◆ 簪  前編◆


「蛇骨!」
普段は冷静な煉骨の怒り狂った声が響く。
土間に愛用の大鉾を立てて磨いていた蛮骨は、真っ赤な顔で外をのし歩く煉骨に目をやった。気配に気が付いたのか煉骨も蛮骨を見る。そして目が合うなり棘のある声で言った。
「大兄貴、蛇骨のバカ、見ませんでしたか」
「見てねえよ、何したんだ?」
蛮骨は絹布で大鉾を研き続けている。
「あのバカ、自分で零した髪油を、わざわざおれの文机の上にあった紙で拭きやがったんです」
「別に紙ならいいじゃん」
「紙って言っても、新しい砲筒に仕込む火薬の量の、計算式をまとめておいた紙です。おかげで最初からまたやり直しだ!」
煉骨はギリギリと歯ぎしりをする。
「あのクソ馬鹿野郎、とっつかまえたら、今度こそクソもミソも区別つかねぇようなカス頭に文字をたたき込んでやる!」

息巻きながら煉骨は別の場所へ探しに行ってしまった。
それを見送り、蛮骨は大鉾を床に置く。その鉾の陰から、小さく座り込んだ蛇骨の姿が現れる。
自分を見るそのしょげかえった顔にため息つきつつ、蛮骨は言った。
「お前さ、諦めて煉骨に頭下げてこいよ」
「頭下げるのはいいんだけどさ、煉骨の兄貴、おれに字を教え込むって、すっげえ形相で息巻いてるんだもん」
「良いじゃねえか、字、教えてもらえ」
「大兄貴の人でなし、おれにさ、机の前に座って朝から晩まで書きとりしてろってのか?」
そう訴える顔があまりに情けなく、そして哀れっぽかったので、蛮骨は説教する気が失せた。
「しゃーねぇなあ」
そう言いながら、蛮骨は戸口から顔を出して煉骨が消えた方向を探った。姿は見えない。
「ちょっと外に出てるか。時間が経てば、煉骨だっていつまでも怒ってねぇだろ」
蛇骨はこくこくと頷くと、そろりと足音を忍ばせて外に出た。
そしてコソコソとその場から遠ざかろうとした瞬間――背後から怒鳴り声がした。
「蛇骨!」
「あーーー!煉骨の兄貴!」
文字通り飛び上がった蛇骨は、愛用の刀を抱えて走り出す。その後ろで蛮骨は一瞬だけどうしようかと考えた。
残って煉骨を宥めるか、それとも蛇骨と一緒にほとぼりが冷めるのを待つか。
こちらに向かってやってくる煉骨の形相を見て、蛮骨は決めた。
蛇骨と一緒になって逃げ出したのだ。

「大兄貴!蛇骨を隠していたくせに、おれをだましたな!」

そう怒鳴る煉骨の顔は、蛮骨から見ても、八つ当たりされるにはちょっと怖すぎたのだった。


「あーあ、えれぇ目にあった」
「蛮骨の大兄貴まで、一緒に逃げてくること無かったのに」
「お前なぁ、おれにお前の分まで叱られてろってか?」
蛇骨の言い分に大きく息を付いてから、蛮骨は気を取り直して言う。
「まあ、いいや。ちょうど、市の日だし、少しその辺ブラブラしてこうぜ。前々から約束してた簪、いいのがあったら買ってやるよ」
「わ、やった」
さっきまでしょげていたというのに、蛇骨は急に元気になると足を早めた。ここしばらくの宿にしていた村外れの小屋から、市で賑わう寺の境内へと向かう。
その中で、蛮骨は櫛や笄を並べ、覗き込む女達にお愛想を振りまいている若い男に気が付いた。
「おい、売ってるぞ」
きょろきょろしている蛇骨を突っついてそう教えてやると、当の本人は
「女ばっかりじゃん!」
と不快げに顔を顰めている。
それでも他に小間物を扱っている場所もなく、女達が立ち去った後、二人はその売り物を覗き込んだ。

「おいでなさいませ。どなたか、いい人への差し上げものですか?」
「いや、こいつの」
愛想のいい男の言葉に、蛮骨は無造作に蛇骨を指差した。
「……笄も置いてはございますが、手前どもで商っているのは、殆どがおなごのものでございますが…」
「口上はいいから、物見せろってーの!」
不審気な男の言葉を遮り、蛇骨はせっかちに言った。
箱に入っていた物まで全て並べさせ、一つ一つ眺めている蛇骨に、つき合っているのに飽きてきたらしい蛮骨が聞く。
「いいのあったか?」
「なんかなー…もうちっと色気のある簪とかってない?」
蛇骨は不満そうに言った。確かに男が商っていたのは実用的な白木作りの物が多く、丁寧で丈夫そうな仕上がりではあるが、今一つ面白味に欠ける。

「多少値は張っても構わない。なんかもっと違うのはないのか?」
蛮骨がそう言うと、男は恐縮した顔で頭をふった。
「あいすみません……こういう物ばかりで…」
「やっぱさー、町の見世で買ってもらおうかな。いっそのことさ、どっかの職人に作ってもらってくんない?その方が早い気がするし」
商人を前に遠慮のないことをずけずけと言う蛇骨に、蛮骨は仕方ないと言いたげに肩を竦めた。
「お前が気に入らないんじゃ、しょーがねえな。じゃ、騒がしたな」
そう言って立ち去ろうとした時だった。商人が慌てて呼び止めたのだ。
「もし、お待ちください。多少値が張ってもよろしいのであれば、家に戻れば、見事な細工物などもございます。よろしければご案内しますが」
「へ?」
興味を示したのか、蛇骨は立ち止まった。男はぺこりと頭を下げながら言う。
「私は簪などの飾り物を手がけております職人でございます。ここでは、無難な作りの物を並べておりますが、家に戻れば、師匠が昔作りました色漆や蒔絵の簪などがございます。師匠はかつては都の傾城達に評判の職人でございました。きっとお気に召す物があるかと存じます」
立て板に水のように蕩々と並べ立てる男に、蛇骨と蛮骨は顔を見合わせた。その蛇骨の目が興味と好奇心でキラキラ光っているのを目にし、蛮骨は諦めたように言う。
「見に行くか?」
「行く!」
これでまた長い買い物につき合わされるのか――多少げんなりしたものの、蛇骨はもう行く気満々になって勝手に売れ残りの商品を箱に詰め込み始め、その乱暴な手つきに慌てる職人を急かしている。
(まあ、こいつのツラが好みだってせいもあるんだろうな)
男は、女が好みそうな愛想のいい優男だ。蛇骨もまんざらでもないらしい。
どっちにしろ、早く帰ったところで待っているのは煉骨の怒り顔だ。
もう少しゆっくりして帰った方がいい。
そう判断した蛮骨は、片づけを終えた男と共にその家に向かった。



峠を登ると、そこに男の言う家があった。
「ただいま戻りました」
そう戸口で男が声をかけると、品のある老爺がのんびりと出迎える。
「おお、お帰り。商いでさぞや疲れたであろう」
老爺は男の背後に立つ見知らぬ顔に動きを止めた。
とりわけ派手な身なりの蛇骨を頭のてっぺんから爪先までしげしげと眺めた後、合点がいったように手を打ちならす。
「おお! これが都で噂の、『かぶきもの』とやらいうお人か?よもやこのような山奥で目にできる機会があるとは思ってもみなんだ。ありがたやありがたや」
「じーさん、人を拝むなよ!」
物珍しそうに両掌を擦りながら頭を下げる老爺に、蛇骨は憮然となった。隣では蛮骨がおかしそうに笑いを堪えている。
「お師匠様、この方達は、都の傾城方に卸していたような飾り物を探しておられると言う事なのですが、お見せしてよろしいでしょうか?」
「……おや、あれをですか?」
弟子の頼みに、老爺は少し困った顔をした。
「あれは売り物ではありませんし、もう古い物でございますが…」
「古くたっていいけどさぁ、売れないくらいひどいシロモンなの?」
またも遠慮なく蛇骨が言う。老爺はさらに困った顔になった。何か言い訳めいたことを言おうとするのを察し、弟子は小声で老爺に囁く。
「お師匠様、村の女相手の商売だけでは、食糧を買い入れるにも事欠きます。1つ2つ売ったところで、構わないじゃないですか」
「しかしだねぇ…わしとしてはもう、あのような高価な品は…」
「今から作れと言っているのではありません。今あるのをお譲りすれば、と申しているのです。このままでは、麦や味噌を買う銭すら底をつきますよ」

老爺はまだ承伏しきれない顔ではあったが、結局は弟子の言い分に負けたのか、棚から大きめの平たい箱をいくつか出してきた。その蓋を取ると、中から現れた物に蛇骨は感歎の息を付く。
「うわー……綺麗だ」
「すげぇ、見事なもんだな」
と、蛮骨も相づちを打つ。
中に納められていたのは、丁寧に綿や紙で包まれていた飾りの数々だった。
艶めかしい漆に蒔絵で飾った櫛や笄。中には金で作られた宝冠もある。
「金細工の物は見よう見まねの手慰みでございますが……」
「いやいや、すげえよ。これが都の女連中の髪を飾ったのか…」
蛮骨が感心したように言う。その言葉を聞き、上機嫌で飾り物を手にしていた蛇骨はむっとした顔になった。
「女連中が使ってたやつなのかよ、これ!」
「ああ、いえいえ。見本としてこしらえた物や、引き取りがなかった物などなので、実際にはまだ誰も使っていないのでございますが…」
むくれた蛇骨は老爺の言葉も聞かず、機嫌悪そうに腕組みをしてそっぽを向いてしまった。困り顔で蛮骨は蛇骨を宥めにかかる。
「ほらさ、使ってないって言ってるしさ。気に入ったんだろ?どれでも好きなの選べよ」
「なーんか、気分が悪くなっちまった…」
ふくれっ面で家の中を見回していた蛇骨は、作業台とおぼしき机の上に一本の簪が立てかけてあるのを見つけた。 艶のある翡翠色の玉飾りに鮮やかな緋色の花が浮いている。
撫子の花を浮き彫りにしたその簪を、蛇骨は指差した。

「あれがいいな。新しそうで、綺麗だ」
「ああ、あれは…」
老爺は急に慌てた風になった。不審に思った蛮骨が問う。
「なんだよ、ありゃ、売りもんじゃねぇのか?」
「申し訳ございません。あれは、もうじき祝言をあげる孫娘への祝いの品でございまして…」
「えーー、やだーー、あれがいい!アレ欲しいって!」
いきなりじたばたと駄々をこね始める蛇骨を無視し、蛮骨は少し興味ありげに「じいさん、孫がいるのか」と訊ねた。
「はい、娘夫婦の忘れ形見でして、今となってはわしのただ一人の身内でございます。ほれ、そこに」
ひょいと皺だらけの手を挙げた老爺の指先が向いた先に目をやった蛇骨は、そこにひっそりと立つ人影に飛び上がった。
「わ!びっくりした!」
「……それが、孫娘でございます」
あまりにも失礼な蛇骨の驚きように文句をいうでもなく、老爺はそう紹介する。
そこに立っていたのは柱の影に紛れてしまいそうな、小柄で痩せた女だった。
容貌はとくに際だって美しいところもなく、むしろ醜女の部類に入る。何よりも目を引くのは首から右のこめかみにかけてある赤茶の痣だ。おそらくは古い傷跡なのだろうが、それを隠そうとでも言うのか長い髪は顔半分を多い、俯いて上目で人を見ている様は、蛇骨でなくてもぎょっとするほどの陰気くささだった。
正直なところ、こんな女を嫁にしようと言う奇特な男がいるとは、到底信じられない。
その思いは蛮骨の表情にもしっかり表れていただろうが、女は無言のまま運んできた茶を客二人の前に置き、また幽霊のような静かさで台所へ下がっていった。

「……うわーーー……なんか…あれも女?って感じーー」
毒気を抜かれたふうに蛇骨は呟く。老爺は孫をそう評されるのには慣れているのか、気分を害した風でもなく淡々と答えた。
「あれがまだ幼い頃、二親と暮らしていた村が野盗に襲われましてな。その時に娘夫婦は殺され、一人逃げ出したあれは崖から落ち、その時にひどい傷を負ってしまいました。手当どころか、汚れた傷を洗うこともせずわしの元まで逃げて参りまして、その結果があの有様でございます…。不憫なことをしてしまいました…」
「でもまあ、婿が見つかったってんなら、それで良かったんじゃねぇの?」
陰気くさい話がイヤで、蛮骨は無責任にそう言う。すると、老爺は急に嬉しそうな顔になった。

「はい、実は先程皆様方を案内してきた者が、孫の婿になってくれるという事でして。わしの技を継いでくれる者が孫を守ってくると思うと、このジジイも少しは気が楽になるという者でございます」
「へーーー、あいつがあの女の婿になるの…」
蛇骨はあからさまにガッカリとした顔で言った。色男と、そして自分が気に入った真新しい簪も、あの女の物になる。考えるだに腹が立つ。
そんな蛇骨の気など知らぬげに、蛮骨は判った風な顔で頷いている。
「まー、そんな事情なら、無理にあの簪を売れとはいえねぇなあ。仕方ねぇな、蛇骨」
「……ふんだ」
蛇骨はむくれた顔でまともに返事もしない。蛮骨が苦笑していると、さすが無駄足を踏ませたっきりでは悪いとでも思ったのか、老爺は一つの提案をした。

「どうでしょう。あの簪はお譲りできませんが、あれと同じ玉飾りがもう一つございます。これから細工を施して、新しい物をお作りすることもできますが」
「お、良いじゃねぇか。ご祝儀がわりに手間賃ははずむからよ、蛇骨、作ってもらえよ」
「……うん」
蛇骨はまだむくれていたが、老爺が小さな箱から磨かれた玉を取り出すと現金にも表情を変えた。
「お、これに細工すんの?」
「はい、これの表面を掘り出します。どの様な模様がお好みでしょうか?」
「そうだな……うーん」
悩んでいる蛇骨を眺めていた老爺の方が先に、何か閃いたようだ。
「蝶はどうでございましょう!お似合いだと思いますが」
「あ、それいい!」
完全に機嫌が直った蛇骨が手を打って頷く。
「それでは……明日までに仕上げておきますが、よろしいですか?」
「うんうん、よろしい!いいよな、大兄貴!」
「おまえさ、態度急に変わりすぎ」
満面の笑みを向ける蛇骨にそう呆れ気味になりつつ、蛮骨は気前よく懐から銀の粒を取り出して渡してやる。
「じゃ、明日な。金はこれで。嫁入り道具の足しにしてやんな」
老爺はそれを押し頂くと、「必ず明日まで仕上げておきます」と頭を下げた。
「あーー、たのしみーー」
浮かれた声を上げると蛇骨は飾り職人の家を出た。頭の中はすでに新しい簪のことでいっぱいらしい。
「さーて、明日までどうやって時間を潰すかなぁ…」
煉骨はまだ怒っているだろうか、と、蛮骨は沈みかけの夕日を見ながら思う。
それぞれ別のことを考えながら、二人は連れだって峠道を下っていった。



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宝冠←公家の女性が儀式の時などに身につけたものです。

傾城(けいせい)←もともとは「国を傾ける(支配者を骨抜きにする)ほどの美女」を示す言葉ですが、高級遊女もこう呼ばれていたようです。





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