ロストールの裏門の衛兵が、暇つぶしの大あくびをした。
さっきまでの賑やかな宴が終わり、座興に呼ばれた芸人達が帰ってしまうと、客の馬車で賑わう派手な
表門と違い裏はしんとした物だった。
人気のない場所で、気がゆるんだ兵がもう一つ大あくびをする。
と、暗闇の中から、ぼうっと白い物が彼の前に現れた。
「げ…」
思わず叫びそうになった彼の前に現れたのは、白いヴェールを頭から被った若い女だった。
初々しい端正な顔に、色鮮やかな化粧が施されている。
兵がどきまぎしながら、それでもせいぜいいかめしい声で誰何する。
「先ほど、帰らせていただいた者なのですが、こちらの控え室に忘れ物をしてしまって…」
女はおどおどとそう言って、上目遣いに兵の顔を見上げた。
まだ若いせいぜい10代半ばから後半と言ったところだろう。掠れ声が難だが、なかなか美しい女だった。
「なにを忘れたんだ?なんなら、俺が…」
思わず色気を出した兵士が恩を着せるようにいうと、女は怯えたように懇願した。
「駄目です、自分でとってこいとお姐さんに言われて、もし兵隊さんに頼んだなんて知られたら、『横着した』
って叱られて折檻されてしまう…、お願いですから…」
今にも泣き出しそうな娘に、兵は慌てて宥めだした。
「そういうことなら、判ったから、はいってよし。控え室の場所は判ってるんだな?」
「…はい」
女は頼りなげに頷くと、おずおずと門の中に入っていった。
そして、兵の姿が見えなくなると、素早く木の陰に隠れ、辺りをうかがう。
一座の女の衣装を取り上げて変装したツェラシェルだった。
普段であれば、王宮に忍び込むなどという無謀な選択を避ける所だが、彼はすでにたがが外れている。
――もう自分は人殺しだ。妹たちだって、このままなら、所詮、偉いやつの玩具だ。それくらいなら、いっそ、
兄妹一緒に殺された方がいい――
半ば投げやりに考え、ツェラシェルは建物の影をぬうようにして王宮の中に忍び込んだ。
程なくして彼は宮殿の一角の奇妙な騒ぎに気が付いた。
侍従らしき男達がバタバタと走り回り、その合間に下品な怒鳴り声が聞こえる。
「小娘二人に、なにをしてる、早くとらえろ!!あのクズどもが、痛い目にあわせてやる!!!」
その叫びに、彼は妹たちが逃げ出したのだと判った。
軽業を仕込まれ、身の軽い妹達は、下品な貴族の寝室に連れ込まれた後、、どうにかしてそこから逃げ出したのだろう。走り回る連中は、意地の悪い笑い顔で目配せをしあっている。
命令に従っているふりで、実は間抜けな主をあざ笑っているのが、その表情からはバレバレだ。
(お貴族様なんて言ったって、そこらのスケベ爺とかわりゃしない)
皮肉っぽく笑い、ツェラシェルは妹たちを捜しに動き始めた。
なんとしても連中より早く妹たちを捜そう。
上手くいけば、逃げ出せるかも知れない。
◆◆
「…怖いね」
「うん、怖い」
茂みの隅に隠れ、少女達は震えながら身を潜めていた。
なんだか判らないうちに座長達からはなされ、二人で大きな部屋に連れてこられた。
中にいたのは、陰険そうで人を馬鹿にしたような目をしている男。
怯える少女達に向かい、横柄に服を脱げ、と命令してきた。
本人は派手な柄のガウンを着ていただけだった。
二人してエイヤっとばかりに、近くに飾ってあった花瓶を投げつけ、驚いて尻餅を付いた男がヒステリックに
ぎゃーぎゃー騒いでいる隙に窓から逃げ出したのである。
逃げたのはいいが、その後すぐに大騒ぎになり、少女達は身動きがとれなくなってしまっていた。
「怖い、掴まったらどうなるんだろ」
「どうなるんだろ、牢屋に入れられるのかなぁ」
今にも声を上げて泣きたくなるのを、じっとこらえながら、二人で手を握り会っている。
がさがさという茂みをかき分ける音に、少女達はびくりとした。
怯え、身体がすくみ上がり、手を取り合ったまま、すすり泣くことしかできない。
ざっと茂みが割れ、その向こうから現れたのは――
「お兄ちゃん」
そう呼びながらしがみついてきた妹たちを、ツェラシェルは口に指を当てて黙らせた。
「静かに、みつかっちまう」
泣きながらも、ぴたりと声をだすのを止めた妹たちを、ツェラシェルはそうっとその場所から移動させる。
とにかく人の声がしない方、人が少ない方へと進んだのはいいが、そこは巨大な王宮の中である。
気が付いたときには、かなりの奥にまで入り込んでしまっていた。
「あ、失敗した…、これじゃ、逃げようがない…」
ツェラシェルは唸った。
彼等が出たところは見事な庭と、豪奢な館がある場所だった。
どこから逃げればいいのか、方向を見失い、ツェラシェルは妹たちを抱き寄せたまま途方に暮れてしまう。
「お兄ちゃん…」
泣きべそ声の妹の声。
舌打ちしてツェラシェルは戻ろうとしたが、その時に息が出来ないほどの胸の痛みに襲われた。
長い間の無理に、ついに持病持ちの身体が限界を超えたらしい。
急に膝をつき、うめき声を上げた兄に、妹たちはこらえきれずに泣き声をあげた。
「お兄ちゃん」「しっかりして」
胸を押さえたまま倒れたツェラシェルの霞んだ目に、少女達が泣きわめく顔が見える。
これだけ騒いでたら、すぐに兵達が来てしまう…。
そう思った彼は、妹たちに「逃げろ…」と辛うじて言った。
少女達が首を振る。
「早く、逃げるんだ…」
声が出たかどうかも判らないが、必死にツェラシェルはそう言った。
妹たちはなおも首を振る。
その少女達の後ろから、誰かが近付いてきたのが見えた。
(…終わりだ…)
そう思った瞬間、ツェラシェルは気を失っていた。
◆◆
少し離れた場所で、誰かが押し問答をしている声が聞こえた。
男が訴えている。
「侵入者が入り込んでいるのです」
「この先にいるのは、私だけだ。私のいう事が信じられぬと申すのか?」
答えているのは、毅然とした女の声だ。
「いえ、そう言うわけではありませんが、ルブルグ伯に無礼を働いた者ですので、万が一がありましては…」
「ほう、いつからルブルグ伯の護衛になった?あの者の不始末のために、私の休息の時間を邪魔しようと、
そなたらはそういうのだな?
不愉快だ!即刻立ち去れ!ルブルグ伯も、直ちに自分の館に戻り謹慎するよう、
そう伝えよ!ここはそなたの漁色の場ではないと、そう伝えるのだ!」
冷静ではあるが、雷鳴のような迫力の声に、男は早々に逃げ去ったようだった。
(…凄い女だな…)
何ともなしにぼんやりと考えたツェラシェルは、すべらかなシーツの感触に気が付き飛び起きた。
ベッドサイドにへばりついた妹たちが、泣きながら飛びついてくる。
妹たちを宥めながら、ツェラシェルは唖然と室内を見回した。見たこともないほど豪華な美しい部屋だ。
自分の寝ているベッドのシーツのあまりの白さに、彼は自分の薄汚れた服が急に恥ずかしくなり、
ベッドから出ようと体を動かす。
中に入ってきた女が、可笑しそうにそれを止めた。
「もう少し眠っていたらどうだ、夜食は?いるか?」
見ただけで上流階級の出であると判る威圧感のある美貌に、それ以上に存在感のある雰囲気を持った
女だった。
休んでいたところを起き出したのか、夜着の上にガウンを羽織り、長い髪を三つ編みにして片側の肩にたらしている。その手にはミルクの瓶と、チーズを重ねたパンの皿をのせたトレイを持っていた。
妹たちはためらいもなくパンに飛びついた。
疑うことなくぱくぱくと無心に食べてる姿に、女は満足げに微笑んだようだった。
「慌てる事はない、お代わりならまだある。そうだ、砂糖菓子とクッキーは好きか?」
口いっぱいにパンを頬張った少女達は、女を見やると、何度も首を縦に振った。
女はまた可笑しそうに笑うと部屋を出ていき、間もなく、今度は山盛りの菓子をのせた皿を持ってきた。
少女達は、始めて口にするような美しい菓子に夢中になった。
嬉しそうに歓声を上げながら、次々と口に運んでいる。
目を細めてその様子を眺めていた女は、ふと黙ったままのツェラシェルに視線を移す。
「さて、説明はそなたにしてもらうとするか」
その有無を言わせぬ口調に、ツェラシェルは唾を飲み込んだ。
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