数年ぶりに戻った家の中は、真っ暗だった。
ツェラシェルは、さほど広くもない家の部屋を、1つ1つ探し回った。
兄の訃報を受け、急いで修業先の神殿から帰り着いたのは、兄が亡くなってからすでに2ヶ月も経った頃だ。
ノトゥーン神に仕えるようになってすでに家から出た彼だったが、だからといって家族の情愛が失われたわけではなく、兄と二人の妹が健やかであれと、ずっと祈り続けていた。
その兄のあっけない急死。
騎士だった父の後を継いで叙勲を受けた直後の報に、ツェラシェルは半ば信じられない思いで家に戻ってきたのだが、帰り着いた家は、まるで廃屋のようだった。
「ヴァイ!ヴィア!父さん、いないのか?」
叫びながら、最後に兄が使っていたはずの部屋のドアを開ける。
と、むっと籠もった酒のにおいが鼻をつき、明かりのない部屋の中に、ぼんやりと座り込んでいる人影が見えた。
酒瓶を片手に、座ったまま眠り込んでいる父である。
「父さん!」
そのあまりにも自堕落な姿に、ツェラシェルの中に怒りがこみ上げた。
乱暴に歩み寄り、胸ぐらを掴んで揺さぶる。
父親がどんよりとした目を開けた。
「お前…、戻ってきたのか」
ぼんやりと言って、また酒便に直接口を付けて酒を飲もうとするのを、ツェラシェルは乱暴に遮った。
「何やってるんだ!兄さんが死んだばかりだというのに!ヴィア達はどうしたんだ!」
父は、またどんよりとした目を向けた。
そして、苛立ち、怒っている次男坊の顔に、急に非難するように眦をつり上げた。
ツェラシェルの顔ぎりぎりの位置を、父が投げた酒瓶が飛んでゆく。
「お前が悪いんだ!お前さえ出来損ないの身体でなきゃ、こんな事にならなかったんだ」
砕けた酒瓶の中身が床に広がるのを唖然と眺めていたツェラシェルに、父の情けない声が響く。
「俺がどうしたって…」
非難の意味が分からず、そういう息子に、父はぐだぐだと言い立てた。
「あれが死んで、騎士の称号は取り上げられた。後を継ぐものがいないからという理由で。
この家はもうお終いだ。息子が二人もいるというのに、兄が死んだだけで、もう終わりだなんて情けなさ過ぎる。
代々、騎士の家だったんだぞ…。それもこれも、お前が持病持ちで、騎士になれないからだ…」
酔っぱらった父は、ぐずぐずと言って泣き出してしまった。
ツェラシェルはすっとさめたものを感じながら、それでもなんとか憤怒の思いを押さえつけ、極力穏やかにきく。
「…ヴァイ達はどうした、…妹たちは…」
「金がないんだ。酒を買う金が。それというのも、息子が死んで、騎士の位を取り上げられたから、
金が入ってこないんだ…」
「妹たちをどうしたと聞いてるんだ!」
我慢も限界に近い。ツェラシェルが声を荒げると、父はまたもや言い訳めいたように言う。
「金がないんだ、お前のせいなんだから、仕方ないだろう…、仕方ないんだ…」
「何が仕方ないと言うんだ!」
叫ぶとツェラシェルは家を飛び出した。
このまま父と話していても埒があかない、そう思った彼は隣家のドアを叩く。
この家の夫人は、以前から妹たちを娘のように可愛がってくれていた。
案の定夫人は、ツェラシェルの顔を見るなり、泣き出してしまった。
父は妹たちをわずかな金と引き替えに、旅芸人の一座に売り渡してしまったというのだ。
「なんとかしてあげたかったんだけど、一座の座長が、買い戻すんならって法外な値を付けて、私どもでは
どうしようもなかったの…、ごめんなさい…」
下級騎士の家である。自家の体裁を整え、自分の子供達の面倒を見て、その上でのわずかな蓄えの中から
他人の子供を救うためにどれほど出せるというのだろう。
ツェラシェルは夫人を責める気は毛頭なかった。
ただ自分と、父の不甲斐なさを責めるばかりだ。
彼はとりあえず夫人から聞いた旅芸人の一座の行方を探し回った。
とっくにこの町から離れ、次にいったはずだという場所を聞き、後を追う。
そうやっていくつもの町をまわり、ようやくその一座を見つけたときは、さらに数カ月が経っていた。
◆◆
「さあ、珍しい双子の軽業だ!よく見ていってくれ!」
祭りで賑わう広場で、妹たちは男の指揮に合わせ、飛んだり跳ねたりと軽業の芸を披露していた。
今にも泣き出しそうな顔で芸をする妹たちはすっかりやせ、覚えている頃より逆に小さくなってしまったようだ。
どれほど辛い生活なのかと、ツェラシェルは唇を噛みしめながらそう思う。
暗くなり、人足が途絶えるまで、妹たちはずっと芸を続けている。
食事をしたのかさえ判らない。
やがて人気の無くなった広場で、芸人達がそれぞれ集まりはじめ、大柄な太り気味の中年の男が
彼等が稼いだらしい金をひったくるように集めていた。
おそらくはあれがこの一座の座長なのだろう。妹たちに、犬猫のように鞭を持ってかけ声をかけていた男だ。
突然声をかけてきた少年に、座長は横柄に顔を向けた。
「兄さん!」
妹たちが同時に叫び、ツェラシェルにしがみついてきた。
座長はその光景にわずかに眉を動かしただけだ。
「なんだ、お前、そいつらの兄貴か。なんのようだ?」
素っ気ない男の言葉に、ツェラシェルは大きく息をしてから「妹たちを返して欲しい」と告げた。
男は一瞬、呆気にとられ、次に肩を竦めて大声で笑い出した。
「こいつは驚いた!!俺はこのガキどもを大枚はたいて買いとって、食いもんと着る物を与えてやって、
芸を教えてやったんだぜ?それを返してくれ?どこのお坊ちゃんだ?こいつ」
げらげらと下品な笑い声をあげる男の後ろで、他の芸人達も同様に笑っている。
色合いだけは派手な衣装に、色を塗った食ったような化粧。荒んだ生活が皆の顔に表れていた。
妹たちは兄にしがみつく手に力を込めた。
「むろん、ただとは言わない。礼はする、いくら出せばいいんだ?言ってくれ――」
「一万、だな」
あっさりと言われた額に、ツェラシェルは目をむいた。
とても神官見習いが右から左に用意できる金ではない。
「それは高すぎる!」
思わず叫んだ少年に、男は鼻で笑った。
「だったら帰りな、神官様。俺は数ヶ月かけて、ようやくこの穀潰しの双子を使えるようにしてやったんだ。
他にもっと見込みのあるガキを買ってりゃ、もっと早く稼げたんだ。こいつらの親のために、俺は無理して融通つけてやったんだぜ?その恩を忘れちゃいけねぇな」
――どうせ足元を見たくせに――
そう言ってやりたい思いをツェラシェルはこらえた。隣家の夫人の話では、父は数日で金を使い果たしたらしく、
あちこちの知り合いのところで、食べ物を貰ったりしてたらしい。
こいつのいうような「大枚」だったはずがない。
だからといって、今のツェラシェルにはどうしようもなかった。
彼は力のない、体も弱い少年で、妹たちは10才にもならない。
今、ここで逃げることなど出来るはずがない。
「分かった…、金を持ってくればいいんだな」
「おう、物わかりのいい坊ちゃんだ。そうさ、そういう事だ」
にやりと座長が笑い、強引に妹たちを彼から引き離した。
「お兄ちゃん…」
泣きべそ顔で妹が兄を見つめる。
「必ず金を持って助けにくるから、それまで、頑張るんだ。判るな、必ず迎えにくるから」
悲壮に言う兄の声に、妹たちはべそをかきながらも健気に頷く。
「必ず、必ず、迎えにくるから!」
しきりに頷いていた妹たちの泣き顔が、ツェラシェルの脳裏に焼き付き、消えることはなかった。
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