◆ 真冬の怪異譚 4 ◆


強い風が間断的に積もった雪を吹き上げる。
前が見え辛いのも確かだが、僅かな跡が今にも消えてしまいそうで、睡骨は内心でかなり焦っていた。
雪は膝の下まで積もっていて、所々にある吹き溜まりに足が取られそうになる。足袋無しで草履を突っかけただけの足先は、冷えて感覚が無くなりつつあった。雪上に残っているのは、打ち掛けを引きずった跡だけで、不思議と蛇骨の足跡はない。引きずった裾に足跡が消されただけだろうとは思うが、まるで蛇骨本人が消えてしまったような錯覚に、睡骨は胃のあたりにずしりとした重苦しさを感じる。
前方で木の枝から雪の固まりが落ちる音がする。
風が止み、視界がはっきりしてきた。夜だというのに雪明かりで辺りが白く浮き上がって見えるのが、妙に不気味だった。
そこには、、一本の大きな朽ち木が立っていた。
枝が折れ、幹は中心から亀裂が入り、完全に枯れ果てているその木の前に、蛇骨はぼんやりと立っていた。
睡骨の気配に気が付いたのか顔を上げるが、表情はなく視線も定まっていない。虚ろに顔を向ける蛇骨に、睡骨は慎重に近付いた。真正面に立ち、真っ青なその頬に躊躇いがちに触れる。氷のような冷たさに睡骨はぞっとなった。蛇骨がゆっくりと手を上げ、離れようとする睡骨の手を押さえる。
一歩自分から近付く蛇骨に、睡骨は何か不穏な物を感じた。
「蛇骨…」
そう名前を呼んだ瞬間だった。蛇骨は打ち掛けから覗く両手を睡骨の身体に回し、しっかりと抱きついてきたのだ。


蛇骨の腕にギリギリと力がこもる。睡骨の両腕は蛇骨の腕の内側に押さえ込まれ、身じろぐことも出来ない。腕ごと胴を締め上げてくる蛇骨の力は恐ろしく強く骨が軋む音までが聞こえる気がして、睡骨は低く呻く。
その眼前で、蛇骨が苦しげにのけぞった。目を固く閉じ、僅かに開いた口から喘ぎ声のような息だけが漏れる。
締め付けてくるのは蛇骨の腕ではなく、その身体に纏った打ち掛けなのだと、咄嗟に睡骨は悟った。締め付ける力が強まる中、蛇骨は睡骨以上に全身を圧迫され、締め上げられて、息をすることさえ出来なくなっていた。
痛みを堪え、睡骨は腰にヒモで下げていたかぎ爪を指先でまさぐった。
今や打ち掛けの大きな袖全体が生き物のように睡骨の身体を抱きしめている。
蛇骨が小さく悲鳴を上げる。閉じていた瞳が開き、苦しさに涙が盛り上がる。必死でかぎ爪を手にしようと藻掻く睡骨の耳に、振り絞るような蛇骨の声が聞こえた。
「……苦しい…」

――助けて――そう唇が動いたように見えた。睡骨の手がようやくかぎ爪を探り当てる。がっちりと抱き込まれた腕は殆ど動かすことが出来ず、睡骨は手にした爪を手首だけで操り、鋭い爪先を打ち掛けの布地に引っかける。ピシッと絹糸が弾け飛ぶ音がした。布地を僅かに切り裂いた、と思った一瞬後、蛇骨の身体が打ち掛けに引きずられて、睡骨から離れる。
睡骨は飛び付いて蛇骨を捕らえると、その背の縫い目にかぎ爪を立てて打ち掛けを真っ二つに切り裂いた。

蛇骨の体が大きく揺れた。ふらりとよろめき、倒れ込んでくる蛇骨の腕から、抜け落ちた打ち掛けの残骸が雪の上に広がる。睡骨は蛇骨を抱え起こした。ひくひくと波打つように何度か痙攣を繰り返した蛇骨が、僅かに目を開けた。苦しそうに喘ぎながら顔を顰める仕草は、間違いなく蛇骨本人の動作だった。
「…おい…」
短く声をかけた睡骨の袖を蛇骨はぎゅっと握りしめた。
よほど苦しいのか、ひゅうひゅうと荒い息を繰り返すだけで声が出ない。目の端から涙が流れる。蛇骨は喉を鳴らして唾を飲み込むと、唇を噛み締めて目を閉ざした。
「ったく、ちくしょう」
舌打ちして抱き上げようとした睡骨の目の端で、何かが雪の粉をまき散らして浮き上がる。
顔を向けた睡骨の眼前に、切り裂かれたはずの打ち掛けが、元通りの姿で空中に浮かんでいた。
再び強まりだした風が睡骨の足下の雪が舞い上げ、遠くで雷鳴が響く。
蛇骨は殆ど意識がないらしく、ぐったりとした身体は驚くほど冷たい。雪の上に零れる長い髪の先が凍り付き、唇の色は紫に変わっている。
これ以上、この得体の知れない怨念に関わっていると、本当に死んでしまうかも知れない。忌々しさが恐怖に勝り、睡骨はすっと冷静になった。
打ち掛けを真っ正面に見据えて膝立ちになり、蛇骨を抱えたまま一歩分だけ後ろに下がる。
ふわりと浮き上がった打ち掛けが、勢いをつけて二人に向かって急降下してくる。睡骨は手にしたかぎ爪を投げつけた。
打ち掛けの真ん中を貫いた爪は、そのまま空を飛んで背後にあった朽ち木に打ち掛けごと突き刺さる。雷鳴と同時に眩しい光が辺りを照らし、天空から落ちた雷が木に突き立った鋼の爪を直撃した。
派手な音と同時に火花が辺りに飛び散り、睡骨は咄嗟に蛇骨の身体を庇って地に伏せる。燃え上がりながら左右に倒れる幹の重さに引きずられ、太い根が地中から雪と凍った大地を割って現れる。轟音が辺りに響き、白い雪が炎の赤に染まった。

すぐ近くで悲鳴が上がった。雪の上には、あちこちに飛び散った火が残る。そこに、松明を放り出し腰を抜かして、震えながら念仏を唱える下男がいた。睡骨は背後を振り向いた。完全に倒れた朽ち木は周囲の若木も巻き添えにして巨大な松明のように燃え続けている。睡骨はごくりと唾を飲み込んだ。

地中から現れた太くて長い根は、一体の白骨を抱え込んでいた。
長い黒髪がまだまとわりつくその白骨は、太い根に支えられ、地に伏せた睡骨達を睥睨するように天に向かって直立している。
そしてそれは――金糸銀糸で織り上げた真新しい晴れ着の打ち掛けを纏っていた。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


正月が開けて数日後。
蛮骨と煉骨が戻ってきた。
以前の世話係とは違う下男が迎えに出たことをいぶかしく思うこともなく、二人は屋敷内へと入る。
「……静かだなぁ、あいつ等、みんな遊びにいっちまったのかな」
蛮骨が不思議そうに言うと、新顔の下男が蛇骨が年末からずっとふせっていることを告げた。
「へえ、あいつが具合を悪くしてるって?」
「馬鹿は風邪を引かないって言うが、たまには引くこともあるか…」
等と呑気な事を言いながら蛇骨の部屋にやってきた二人は、そこで見た蛇骨の顔に思わず声を上げた。
「お前、どうしたんだ!」
「……え?」
蛇骨が力無い声を上げる。彼は布団の上に身体を起こし、睡骨に手渡された薬湯をすすっている最中だった。蛮骨が驚くのも無理ないほどに顔色が悪い。蛮骨は急いで枕元に膝をつくと、蛇骨の額に手を当てた。
「熱があるじゃねぇか。どうしたんだ、腹でも出したまま寝たのか?」
「……わかんねぇ…気が付いたら気持ち悪くて…」
蛇骨は気分が悪いのと、薬湯がまずいのとで、泣きそうな顔つきになった。煉骨が物問いたげに睡骨を見る。睡骨は言葉少なに、「さあ、急に具合が悪くなったらしい」とだけ答えた。
蛇骨は一連のことを何一つ覚えていなかったのだ。


――あの日、下男の知らせを受けて寺から来た数人の坊主達の手により、あの白骨体は運ばれていった。どうやら、彼等にはあの白骨体の正体について漠然とではあるが心当たりがあったらしい。錯乱状態だった下男はその日のうちに本殿に引き取られ、代わりに何も知らない男が回されてきた。壊れた湯殿の壁板も修理された。そして翌々日、戻ってきた住職によって睡骨は全てのことについて口外しないよう頼まれたのだ。
蛇骨が何も覚えていないこともあり、口外しないのは別に構わなかった。だが、住職達が知っている内容を黙っている事だけは許さなかった。
さんざんな目に遭わされた上で蚊帳の外に置かれるなど、あまりにも人を馬鹿にした話だと思ったのだ。
初老の住職は口重く話し始めた。
あれは先代城主の、紛れもなく正室の死体であると――。

先代城主がこの寺の離れ家を好んで訪れたのは、療養のためではなく、この寺にいた稚児小姓に惚れ込んでいたためだった。口実を設けてはここで二人きりの逢瀬を楽しんでいたのだが、それに耐えられなくなったのが、嫁いできたばかりの妻だった。
西国から来たその妻は没落したとはいえ、れっきとした公家の姫であり、家の格を上げるためだけの政略結婚だった。先代は馴染みの稚児小姓に夢中で、この気位の高い妻を顧みることもない。
ある日妻は、療養の名目でここへ来ていた夫の、見舞いを口実にこの寺へ来た。そして陽が暮れてから、こっそりと用意された本殿の部屋から抜け出してここを訪れ、湯殿で痴戯にふけっていた二人に逆上して乱入。小姓を殺そうともみ合う弾みに、逆に湯の中で溺死してしまったのだと言う。その事を寺の人間が知ったのは、二人が正室の遺体をどこかに埋めてしまった後だった。どんな理由があれ、色恋沙汰で正室が死んだとなれば、その責任の一端でもある小姓が死罪になるのはもちろん、この寺も責任を問われるのは間違いない。そう考えた城主と坊主達は、小姓を正室の身代わりにして寝込んだ真似をさせ、侍女達を先に帰して事態を隠そうとした。

だが、そんな浅はかな計画が長く続くはずもなく、事態が明らかになった時の恐怖感からか、それとも罪悪感からか、小姓は10日も経たないうちに、病で亡くなってしまったのだという。住職を初めとした数人の重鎮が、事の次第が明らかにならないよう城主から命令を受け、この小姓を正室と偽って納棺、菩提寺に運び込んだ。棺は中を調べられることもなく埋葬された。それから間もなく城主本人も亡くなってしまった。
それで全てが終わった筈だったのだ。
先代のこの不祥事は、今の城主はまったく知らないのだという。もしも、あの遺体がすでに供養された筈の先代の正室だったと知れたら、今後の寺の存続も危ない。住職は、畳に額をこすりつけるようにして、睡骨に頼み込んだ。あの死体は、寺に縁のある人物として丁重に葬るゆえ、何も知らないままにしていて欲しいと。

真相を知った今となっては、それ以上どうこうする気もなかった睡骨は無造作に頷いた。ただ、御仏に仕える僧などとご大層なことを言っておきながら、所詮は今の暮らしを守りたいだけの俗人なのだと、腹の中で嘲笑っただけだった。

睡骨が口をつぐんでしまった今、蛇骨は自分に何が起こったのか、今も知らないままだ。
ただ、あの日以来、高熱を発して今も床上げが出来ない状態が続いている。
苦い薬湯に辟易し涙目になる蛇骨に、蛮骨が慰めるように言った。
「水飴貰ってきてるから、それを混ぜてやるよ。甘くなれば、少しは飲みやすくなるだろ?」
こくこくと頷く蛇骨から薬湯の入った椀を受け取り、その顔を改めて眺めてから蛮骨はぼそっと呟く。
「本当にすごい顔色だな」
「……そうなの?ここんとこ、顔見てねーからわかんねーや」
「鏡はどうした?」
「わかんねー。壊れちまってたみたい」
「それもわからねぇのか、困ったヤツだな」
煉骨がため息を付きながら言う。
「まあ、いいや。そのうちにどっかから調達してやるから。とにかく、寝てろよ」
その蛮骨の言葉にこくんと頷き、蛇骨は布団に横になる。その掛布を整えてから、蛮骨は椀を手に立ち上がった。
「えーと、水飴、どこに置いてきたんだっけ」
「下男に渡しただろう。とってくるか?」
そう言う煉骨に、蛮骨は首を横に振った。
「良いよ、おれがやるから。お前は好きにしな。睡骨も、ずっとついてたんだろ。休んでていいぜ」
煉骨は頷くと、睡骨を促して立ち上がった。

部屋を出る前に蛮骨が蛇骨に小声で何かを言っている。閉めかけた障子の影で睡骨は一瞬耳をそばだてかけ、なぜそんな事をしようとしたのかと自分で自分に腹を立てたような顔つきになった。煉骨が奇妙な顔でそんな睡骨を見る。睡骨は気を逸らそうと、城での仕事で何か面白い事はなかったのかと尋ねてみた。煉骨は僅かに考え込む顔つきで、盆の窪に手を当てる。
「面白いというか、奇妙な事はあったぞ」
「どんな?」
「先代の法要の時だ。おれ達は寺の外で警護していたんだが、その時、空を火のついた着物が飛んでると言い出したヤツがいて、ちょっとした騒ぎになったんだ。そのすぐ後、今度は本堂の方で大騒ぎだ。先代の位牌が二つに割れて燃え上がったんだそうだ」
僅かに目を見開いた睡骨に、煉骨は肩を竦めて「まったく、世の中、変なことがあるもんだ」とだけ言う。実際に自分の目で見ていないので、半信半疑の様子だった。
煉骨が自室へ下がった後、睡骨は廊下に立ったまま、1人ぞっとする物を感じていた。

夫に顧みられることなく、無惨に命も身体も見捨てられた女は、自分を裏切った夫への恨みをついに晴らす事が出来たのだろう。自分達は結局のところ、その復讐の手助けをさせられただけなのだ。
(ったく、いい迷惑だ)
憮然としながらも睡骨は、ようやく全てが終わったのだと思った。

蛇骨の部屋の方から、蛮骨の声がする。それから、具合が悪いのをいいことに甘ったれている蛇骨の声。それに答える蛮骨の声も、子供をあやしているように甘い。
とりあえず蛇骨のお守りからも解放され、せいせいした気分で睡骨はその声に背を向けようとした。が、出来なかった。
睡骨は二人の声が漏れ聞こえるその場から、なかなか立ち去ることが出来ない。何が引っかかっているのだろう、と思う。
そうして、ふと気が付いた。全てが終わったという事が、どういう事なのか。

つまりは――あの腕が救いを求めて自分にしがみついてくる事は、もう無いのだ。

そう考えたとき、睡骨は胸の奥に小さな空洞が出来たような気がした。



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