「ふうん…そうか…やられなかったんだ…」
あの臆病なネズミにしては、落ち着き払った声音だった。
「やられちゃいないさ。少しばかりバテはしたがな」
抑える気のない殺気がまともにネズミに降りかかる。
「…じゃ、俺のことも殺すんだ…」
「殺してやるさ、この裏切り者が。恥を知れ」
苦々しげにたたき付けられた軽蔑しきった言葉に、ネズミはきょとんと首を傾げる。
「裏切り者…?変なこと言うね、俺達、仲間だったこと、なかったろう?そうだろう?」
思いがけないネズミの言葉に、ゼネテスの動きが凍り付く。
「だって、ゼネテス、いつだって俺の事…馬鹿にしてたじゃないか…何やったって、何を言ってもさ…。
あんたと組んだのは間違いだったよ。あんたは恩知らずだ、いつだって、自分のおかげで依頼が果たせたって
思ってただろ?」
ふらりと、それまでようやく保っていたゼネテスの身体から、力が抜けた。
後ずさり、ぺたんと尻餅を付いたゼネテスを尻目に、ネズミは立ち上がる。
「…残念だったなぁ、また、別の相手探さなきゃ」
何事もなかったかのようにネズミは言うと、もはや、ゼネテスの事は一顧だにせず、
そのまま、森の向こうに消えていった。
飄々と、何一つ後に残していないような足取りで。
ゼネテスは座り込んだまま、それを見送った。
体中が熱い――じんじんとしびれるような痛みすら、マヒしたように遠く感じられた。
今聞いたこと、ネズミが言ったことが何一つ理解できなかった。
……売られたのではなく、見放されたのか?俺は。
共に旅するには値しないと――そう――見捨てられた……。
急激に喉の渇きが襲ってきた。
ゼネテスは熱病患者のような足取りで、来たときに見つけた湖までなんとかたどり着くと、
倒れるように水に顔をつけ、そのまま直接水を飲み込んだ。
夢中で飲んだ水が気管に入り、苦しさのあまりに湖岸に身体を投げるようにして何度も咳き込む。
その発作もようやくおさまり、――ゼネテスはゆっくりともう一度湖面に顔を向ける。
そこに写っているのは、血をこびりつかせ、青あざだらけで情けない顔つきの男が1人。
ようやく全身の痛みが感じられた。しびれて、重くて、どうしようもないほどの脱力感。
もう指一本動かすのも面倒くさくなり、ゼネテスはべったり座り込んだ姿勢のままで力を抜いた。
奇妙に自虐的な笑いがあふれてくる。
惨めだった。
見捨てられ、顧みられることもない自分が。
金に換えられる以外、価値がない男――そう、判断されたのだ。
その価値すら、自分自身に、ではない。
おそらくは「ファーロスの御曹司」、その地位に対しての価値。
自分自身には、なんの価値もないのだ。
人を見下して、優越感を感じて、他人に対して正当な評価すら出来なかった自分には、
これくらいがふさわしいのだろう。
(結局、俺は何をやっても中途半端だったんだ。
貴族としても、冒険者としても、どちらでも覚悟が足りず、不満ばかりでふらふらしていた
どうしようもなく価値のない男――それが自分だ)
惨めさに、泣くよりも笑いがこみ上げてくる。
小さくて、どうしようもない自分。
その存在なんて、簡単に無視できる程度の小さな男。
その証拠に、――この世界は何一つ変わらない。
跳ねた魚が水面に綺麗な波紋を造り、水鳥が泳ぎ、岸辺には鹿たちが水を飲みに訪れる、平和な美しい光景。
自分が嘘っぱちの優越感に浸っていたときと、今と、少しも変わらない。
この先では死闘が繰り広げられ、命を落とした男達がいて、自分は傷だらけで動くことも出来ずに、
惨めさにどうしようもなくなって、世界ごと消えてしまいたいと、どれだけ願ったとしても、この光景は変わらない。
自分がどうなろうと――たとえ、死んだとしても、何一つ変わらないんだ。
不意に、涙があふれてきた。
目の前に広がるのは、穏やかな湖。
彼等の間にも、生死をかけた戦いが行われている筈なのに、そこにある生き物たちにはまるで揺らぎがない。
いつでも変わらずに、水は水であり、魚は魚であり、鳥は鳥として存在している。
人としてすら見てもらえなくなった自分とは大違いで、彼等は常に彼等として存在しているのだ。
……どうして、自分はこんな風に生きられないのだろう。
どうして、自分は自分であると、そう自信を持って言えるような存在になれないのだろう。
ぼんやりと水面を眺めるゼネテスの脳裏に、意識するともなく、様々な出来事が思い出される。
逃げるように家を出て冒険者ギルドに飛び込んだ日のこととか。
母のサロンで見聞きしたことに、胸がむかつくほど嫌気が差したこととか。
「王女の婚約者」である自分におべっかを使う他の貴族と話をすることが、叫び出したくなるほど辛かったとか。
思い起こせば、嫌な記憶しか残っていない自分の過去。
それ自体を変えたくて、変えるために、他人に縛られない自由を手に入れるために、家を出てきたのに。
目のはしに、小さな白い花が写る。
あの日以来、目にしたとたんに気分が悪くなった白い花。
血まみれの娘の死に顔に恐怖を感じ、自分が何をしたのか、まっすぐに見据えることが怖くなっていたが、
あの瞬間、自分は間違いなく選んでいた。
生きるために戦うことを。
涙をこぼし続けるゼネテスの中で、何かが壊れ、そして突き抜けていく感触があった。
長い時間、動かずに湖面を見つめ続けていたゼネテスは、ゆっくりと立ち上がった。
どこか惚けたような瞳に、ゆっくりと光が戻る。
ゼネテスは顔を上げると、自分自身に言い聞かせるように心の中で告げる。
今まで知らなかったこと、知ってしまったことを嘆くのは、もう止めよう。
誰かが変えてくれるのを、変われる時が来るのを、ただまっているだけでは、永久にこのままだ。
こうありたいと願う自分になるためには、自分が変わらなければ、何も始まらないのだ。
自分の小ささを、愚かさを、飲み込んだまま、いつか自分は自分であると、そう自分自身で
思えるように、俺は自ら選ばなければならない――自分が生きるべき世界を。
身体が急な動きに悲鳴を上げる。しばらくの休息が必要だと、それでも、もう少しだけなら無理がきくと、
身体がゼネテスに知らせてくれる。
自分自身がうだうだと迷っていた間も、身体は生きるために成長を続けていた。
いくつもの実戦をくぐり抜け、無意識であっても剣を握り、生きることを望み続けている。
それこそが自分の望み。
なんのてらいもなく言える、自分の本当の願いだ。
自分自身の力で、生き抜ける強さを持つこと。
「俺は大丈夫だ――」
ゼネテスは穏やかに呟いた。
その言葉は、自分自身を楽にしてくれた。
「俺は大丈夫、――生きていけるさ、どこでだって、そして」
言い聞かせる言葉は自分の中で真実となる。
そうあろうと、自分が望む限り、その言葉は自分を支え続けるはずだ。
「俺は強くなる――揺るぎない自分となるために」
まっすぐに前を向くゼネテスの顔に、今までとは違う何かが表れていた。
せこせこした言い訳――マイゼネさん、全作共通の捏造過去です。くら〜〜いくらい少年時代ですね(笑)。この人の台詞の端々に、なんとなく挫折の影を感じてしまいまして、少なくとも、みた目通りの人ではないだろう(単なる酒好きで明るい豪快なにーちゃん)という事で、このような過去を捏造してみました。貴族社会って見た目は華やかで優雅だけど、その実態はドロドロのゲロゲロ…というのは、これは庶民の歪んだ見方では無い筈。ある種ゼネさんは貴族としての不適応者だったのでは…というのが、私なりの見解だったりします。
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