「ちょっと、泊まりじゃなかったの?」
娼婦が大きい声を上げた。
情事を追えた若い客が、いきなり悪魔にでも追いかけられたような勢いで、部屋から飛び出していったからだ。
「ねえ、ちょっと!」
窓を開けると、階下からその客が後ろも見ずに走り去っていくのが見える。
「何よ、失礼しちゃうわ」
若い娼婦はしかめっ面で出ていった客に毒突いた。
「ちょいと、どうしたの?」
「客に逃げられたのかい?」
その騒ぎを聞きつけた同僚の娼婦達が、彼女の部屋を覗き込む。
「違うわよ、ちゃんとさんざん、良い思いさせてやったわよ。ま、お金は前金で貰ってるから良いけどさ」
女は男が逃げ出したのがよほど不満だったらしい。
プライドを傷つけられた意趣返しのように、客の悪口を言いまくった。
「きっとあれ、どっかのお坊ちゃんよ。こっそりお忍びできたのは良いけど、急にママに叱られるのが怖くなって
逃げ出したのよ、きっとそうよ。ふんだ、あたしらみたいないい女より、ままのオッパイの方が恋しいなんて、バカにしてる。まともな男なら、あんな無様な真似するものですか。
ベッドに女を残して逃げ出すような、間抜けなまね」
◆◆
ベッドから逃げ出した間抜けな男――ゼネテスは人気のない路地裏まで来て、ようやく息をついた。
行為の後、けだるげに身体を横たえ、とろりとした目をした女の顔が、彼が殺した若い娼婦の顔に見えたのだ。
彼女は盗賊団の一味で、彼が特別にその事を重荷に感じる必要はないはずだった。
それでも――何かの弾みに女の顔が脳裏に浮かぶ。
白目をむいて血で染まった顔。投げ出された手足。
考えただけで、何か苦いものがあふれそうになる。
「畜生」
ゼネテスは苦しげにうめいた。
面白くもない顔で、冒険者用の安宿に向かう。
本当なら始めての仕事を無事に終え、貰った金でのんびり楽しむはずだったのに。
酒の匂いも、女の肌も、窓際にお愛想で飾られた白い花を見てさえ、あの女の顔を思い出させる。
(こんな筈じゃなかったのに)
なんとなくゼネテスは騙されたような気になっていた。
別に誰のせいでもなく、自分が勝手に決めて、勝手に始めたことではあるが、ゼネテスにとって
『冒険』とは、もっと胸躍るわくわくするようなものだった筈なのに。
いまさら後戻りも出来ず、憮然としたまま宿にたどり着く。
宿の部屋は、大部屋での雑魚寝だ。
ゼネテスは空いた藁布団を見つけ、荷物を抱えて横になった。
いびきや寝言、汗や酒の匂い。いつ洗濯したのか判らない、不潔な毛布。
次にいつ仕事にあり就けるか判らない駆け出しには、分相応のランクの宿だ。
しかし、自分のまわりの何から何までが気に障り、ゼネテスは寝付けずに何度も寝返りを打った。
うとうとしかけては、ぱっと目が覚める。
張りつめた神経は、なかなか眠りの恩恵をゼネテスに与えてはくれない。
ゼネテスが何度めかのため息をついた時、背後から遠慮がちの声が聞こえた。
「…あの…」
ぱっと振り向くと、そこには自分と年頃は変わらないほどだが、ゼネテスよりはるかに小柄で貧相な少年が
おどおどと彼を見ている。
「あの…眠れないみたいだけど…」
少年が卑屈そうな上目遣いで話しかける。
ゼネテスは鬱陶しげに答えた。
「五月蠅かったのか、それは悪かった。気をつけるよ」
それだけ言って、またごろりと横になる。
だが少年は彼の後ろでこちらを見たまま、黙ってその場に留まっているようだった。
イライラしてゼネテスは半身を起こした。
「気をつけると言ってるだろう、まだ文句があるのか」
他の連中を起こさない程度の荒っぽい声で、ゼネテスは少年にそう決めつけた。
少年がびくっとした後、やっぱり卑屈そうにぶつぶつという。
「…そうじゃなくて、…ちょっと頼みがあってさ…俺のこと、…覚えてないかな…」
べそべそと泣き出しそうな声に、ゼネテスは舌打ちして起きあがった。
◆◆
なかなかはっきりと言い出さない少年に焦れ、ゼネテスは少年を宿の外に引っぱりだしていた。
完全に怒ってるらしいゼネテスに、少年はビクビクと小さい体をもっと縮こませている。
うんざりしたゼネテスは、かなり乱暴な口調になった。
「用があるなら、さっさと言え。俺は眠いんだよ」
さっきまで眠れなかったのを棚に上げ、ゼネテスが迷惑そうにそう言うと、少年は慌てて頭を下げた。
「ご…ゴメン…俺…『ネズミ』って仲間内から呼ばれてたんだけど…覚えてないかな…あの隊商に、俺もいたんだ…護衛じゃなくて、下働きだったけどさ…」
「悪いけど、覚えてないな」
意地悪ではなく、ゼネテスは本当にこの少年――『ネズミ』を覚えてなかった。
ネズミはがっかりしたようだったが、それでもありったけの勇気を振り絞ったのか、うじうじしながら言い出した。
「あ…あのさ…こんな事言って、気を悪くしないで…俺、あんたと組みたいんだけど…」
ギロリと頭上から睨まれ、ネズミはますますビクビクしだしたが、それでもなんとか最後まで言い切った。
「あ…あんたさ…新米だって聞いたけど、剣の腕が立つって、傭兵達が言ってたし…俺、一応冒険者だけど、
この通り、ろくに戦えないし…1人じゃ駄目なんだ…だから、俺とくんで欲しいんだ」
ゼネテスはあきれかえった。
「あいにく、俺は人の面倒を見てやれるほど、暇じゃないんだ。仲間が欲しければ、他をあたってくれ」
――足手まといなんているか――自分自身すら、持てあましてるのに――
そうふてくされて宿に戻りかけたゼネテスに、ネズミは必死で取りすがった。
「そんなに足手まといにならないよ…俺、宝箱とか、罠あけは得意なんだ。戦闘はからっきしだけど…
それから、ちょっとなら魔法も使える。役に立つよ、俺は」
その言葉にゼネテスは興味を引かれた。
彼自身は鍵開けなどは、まだできない。魔法も覚えていない…。
立ち止まったゼネテスに、ネズミはここぞとばかりに自分をアピールしてきた。
「頼むよ、俺と一緒なら、きっとあんた、護衛だけじゃなくて、遺跡の探索とか、もっと別の仕事も、受けられるよ。
頼むから――なあ――」
ゼネテスは改めてネズミの顔を見直した。
やせて貧相で、顔全体から気弱さが漂っている男だ。
だが、その表情が、落ち込んでいたゼネテスに密かな優越感を感じさせた。
自分が断ったら、こいつはどうするんだろう――?
自分が拾ってやらなきゃ――。
そうした考えが頭をよぎる。
普段であれば、そう考えた自分を恥じるだろうゼネテスだったが、今はその優越感に縋りたかった。
自分ならこの男を救ってやれる――そう考えることで、自分は強いのだと、そう自信を取り戻したかったのだ。
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