大事な事はちゃんと判ってるんだよね。お前が居てくれたから、私は今までやってこれたんだから。
そう言って、姉は手を差しだした。「ありがとう」と言う姉と、初めて、対等な相手として握手をした。後ろでは黄金の髪をきらめかせた勇者が穏やかに見守っていてくれた。ああ、これからは、この人が姉と一緒の道を行くんだ、そう思った。
そう思ったら、それも誇らしかった。
これからこの人が立つ位置に、今までは俺がいたんだと、そう思ったから。
俺は勇者にはなれなかったけど、ちゃんと1人でやっていけるんだとそう思った。
「さーってと、こんな所でぼんやりしてる暇はないんだった。早いとこ、家の掃除をして、それから畑を見に行こう」
チャカが屋根の上でそう気合いを入れたときだった。階下から人の声がした。
「チャカ?チャカちゃん?帰ってきたのかい?」
隣家にすむ主婦の声だった。チャカは屋根の上から声をかける。
「おばちゃん、こっちだよ」
「おや、屋根の上にいたのかい」
母親ほどの年齢の女は、恰幅のいい体を揺するようにして顔を見せた。日焼けした顔ににっこりと笑みを浮かべ、懐かしそうに目を細める。
「……久しぶりだね。なんだか、大人になったねぇ」
「…いや、別に」
チャカが照れて口ごもると、主婦は穏やかに告げる。
「屋根、そんなに傷んでないだろ?嵐とかの後は、ちゃんと見回ってたから」
その言葉を聞いてチャカは急いで屋根をもう一度見回した。
言われてみれば、うっすらとペンキの色の濃さが違う場所や、新しい板に取り替えられている場所もある。
「手入れしてくれてたんだ」
屋根の上に座り込み、そう呟く。主婦はめいっぱい上向きになりながら、屋根の上のチャカに話しかけた。
「あんた達が村を出ていった後、ボルボラが死んで村は平和になった。あんた達ががんばって貴族様にお願いしてくれたからだって、話が流れた。有名な冒険者になって、たくさん人助けをしているって噂もたくさん聞こえてきた。うちの人も後悔していたよ、なんであの時、あんた達を助けようとしなかったのかって。そりゃ、自分達のした事をなんだかんだって理屈を付けて正当化して、認めようとしなかった連中も居たけどさ。でも、心の中で自分を恥じてた大人は一杯いた。今更遅いかもしれないけど、あんた達がいつかあたし達を許してくれて、そして村に戻ってきてくれた時のためにって、畑だって手入れしてたよ」
チャカは弾かれたように立ち上がった。
そして何度目を凝らしても何も無い自分の畑を見て、疑うような目を女に向けた。
「そりゃ、麦は植えてないよ。勝手にあんたらの土地を使うわけにいかないし。でも、ちゃんと季節事に土を耕して、そして肥料もやってた。本当だよ」
慌てて言い訳じみたことを言う女の顔に、チャカは疑ったことが恥ずかしくなる。
「ごめん……でも、俺…」
「いや、おかしく思うのも無理はないよ。でも、畑を見てきておくれ。そうしたらすぐに分かる。土は軟らかくて肥えてる。きっと、来年は豊作になるよ」
自信たっぷりに断言する女の言葉に、チャカは胸の奥が熱くなる。
「……ありがとう、おばちゃん。おじさんにもお礼言わなきゃ」
「何もいう事なんてないよ。お帰り、チャカ。あんたが帰ってきてくれて嬉しいよ…」
女はぐすっと鼻をすすると、前かけで目元を拭った。
今まで長い間チャカが感じていたわだかまりが全て解けていく思いだった。
梯子を下り、神妙な顔で前に立つチャカに、女はぐすぐすと鼻をすすりながらも笑顔になった。
「今日の夕食はうちにお出で。それから、真っ白なシーツと新しい毛布を持ってお行き。あした、家の息子達を手伝いにやるから、そうしたら家の大掃除しようね」
「…うん」
一緒になって鼻をすすりながら、チャカは頷く。何だか本格的に泣き出したい気分になり、その場から逃げ出すようにチャカは言った。
「俺、畑を見てくるよ」
女の返事を聞かずに小麦畑の方に駆け出す。
あの日と同じように黄金にうねる海のような小麦畑。
ぽっかりと空いた彼等の畑は、今は何の実りも無い。
でも手に取った土は女が言ったように十分に手入れされている。
「帰ってきたんだ」
チャカはあふれそうになる涙を拭った。
「帰ってきたんだ。俺は、自分の家に帰ってきたんだ」
家も畑も、そして縁が切れたと思っていた村の人達も、待っていてくれたんだ。
自分の家だ――。
これからは槍を鍬に持ち替え、そして怪物や兵士ではなく、ここの土や自然と闘っていくんだ。
英雄にはなれなかったけど、俺は大事なものを全部取り返したんだ。
「姉ちゃん、俺はここで立派な麦をたくさん作るよ!姉ちゃんがいつ帰ってきても、最高に上手いパンを食わせてやるからな!」
空に向かって、そう大きな声で誓う。
何よりも自分にふさわしい場所。
そこへ戻ってきたと思うと、心が充足感で満たされていく。
チャカは大きく胸を張り、畑の真ん中に立って空を見た。
どこまでも穏やかな青い空が、遙かな彼方までも続いていた。
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