◆ 暗がりに身を潜め 中 ◆


川沿いに建てられたその女郎屋は、この町では一番大きな店だった。
豊満な身体と派手な美貌を持つ女主も女郎上がりのやり手で、年増になった今でも結構な数の馴染み客を持っているという。
ゆきがいる一画は女郎屋の北側で、川っ淵のぎりぎりに建っている暗くて湿っぽい掘っ建て小屋だ。表の華やかな店とはまったく違う。
裏木戸を開ければすぐに外には出られるが、ゆきは部屋にある小さな連子窓から外を見るのが好きだった。
外の明るい景色が窓枠に小さく切り取られ、青や緑や黄色や赤の色がぼんやりと滲んで見える。
外に出ると回り中が明るすぎて、ゆきの目には光と色が混じり合いすぎて何が何だか判らない。

もう少しすると、また店の軒下に吊り行灯が点る。商売の始まる時刻だ。
ゆきは客が少ない。もともとが貧乏人相手の安女郎だし、なけなしの金を使って遊びに来る客は、その分自分を楽しませてくれる手慣れた女を選ぶ。
ゆきは、男を楽しませるのが、他の安女郎達に比べても下手だった。
酌をさせれば半分は中身を零すし、気の利いたお世辞も誘い文句も言えないし、取り柄といったら若いことしかない。稼ぎがなければ当然扱いも悪くなる。食事を減らされる事などしょっちゅうだった。
それが、この数日はまともに食べさせてもらえる。
この間、一晩泊まっていった客が大枚の花代を置いていってくれたのだそうだ。そんなにお金をもっている人が自分の客になるなんて、よほど表の店が混んでいて、空いているお姐さん達が誰もいなかったんだろうなとゆきは思った。
自分みたいな面白みのない女しか居なくて、それでもたくさんお金を置いていってくれるなんて、なんていい人なんだろうと思った。

「……あんなお客さんなんて、きっともういないだろうな…」

窓枠にへばりつくようにして外を眺めながら、ゆきはそう呟く。高望みをするつもりはないが、優しくて金払いのいい上客に当たると、やはり嬉しい。馴染みになってくれたらな、と思い、すぐに無理だろうと諦め、ふーっと長い息を吐いたその時だった。急に頭の中が錐に刺されたように痛くなった。ぼんやりとした視界が外側から狭まって、まるでいきなり窓を閉められたように真っ暗になる。

ゆきは咄嗟に目を閉じてしゃがみ込んだ。そのままの姿勢で痛みに声が出そうになるのを堪えていると、やがてゆっくりと痛みは消えていった。同時に、真っ暗だった瞼の裏に光が射し込んでくる。
息を付いてゆきは立ち上がった。時々こんな風に痛く苦しくなることがある。きっと暴れ馬に蹴られたせいだ――と、ゆきはぼんやり考えた。
田んぼに向かう途中、ゆきは細道を凄い勢いで走ってきた早馬に跳ねとばされたのだ。その時からだんだん目が見えなくなった。まともに畑仕事が出来なくなったゆきを、子沢山の水飲み百姓だった父は色町に売った。
あれからどのくらいの日が過ぎたのか、ゆきには数える術がない。
ただ、随分と暖かくなったと思う。
始めてこの部屋に来たときは、川からの風の冷たさに震え上がったものだ。火鉢はとっくに片付けてしまったのだから我慢しろ、客と肌をくっつけていれば寒くはないと、そう女主に言われた。
それからは、女主に言われるままに客を取ることを覚えた。
客を選べる立場ではないが、荒っぽい大男に稲藁の束のように乱暴に扱われるのだけは、今もまだ怖かった。

「あのお客さん、小さくて可愛かったなぁ…また来てくれないかな……」

そう呟いていると、背後から女主の「ゆき、お客さんだよ!」と声がした。まだ時間は早いのに、なんてせっかちなお客さんが来たんだろうと振り向くと、女主の着物らしい派手な色合いの塊の横に立つ小さな白っぽい塊が視界に飛び込んできた。
あのお客さんだと、すぐに分かった。あんなに小さな男の人が何人もいるわけがないと思い、嬉しくなって急いで出迎えようとしたら、足が縺れて顔から土間にすっころんだ。
赤くなった鼻に涙ぐみながら顔を上げると、目の前に人がいる。
間近で見て、やっぱりあの時の客だと確信した。
また来てくれたんだと思うと、自然に零れるような笑みが浮かんだ。


◆◆◆◆◆


始めてその女郎屋に行った晩から二日ほど経った昼過ぎ、霧骨は今度は1人で店に行ってみた。
仕事もまだろくにやることもないし、なんとなくあの娘が気になるので訊ねてみると、1人で来た霧骨に女主は露骨なほど嫌悪の表情になった。それでも、あの夜の娘の所へ来たというと、ころりと表情を変えて招き入れた。
今度行ったらあの娘はどんな反応を示すのだろうかと、内心不安になりながら霧骨は、昼でも薄暗い小屋に足を踏み入れた。
娘は最初の時のように窓際にへばりついていた。女主の呼びかけに振り向いた娘は、目を眇めて此方を注視した後、ぱっと笑顔になって駆け寄りかけ、見事にすっころんで顔をぶつけていた。
何をそんなに慌てているのかと傍らによると、娘は顔を上げ、そしてじぃっと霧骨の顔を見て、心の底から嬉しそうな笑顔になったのだ。



「お客さん、いらっしゃぁい」
言うなり娘は霧骨のの両手をとると、ぶんぶんと振り回した。
「来てくれないかなって、思ってたんだよぉ」
「…おれを待ってたのか?」
「うん!」
きっぱりと答える娘に、霧骨の顔に血が上った。真っ赤になった顔を横目で見た女主が、まるで茹でカエルだよと、小声で呟きながら表に戻っていく。
それには気付かず嬉しそうにニコニコしながら霧骨の両手を離さずにいた娘が、首を傾げた。
「あれ?お客さん、顔赤い?」
「……いや、あの」
しどろもどろになる霧骨に構わず、娘ははしゃいだ声を上げた。
「お客さんの顔、桃の花みたいな色だ。綺麗で可愛い」
「綺麗…?」
霧骨はぽかんとなった。娘は「うん、可愛い」と大きく頷きながら繰り返す。
「そうか……可愛いか……?」
おっかなびっくり聞き返すと、娘はまた「うん!」と頷いた。
「そうか、おまえにはおれが可愛く見えるのか」
「うん、すごく可愛い。ねえ、お客さん。今日はどのくらいいられるの?」
「どのくらいって、早く帰った方がいいか?」
「ううん、出来るだけ、ずっといて欲しい。帰らなきゃ行けない時間まで居てくれたら、すごく嬉しい」
霧骨の卑屈な質問に気づかず真っ正直に答える娘に、「……じゃ、泊まってくか?」とおそるおそる言ってみると、歓声を上げて娘は霧骨に抱きついた。



夜半、霧骨はうめき声で目を覚ました。
隣に横になっていた娘が頭を抑えて、低い声を上げている。辛そうなのに、無理矢理押さえつけようとしてる声音に、霧骨は心配になって起きあがった。
「おい、具合悪いのか?」
「……ごめんなさいね、お客さん。起こしちゃった…すぐに治まるから…」
娘は声を詰まらせると、身体を固くした。少しの間その様子を見守っていると、娘の身体から力が抜けて、ぐったりとなった腕が放り出される。そして少しだけ顔を上げ、力無く笑いかけた。
「ごめんね、起こさないようにしなきゃないと思ったんだけど」
「そりゃいいが……お前、頭痛持ちか?医者は?」
「知らない…それに、医者に診てもらうお銭(あし)も無いし」
「銭がないって」
「あたし、稼ぎ悪いから。おまんまの分だけ稼ぐのやっとだから」
薄く笑いながらそう答える娘に、霧骨は思案下になった。

「……痛み止めの薬、やろうか?」
「いいよ、お薬高いでしょ」
「只だよ、おれが自分で作るから」
「お客さん、薬師なんだぁ」
「まあ、そういうもんだ」
霧骨は曖昧に誤魔化したが、娘の声には尊敬が溢れている。
「凄いなぁ、お客さん、凄いよ」
「すごくねぇよ」
照れくさくなって霧骨は話を逸らすように、上掛けにしていた小袖を娘の肩まで引き上げてやった。
その仕草に、娘は目を細めて嬉しそうに笑った。
「お客さん、優しいね。今までのお客さんの中で一番優しい。一番好き」
「おれの事が好きなのか?」
そう聞くと、娘は頷いた。
「うん、一番好き」
「そうか……お前、おれが好きか」
痩せた身体をぴったりと添わせてくる娘から温かい優しさが伝わってきて、霧骨の心の内もふわりと満ちてくる。
「お客さん、また来てね。あたし待ってるから。薬忘れてもいいから、きっと来てね」
繰り返し言う娘の細い声は、霧骨の耳の奥にいつまでも残っていた。



翌日から、霧骨は仕事でその土地から離れることになった。10日ほど経ってようやく仕事は終わり、戻ってきた霧骨はさっそく痛み止めの調合に取りかかった。
得意は毒薬作りだが、薬草の効能に精通している霧骨は、治療のための薬も作ろうと思えば作れる。
何をやってるのかと蛇骨にからかわれながらも煎じ薬を仕上げ、いそいそと娘の元を訪ねた霧骨は、そこで女主から聞きたくない知らせを聞いた。
娘は死んだというのだ。

「死んだ…?」
信じられなくてぼんやりと繰り返す霧骨に、女主は美しい顔を歪ませてとげとげしく言った。
「まったく信じられないよ。お客を案内してったら、ころりと冷たくなってるんだよ、縁起が悪いったらありゃしない。まともに飯代だって稼いでないくせに、なんだってんだろうね!とんだ疫病神だよ」
「……頭痛持ちだったんだ…医者に見せなかったのか…?」
冷たい言いぐさに咎めるように霧骨が言うと、女主はいっそう目を怒らせた。
「聞いてなかったのかい?飯代すら稼げない女のどこに、医者にかかる余裕があるってんだい!」
俯いて口をつぐんだ霧骨を横柄に見下ろし、女主はさらに嫌悪に満ちた口調で言い放った。
「あんたもね、客面して勝手なこと言わないでおくれ。もともと、男前のお連れさんがいなきゃ、あんたみたいなご面相の客は門前払いくらわしてんだよ!どれだけ金持ってたってね、そんな化け物面に抱かせたら、うちの女達の格が落ちちまうってもんだからさ!」
店の格子越しに二人の遣り取りを聞いていた女達が、一斉に腹を抱えて笑い出した。霧骨を指差し、バカにした目で笑い転げる女もいる。
店の女達の声を受けて、女主は勝ち誇って言った。

「いつまでもそんなところに突っ立ってないで、帰っておくれ。もう疫病神はまっぴらごめんだ、まともな男衆が入りづらくなるじゃないか!」
霧骨は自分より体格のいい女の顔を、上目で見て聞いた。
「…墓はどこなんだ?」
「墓?そんなもん聞いてどうするんだい。あんた、供養してやろうってのかい?だったらさ、その供養代はこっちによこしな。死体を運んだ人足達の酒代だって、あの娘は残してなかったんだよ」
「墓はどこなんだよ」
「その辺に穴ほって埋めたと言ってたけどね。場所までは知らないよ。それより、供養代、出すのか、出さないの、どっちなんだい」
霧骨は無言で踵を返し、その場から逃げ出すように来た道を戻り始めた。
「は!銭も出さないくせに、口出しするんじゃないよ!塩、誰か塩もっといで!」
嘲りの声がして、女達の声が揃ったかけ声が続いた。
日頃、金で男に買われる鬱憤を、この醜くて惨めな小男にぶつけることで晴らそうというのか、女達の野次は残酷だ。 自分の背後で笑いながら塩をまいてるのを感じながら、霧骨は淡々と川沿いの道を歩き続けた。
手に持った薬の包みがやけに重く感じられ、無造作にそれを川に放り投げると、ぽちゃんという小さな水音をたてて包みは水底に沈んでいく。
その音も気が付かない風で、霧骨は無言のまま宿舎に帰り着くと、行李を担ぎ、再び外へと出かけていった。






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