◆ 暗がりに身を潜め 後 ◆


店は今夜も賑わっていた。赤い吊り行灯が軒先に連なり、歌声や太鼓の音が外まで聞こえてくる。
霧骨はこっそりと川沿いに進み、ゆきがいた小部屋に潜り込んだ。
室内は、始めて来たときのように暗く湿っていて、寒々しい。薄い仕切り板越しに、隣の部屋の女と男の絡み合う声が聞こえる。 霧骨は暗い部屋の隅に身体を潜め、じっと静かになるのを待った。
時が過ぎてやがて灯りが消え、賑やかだった母屋からも音が聞こえなくなった。
霧骨は立ち上がると、こっそりと小屋を抜け、店の台所に行った。数刻前までは客をもてなす酒や肴の用意でごった返していただろうそこは、今は誰もいない。土間から続く小部屋では、疲れ切った下女のいびきが聞こえる。
霧骨は水瓶の蓋を取ると、竹筒に入っていた液体を入れた。無味無臭のその薬には誰も気が付かず、この水を使って作った朝餉はこの店の者全員の腹を満たすだろう。
でもそれだけじゃあ、ダメだ。そう霧骨は思った。
この薬を飲んだだけでは、全然ダメだ。まだやる事があるんだ。
霧骨は娘の部屋に戻ると、また息を殺すようにして待った。
女達が起き出して、全員が腹ごしらえをすませるまで。
仕上げはそれからだ。
霧骨は動かずにじっと待った。
すぐに時はくる。
戦の勝機を待つよりも、簡単で確実だ。

じっとしているうちにやがて薄日がさし、雀の声が辺りに響いてくる。
深夜まで仕事をしている女達が起き出してくるのは、もう少し先だ。
霧骨は焦らなかった。静かに膝をかかえて暗がりに潜みながら、じっと周囲の気配に集中した。
日が完全に昇り、日差しが強くなり始めた頃、母屋の方から煙の臭いがしてきた。
起き出した下女が湯を沸かし、食事の用意を始めたのだと、霧骨は見当を付けた。
もう少しだ。
飯が出来上がると、女達も起き出して食事をとる。
昨夜泊まっていった馴染み客と、差し向かいで食事する女もいるかも知れない。上等だ、男も食えと、霧骨は静かに笑う。
この店で楽しんで、この店で生きている奴らは、みんな薬入りの食事をすればいい。

また少しして、薄い仕切越しに隣の女が動き出す気配がした。
寝乱れた単の襟をだらしなく開き、胸元をぼりぼり掻きながら、うらぶれた女達が連れ立って母家へ行く。
霧骨はひっそりと動き出した。
誰もいなくなった小屋の中から、筵や簾を集めて母屋に一番近い場所に積み上げた。
外に出て川から母屋へと風が吹いているのを確認して、行李の中から水瓶に入れたのとは違う薬剤を取り出す。
粉末状の薬を、霧骨はたっぷりと積み上げた筵の上に振りかけた。

女達はもう食事をしただろうか。
腹一杯食べて、満足して笑っているだろうか。
あの女主はどうだろう。
女主のことを考えると、霧骨の中に残酷な喜びがわき上がった。
あの女の泣きっ面を見てやる。
ワクワクしながら、霧骨は最後に使うものを取り出した。
石綿に包まれた火種だった。
霧骨はその火種を筵の上に乗せた。
小さな火種は筵を燻して、白く濁った煙が上げさせた。煙はどんどん量を増し、そして風に乗って母屋まで流れていった。



窓の隙間から流れ込んできた煙に、最初女達は注意を払わなかった。
煙たそうに鼻の前で手をパタパタさせながらも、たいした事だとは思わなかった。しかし、その煙が室内に充満してくると、女達は慌てて声を上げた。

「女将さん!火事だ、火事だよ!」
ゲホゲホと咳き込みながら喚く女に、化粧の支度をしていた女主は舌打ちをした。
「火事なのは判ってるよ!火元はどこだい、台所か?」
台所に駆けつけてみても、火はどこにも見えない。慌てた下女が竈の熾き火に咄嗟に水をかけて消したらしいが、それでも異常なほどの大量の煙は店中を覆っている。
「そうか、外だ!外だよ!お前等みんな水桶持って裏に回りな!」
女主は声を枯らして叫んだ。喉の奥や目がひりひりする。煙のせいだと思った。裏のどこが燃えているのか知らないが、こっちにまで火が回ったら大変だ。
適当に着物を羽織った泊まり客が、一目散に店の外に飛び出していく。
その慌てふためいた姿を横目で捉え、火消しの手伝いでもしたらどうだと胸の中で毒突きながら、女主は母屋の裏に出た。
煙は裏の小屋から出ていた。

「……誰だい、あんなところで勝手に火を焚いたのは」
忌々しげに舌打ちをすると、女主は大きな声を出した。
「こっちだよ!早く水を運んできな、愚図ども!」
その瞬間、喉奥に鋭い痛みが走った。何か大きな骨が引っかかった時のように、息がしづらくなって喉が掠れる。
「……ちくしょう。煙のせいだ、早く消さないと…」
咳き込みながら、桶を取りに裏口に戻りかけよろめく。
地に着いて身体を支えた手を見て、女主はひっと乾いた悲鳴を上げた。
彼女の白い手は、赤く弾けた無数の水泡で覆われ、目を背けたくなるほど無惨な有様になっていた。

「……ひ…」
喉が痛み、悲鳴もままならず、ようやくたどり着いた裏口で倒れている娘の姿に、女主は尻餅を付いた。 娘は、手だけではなく、白い美しい顔までも赤い水泡に覆われていた。弾けたそこから膿が滴り、痙攣のような咳をするたびに口元から血が飛び散る。
何がおきたのか判らなかった。
見渡すと煙の間から、倒れている娘達の手足が付きだしている。着物が捲れてむき出しになった肌は、皆一様に赤く爛れていた。
気が遠くなりそうになりながら、女主は尻でいざるようにして逃げ出した。
とにかく、全身を水で洗いたかった。そうすれば、この醜さから逃げられるような気がして、必死で女主は川に向かって這っていった。

あと少しで水辺に付く。
力無く腕を動かし続けていた女主は、いきなり背を踏まれて息が漏れるような声を上げた。
「どこ行こうってんだ。その醜いツラを、そんなに眺めたいってのか?」
女主はおそるおそる顔を上げた。
そこに、醜い小男がいた。
女主を踏みつけ、自分の優位を誇らしげに、霧骨はゲヒヒと楽しそうに笑う。
「……醜いツラって…」
ひゅうひゅうと、女主の喉から耳障りな音が漏れた。
「見て見りゃーいいじゃねぇか。すぐそこの川に映してみろよ」
霧骨は足を降ろした。女主は、怯えながら必死で腕を動かした。
容色自慢の自分の顔を、この醜い男に笑われる筋合いはないと、そう何度も胸の中で考えた。
そうやって這い続け、やっとたどり着いた川岸から自分の顔を覗き込み、女主は驚愕に死人のような顔になった。
川に映っていたのは、顔全部が血と膿を流す水疱に覆われた、化け物だったからだ。


目を閉ざすことも出来ず動けなくなっている女主に、霧骨は言い放った。
「すげぇご面相だな。そんなツラした女なんて、金貰ったって抱きたくねぇな」
自分で口にした言葉に、霧骨は笑いが込み上げてきた。
女達が自分の顔を見て笑うとき、多分、今みたいな気分なんだろうと思った。
傷つき苦しむ相手を、さらに傷つけ貶めて笑い飛ばす。
圧倒的な優越感。何を言っても、どれだけ踏みつけにしても、けっして反撃されることなどないと、そう思い込んでるからこその、残酷な遊戯だ。
何を根拠にこの女はそう思っていたのかと、霧骨は哀れみ混じりに考えた。
面白半分に嬲った相手は、自分達全ての命を好きに出来るほどの手だてを持っていたというのに。目の前の危険さえ判らない、頭の悪い女達だ。
そう考えると女をいたぶる気分が唐突に冷め、霧骨は背を向けた。
その脚に、女主がしがみついて懇願する。
「……頼むから…何とかしておくれ……あたしらみんな、好きにしていいから…あんたの言う事聞くから」
「そんなツラ見て何が楽しい。つまんねーよ」
女の手を霧骨は無造作に払った。毒突いてやる気も起きないほど無関心になり、立ち去る彼の背後で、女は絶望の嗚咽を上げていた。


◆◆◆◆◆


とたとたと廊下を走ってくる音に、霧骨は自分がぼんやりと時間を過ごしていた事に気が付いた。調合の手が止まっていて、粘りけがあった練り薬は擂り鉢の中で乾いている。これでは使い物にならないと、中身を取り出した。

「おーー、霧骨、ここにいたのか」
徳利の紐をぶんぶん振り回しながら、蛇骨が顔を出した。
「明日明後日にはここ出るからー、荷物は片付けとけって煉骨の兄貴が言ってたぞー」
はしゃいだ口調でそう言うと、蛇骨は徳利に口を付けて中の酒を機嫌良く飲んだ。
「お前、楽しそうだな」
「そりゃーもう、楽しいに決まってんだろ。戦するのしないの、どこでやるのやらないのって、さんざんグダグダしてさー。大兄貴は退屈だからって、女郎屋の梯子して遊んでるしさー。ようやくこんな町とおさらばできると思うと、おもしろくってたまんねーっつーの」
「そうだな。この町ともおさらばだ」
霧骨はまた手元の鉢を見た。取りきれなかった薬が溝に埋まり、霧骨はそれをへらでこそげ取り始めた。
部屋の奥で一人壁に向かい、辛気くさく作業している霧骨に、蛇骨は呆れたような顔で肩を竦める。
「なんか、張り合いねーやつ。あ、そうだ。大兄貴がさ、昨日遊びに行った先で面白い話聞き込んできたんだ、聞くか?」
「なんだ?」
背を向けたまま聞く霧骨に、蛇骨はおかしそうに話した。
「あのさー、なんかこの辺で一番でかい遊女屋で、変な病気がでたんだと。女達がみんな顔から身体からボコボコにかぶれちまって、商売どころでなくなっちまって、女将が身投げしちまったんだって。で、その遊びに行った先の女将はさ、同情するどころか、これでうちが儲かります〜〜ってホクホクしてたんだってよ。大兄貴、女はおっかねーって、そのまんま帰ってきちまったんだって。女がおっかねーのは昔からだろっての」
そう言うと蛇骨はげらげら笑いながら、また廊下を走って行ってしまった。

静かになり、霧骨は擂り鉢を眺めながらつらつらと考えた。
あれは、飲み薬と燻し薬と、両方使って始めて効果が表れる毒だった。
昔、悪戯に作った物で、全身がかぶれたようになるが命を落とすほどの毒性はない。数日すれば、赤く膿んだ水疱もその他の痛みも引く。
ただ、傷跡は残る。容色自慢の女なら耐えられないような痘痕や痣が、全身に残る。生き延びた女達は、まともな男相手の商売はもうできまい。
ザマアミロ、という満足感が浮かび、すぐに空しさに取って代わった。
胸の奥に奇妙な綻びがあり、仕返しをしてやったと高まった気分がその綻びからどんどんと抜け出して、あっという間に萎れていってしまう。
ぽつんと水滴が鉢に落ちた。
自分が泣いていることに気がつくと、一気に切なさがわき上がった。

物心付いたときから、自分は醜かった。
化け物面の人間に人がましく傷つくような心などあるわけないと、そう決めつけられてそれにふさわしい扱いを受けるのは、いまさら数える気も起きないほど当たり前になっていた。
でも、そんな自分を「可愛い」と、「一番好き」と言った女がいたのだ。
まともな男に言うように「待っているから」と、そう言ってくれた女が自分にもいたのだ。

金輪際、もう同じような時が訪れることはないだろう。
誰を醜くしても、誰に仕返ししても、自分が男前になる訳ではないし、女が惚れてくれるわけではない。
あの店の暗がりのどこを探しても、彼の訪れを待っているはずの娘が、ひょっこり顔を出して笑いかけてくることはもう無い。
止めどなく涙が溢れ、霧骨は顔をうつむけた。

暗い部屋の隅に身を潜め、誰にも顔を見られないようにと壁を向き、霧骨はいつまでも一人涙を流し続けていた。







亡霊遊戯場に戻る