◆ 真冬の怪異譚 3 ◆


カラリと障子が開いた。
足音が聞こえなかった事をいぶかしみながら顔を上げた睡骨は、そこに立っていた蛇骨の顔色の白さにぞっとなる。 白い等という段階を通り越して、血の気の失せた、まるで蝋のような色合いだ。
「おい…何かあったのか?」
思わず尋ねる睡骨に、蛇骨は物憂げに視線を向けると、そこだけ赤く色の残る唇を僅かに開き、「別に、何も」とだけ答える。
まるで納得の出来る答えではないが、蛇骨はふわふわとした歩き方で自分の寝床に行くと、そのまま睡骨に背を向けて掛布の中に潜り込んでしまった。

火鉢が置かれて暖まった部屋が、急に外の寒さにすり替わったような心地がした。
背を向けた蛇骨はぴくりとも動かず、息をしている気配も感じられない。
胸の内が波立つ様に横になる気にもなれず、睡骨は火鉢を傍らに引き寄せ、柱に凭れて座った。そのまま小さく頭をふり、腕組みをする。眠るつもりはなかったのだが、夜が更けて行くにつれ物音ひとつしない静けさに、一瞬、意識が飛びかけたらしい。頭が前に崩れかけ、その動きで目が覚める。
だが目を開けはしたもののはっきりと目覚めきっていない頭は、最初に目に入ったものがなんなのか、すぐには認識してはくれなかった。
濡れた黒い瞳と、赤い唇が目の前にある。
僅かな時間差でそれの正体が分かった睡骨は、思わずそれを押しのけようと手を挙げた。が、その手がやんわりと押さえられる。
すぐ間近で顔を覗き込んでいた蛇骨が、ぼんやりとした笑みを浮かべた。
『……そう、邪険にするものではない…』
その唇から聞こえたのは、本来の蛇骨の声よりもか細い。
睡骨はびくりとした。立ち上がろうとした身体が、まったく自由にならないからだ。
意識は蛇骨を押しのけ、その場から逃れようとしているのに、実際の身体はまったくその場から動かず、指一つあげることも叶わない。声も出ない。
一体何が起きたのかと惑乱する睡骨に、蛇骨はくねりとした動きで首を傾げ、くすくすと笑いかけた。

『なぜ、そうも嫌そうな顔をするのじゃ?妾ではそれほど迄に不足と申すか?』
その手が睡骨の身体を押す。木像のようにごろりと仰向けに倒れる身体に蛇骨は馬乗りになり、顔を寄せた。
いや、これは蛇骨ではない――そう睡骨は思った。
声も話し方も、全てが自分の知っている蛇骨ではなく、完全に見知らぬ『女』のものだ。
蛇骨の身体を乗っ取った『女』は、片手で自分のまだ湿り気が残る髪をなで上げた。輪郭を露わにした顔そのものが、蛇骨本人の物とは違って見える気がして、顔を強ばらせる睡骨に『女』は可笑しそうに笑う。
睡骨の頬から顎へと手を滑らせながら、からかい口調で言った。

『そうも怖い顔をするではない。別に危害を加えようと言うのではない』
『女』は唾を飲み込んだ睡骨の顔から胸へと指を滑らせ、うっとりと呟く。
『…逞しい胸じゃのう…若い男の匂いじゃ…若くて、健康な男の…』
ちろりと差し出された舌が、睡骨の頬を舐める。
毒蛇に舐め回されてるみてぇだ、と自由にならない身体に苛立ちながら睡骨は思う。滑らかに動く手が睡骨の胸の合わせを広げ、『女』は首から鎖骨へと舌を移動させていく。じっとりとした愛撫が進むにつれて男の全身に鳥肌が立つのを見て、『女』は忌々しげに顔を歪ませた。
『そこまで妾を厭うのか?』
『女』が屈辱を感じている事を判り、睡骨はざまあみろ、と思った。
そう思った瞬間、呪縛も解けたのか声を詰まらせていた喉のしこりも消え、睡骨は嘲笑混じりに言い放った。
「わらわだか何だか知らねぇが、男日照りが過ぎて勃たせ方も忘れちまった女の口説きは気色悪いんだよ」
その下品な挑発に『女』は不快げに眉根を寄せた。
『…下郎ごときが、妾を侮辱するか』
「その下郎に乗ったはいいが、その気にさせることも出来なかった惨めな女はどいつだ。てめぇが勝手に使ってるその身体の主はな、男をその気にさせるのは馬鹿みてぇに得意だったってのによ!」
『女』の顔が強ばった。もともと血の気の失せた白い顔がまだ白くなり、生きている人間の顔だとは思えない。ましてや、本来の蛇骨は人一倍表情の変化が激しかった。真っ白く色を塗りつけた面のようになった顔が、蛇骨の物だとは信じられないほどだ。

『……そうか…それほど迄に、妾と床を共にするのが嫌か…』
『女』は睡骨から離れ、立ち上がった。
『そなたもあのお方と同じじゃ…妾よりも、色子の方がましじゃという…』
不意に哄笑が起きた。喉を大きくのけぞらせ、笑いながら独白する『女』に、睡骨は怖気を振るった。
『初めから妾を拒んでいたくせに、その理由を妾の所為にする!なんという卑しい心根じゃ!それもすべては、この色子のために!』
叫ぶなり裾を翻し、蛇骨は部屋から飛び出していく。
睡骨は、奥歯を噛みしめるようにして指先に力を込めた。ひくりと手が動く。続いて、腕が上がり、睡骨は重苦しくなった身体をなんとか起こすことに成功した。頭の芯に何かが詰まったように、思考がはっきりしない。だるくて上手く動かない手足を無理矢理動かし立ち上がった睡骨は、壁に縋るようにして蛇骨の後を追った。
何が何だか判らないが、気のせいなどではあり得ない。
蛇骨は、何者かに取り憑かれている。
薄気味悪い『女』だ。それもおそらくはかなり身分のある女。
稚児か何かに亭主を寝取られ恨みに凝り固まった女が、よりにもよって男である蛇骨に取り憑くとは、その妙な成り行きに睡骨は声を上げて笑いたい気分になった。

ばしゃんと、湯を大きく叩く音が聞こえ、睡骨は湯殿へ向かう。
引き戸を開けた瞬間、睡骨は目にしたものに喉奥で詰まった声を上げた。
無双窓の隙間から差し込む白い雪明かりの中、湯の中から突き出ている一本の腕が見えた。
苦しさに縋る物を求めるように、指が忙しなく動いている。
湯の中を覗き込み、睡骨はさらにぎょっとなった。
湯の底には蛇骨が沈んでいた。目を見開き、半開きの口からは空気の泡が零れている。片手は苦しげに空を掻き、もう片手は自分の身体を底に押しつけるように首をギリギリと締め付ける。
考える余裕もなく睡骨は湯に飛び込むと、底に沈んだ蛇骨の身体を抱え上げた。腕の中で蛇骨が苦しげに咳き込みながら、荒く息を付く。
「おい!」と呼びかけながら、睡骨は蛇骨を揺さぶった。放心しきった顔を上げた蛇骨に、何から問えばいいのかと、睡骨は一瞬口ごもる。
ぼんやりと視線も定まらなかった蛇骨の顔が、いきなり鋭くなった。睡骨の隙を窺っていたような素早さでその首に両手を回すと、自分の体重を掛けて一気に湯の中に倒し込む。
大きな湯柱が上がり、湯船の中で蛇骨は睡骨の身体に馬乗りになって首を締め上げた。
凄まじいほどの力だった。
苦しさに耐えながらその手を振り解こうと藻掻く睡骨の目に、自身の全身も湯の中に沈めた蛇骨の顔が見える。
苦しさも感じていないのか、平静そのものの顔の周りを長い黒髪がたゆたう。不気味で、そして不可思議な静謐。

その異様な雰囲気に一瞬飲み込まれかけた睡骨は、腕を伸ばして湯船の淵に手を掛けると、気力を振り絞って一息に身体を押し上げた。
湯船の外に逃れ、暴れる蛇骨も引っ張り上げる。なおも湯の中に引きずり込もうというのか、襲いかかってくる蛇骨を、睡骨は殴り飛ばした。疲れと得体の知れない物への嫌悪感からか力の加減がきかず、力まかせに殴られた蛇骨の身体は湯殿の板壁を突き破って外に転がり出る。
途端に吹き込む冬の夜風に、濡れた身体は一気に体温を奪われていく。
睡骨は息を整えながら、壁に開いた穴から外へ出た。
蛇骨を屋敷の中に連れ戻さないと、凍え死んでしまうと思ったのだ。
積もった雪の上に人1人が倒れたとおぼしき窪みが残っているが、人の姿はない。
睡骨は、辺りを見回した。

白く雪に覆われた木々の間に、何か光る物が閃いた。
ふらふらとそれを目で追った睡骨は、蛇骨がそこに立っているのに気が付いた。濡れた長い髪には、すでに白い霜がまとわりついている。
ぼんやりと雪の人形じみた顔で立つ蛇骨は、あの唐櫃の奥にしまい込まれていた筈の打ち掛けを纏っていた。

「蛇骨…」
睡骨が声を賭けた瞬間、蛇骨はぱっと打ち掛けの裾を捌き、森の奥へと駆けだしていってしまった。


後を追おうとした睡骨の背後で、音を聞きつけてきたらしい下男の悲鳴が聞こえた。男は壁の穴から蛇骨の姿を目にして、腰を抜かしかけたらしい。
「ひいひい」と言葉にならないあえぎだけを繰り返している。
睡骨は冷えた身体をぶるっと震わせると、大股で壁の穴から湯殿へと戻った。
そして腰を抜かしている下男を引きずりながら、自室へと向かう。
この濡れた着物のままで雪の中を歩き回るのは、自殺行為に等しいという判断からだ。

睡骨は、考えるのが好きではなかった。言われた事を言われるままにこなす事の方を好んでいた。別に知恵が足りないとか、考えることが出来ないと言うわけではない。ただ、突き詰めて何かを考えたり、自分の判断で物事を片付けようとすると、自分の中の自分の物ではない知識や価値観に行き当たりそうになる。それが嫌だった。睡骨は、考えることをあえて止め、兄貴分達の道具として扱われることを望んでいた。
だが、今はそうはいかない。するべき事を指示してくれる者は誰もおらず、何もしないでいるには事態が切迫している。
自分がやらなければいけないのだ。
睡骨は濡れた着物を脱ぎ捨てると、とにかく手の届くところにあった着物に着替えて袴をつけ、下男が普段着ている毛皮の袖無しを上に羽織り、かぎ爪を持つ。
そしてまだ怯えている下男に鋭く言いつけた。

「松明を用意しろ。それから、蛇骨の着物を二、三枚持って、おれの後を追いかけてこい」
「は、はい」
やるべき事がはっきりとしたため、男は一応の落ち着きを取り戻したようだった。急いで竈の種火を熾しに走っていく様を見届け、外に出た睡骨はそこで息を飲んだ。ほんの僅かな間に風が強まり、地吹雪が起きていたのだ。
白く吹き上げる雪に視界が効かなくなる中、さっき蛇骨が消えた場所まで戻ると、森の奥まで打ち掛けの裾を引きずった跡がかろうじて見て取れる。
睡骨はその僅かな跡を頼りに、森の中に踏み込んでいった。



亡霊遊戯場に戻る 妄想置き場に戻る