◆ 水にまつわる怪異譚 3◆


蛇骨刀をひっつかみ、表戸から外に出ようとした蛇骨は、背後から衝撃を受けて前に吹っ飛んだ。
泥水の中に倒れ込み、頭から泥まみれになった蛇骨は、目をつり上げて身体を起こすと後ろにいたはずの睡骨に怒鳴りつける。
「てめえ!よくも人を突き飛ばしやがったな!」
「おれじゃねえ!それより、よけろ!」
少し離れた場所で、背後の石段に向かって泥を漕いでいた睡骨が、厳しい声で警告した。
「へ?」
意味が分からず目を丸くした蛇骨は、再び全身に衝撃を受けてまた倒れ込む。
「水だ!」
睡骨が怒鳴る。
蛇骨は肩からずり落ちそうになる蛇骨刀の袋を抑え、膝をついたまま泥の中をズルズルと動いた。
水がうねっている。海の波とも違う生き物のような動きで、蛇骨の周囲で渦巻いていた。
「……うわ……なんか気色悪い…」

そう呟きながら、泥に汚れた前髪をかき上げた。雨に洗われた泥が、身体を伝って流れていく。その感触も、目の前の水の動きも、まるで自分の身体を捉えようとしているようで、蛇骨はむっつりと顔を顰めた。
「気色わりぃってんだろ!離れろよ!」
怒鳴りながら水面に蛇骨刀を袋ごと叩きつける。その勢いに一瞬割れた水は、次の瞬間には蛇骨の足下を掬うように動いた。
「あわわわわ」
足がすべって背中から倒れ、真上から降り注ぐ雨水が顔面を叩いて目が開けられない。腕を掴んで引き起こされる感覚に、蛇骨は一瞬安堵の息を付きかけた。仲間の誰かが手を貸してくれたと思ったのだ。
霞む目をなんとか開き、目の前にある顔を目の当たりにした瞬間、喉奥でくぐもった音が漏れた。
蛇骨の腕を掴んでいるのは、ぐずぐずと崩れかけの腐った細い手。そしてその手と同様の腐りかけの顔が、目の前に覆い被さらんばかりに迫ってくる。
『返せ、下郎。妾の宝玉を返すのだ』
「わぁぁ!」
直接頭の中に響く声に、蛇骨は喚きながら腕を振り回した。ぴしゃりと湿った音を立てて腐った人影は泥水に沈む。藻掻きながら身体を起こしかけて再び腕を掴まれ、蛇骨は悲鳴を上げるとその手を振り払った。
「何やってるんだ!」
頭の上から聞こえた声に、蛇骨は惚けた顔で相手を見上げた。そこにいたのは睡骨だったのだ。

「……おば、おばけ!」
「誰がお化けだ!」
蛇骨の呆れた第一声に言い返し、睡骨は泥の中にへたり込んでいる蛇骨を引き起こしてやる。
「今いたんだよ!腐った人間がさ!」
「どこにもいねぇよ!てめえ、すっころんだついでに居眠りしてたんじゃねぇのか」
「水たまりの中で寝るかよ!」
そう言い捨てながら、蛇骨は睡骨の腕にしがみついた。
「なんだ、一人で歩けねぇのか」
「……なんか、足が重いんだよ」
――泥に掴まれてるみたいに――そんな風に感じたことは、蛇骨は口に出さなかった。臆病風に吹かれたと思われたくない。
「……上の社に行ってようぜ。あの家はもうだめだ」
睡骨に言われ、蛇骨は雨の中目を凝らした。彼等の膝下まで上がった水の勢いで、古い家は土台から傾いている。
「こんなひでぇの、はじめてだよ!」
蛇骨は思わず泣き言めいた愚痴をこぼした。大軍相手でも恐怖を感じたことなど無いが、この自然の威力の前では自慢の蛇骨刀も役に立たない。
ぬかるみに足を取られる歩き辛さに、思わず座り込んで喚き散らしたくなる。

「大兄貴〜〜〜なんでこんな時にいないんだよ〜」
「何をガキみてぇな事をいってる」
激しい雨に顔を歪ませながら、そう睡骨が怒鳴る。蛇骨を振り向く見慣れた男の顔が雨に霞み、そして腐った女の顔に変わった。
『妾の宝玉を返すのだ!』
「うわああああ!」
蛇骨は睡骨を突き飛ばすと、我を忘れて蛇骨刀を振るった。
「てめえ!何をしやがる!」
キレのない動きで水たまりに落ちる刃を避け、睡骨はそう叫んだ。
蛇骨の様子は明らかに尋常ではなかった。ひたすら刀を振り回しながら、睡骨から逃げるように川に向かっていく。
「蛇骨!そっちはあぶねぇ!」
村から蛮骨達が戻ってきたのは、丁度その時だった。




「なんだよ、こりゃ」
殆ど沼と化している館周りを見て、蛮骨は頓狂な声を上げた。村の雨も酷かったが、ここはそれ以上だ。村から来た蛮骨達が立つ道は一面の泥ではあるがまだ地面が見えている。だが、目と鼻の先にある雑木林から先は水に飲まれて地が見えないばかりか、一部では川との境すらなくなっている。
「あいつ等、どこへ行ったんだ?」
苛立った声を出す蛮骨に、煉骨は石段の途中にいる仲間を指差した。
「さすがに避難してたようだな…ん?」
雨を避けようと、煉骨は手を庇のように目の上に翳す。石段にも登らず、膝まで水に浸かって立ちすくむ睡骨。その先を見ると、転びでもしたのか泥の中から身を起こした蛇骨がよろよろと川に向かって歩いていく。
「あいつ、何を寝ぼけてるんだ」
ほぼ同時に蛮骨もそれに気が付いたらしく、水飛沫を上げてその方向へと走り出した。
蛇骨は時折雨を切るように刀を振り回しており、睡骨は止めようにも止められないようだった。

「睡骨!」
蛮骨達が戻ってきたことに睡骨が気が付いたのは、すぐ間近に来てからだった。少し距離を置くと、雨音にかき消されて声もまともに聞き取れない。睡骨は声を大きくした。
「蛇骨の野郎、急に混乱しやがって近づけねぇんだ!」
「何かあったのか?あの様子は普通じゃねぇぞ!」
蛮骨も大声で聞き返す。
「涸れ井戸から急に水が噴き出したんだ!蛇骨は化け物を見たと言ってた!」
「……化けもの…」
煉骨は不意に眉根を寄せると、蛇骨に向かって声を張り上げた。
「蛇骨!拾った玉を捨てろ!翡翠の勾玉だ!」
「無駄だ!こっからじゃ聞こえてねえよ!」
蛮骨は舌打ちする。
「やっぱ、祟りだと思うか?」
「違うともいいきれんでしょう!」
「ちっ」
もう一度舌打ちすると、蛮骨は石段を振り向いて怒鳴った。
「凶骨!蛮竜を投げろ!」
声は聞こえなかったはずだが、大きく伸ばした手を振り回す蛮骨の動作に察したらしく、凶骨は水際まで駆け下りると勢いをつけて大鉾を投げた。
僅かに狙いが逸れた大鉾は、蛮骨のいる場所よりも少し遠くまで飛び、水を割って地に突き刺さる。

「お前等は上に行ってろ!蛇骨はおれが連れてくる!」
言うなり蛮骨は走り出した。走りながら蛮竜を引き抜き、ふらふらと離れていく蛇骨の後を追う。
「……ったく」
煉骨は眉根を寄せると、何に対してなのか舌打ちをした。そして隣にいる睡骨の肩を叩き、背後の石段へ向かう。
「いいのか?」
その後ろを歩きながら睡骨は尋ねたが、声は雨音にかき消されてしまう。睡骨は返事を待つのを諦め、振り向かない煉骨と共に石段を登る。三人の仲間が妙に不安げな顔で煉骨を見る。
煉骨は顔を拭うと、石段の上を指差した。その仕草は言葉で指図するよりも簡単だった。じりじりと増えつつある水を避けて石段を登り、古い社のある最上段から下を見下ろした。
派手な水飛沫を上げながら近付く蛮骨に向かい、酔っぱらったような動きで蛇骨が刀を振るっている。蛇骨刀が蛮竜の幅広の刃に弾かれて水の中に落ちる。
暴れて逃げようとする蛇骨の腕を蛮骨が掴んだ。


「放せよ、あっち行けよ、化けもん!」
「誰が化けもんだ、誰が!」
蛮骨は憤然となるが、蛇骨の様子は明らかにおかしい。蛮骨を別の何かと見間違えているようだ。
「ち!てめえ、おれを化けもんと見間違えてやがるな。後で覚えておけよ」
ぶつぶつと言いながら、蛮骨は蛮竜を地に突き立てて両腕で蛇骨を押さえ込む。
暴れる蛇骨の背後から腕を回し、懐を探った。
鎧の胸元の内側で冷たい物が指先に触れる。
「……あったか?」
「はなせよ!」
喚きながら暴れる蛇骨の胸元から、蛮骨はしまい込まれていた翡翠の勾玉を引っぱりだした。雨に打たれて鮮やかな緑色だったはずの石はどす黒く見える。
腕の中でくたりと力が抜けかけた蛇骨を支えようとした蛮骨は、その顔がふっと別人になったことに驚愕した。

腐りかけの女の顔。それが歯をむきだして蛮骨に迫る。
『おお!それは妾の物じゃ!返し、返しや!』
「化けもんってのは、てめぇか!」
蛮骨は大きく腕を振ると、思いきり遠くに勾玉を投げた。
女はただちに蛇骨から離れ、あさましい金切り声を上げながらその玉を追う。
「おい、蛇骨!今は倒れるなよ!」
豪雨を切り裂いて飛んだ女の亡霊が空中で勾玉を手に掴み、次の瞬間それはうねる水柱になって蛮骨達の前に立ち上った。
蛮骨に揺さぶられて意識を取り戻した蛇骨が目にしたのは、真上から被さってる分厚い水の壁。
高く上がった水柱は、頭上から落ちてくるように見えた。
「ひゃ!」
「頭、低くしろ!」
蛮骨は目を丸くした蛇骨を引き寄せると、蛮竜の柄をしっかり掴んで支えにし、身をかがめた。続いて衝撃が来た。水の固まりが盾代わりの蛮竜に激突し、激しい飛沫が二人の身体を叩き脇を通って流れていく。
「捕まってろ、手を放すなよ!」
「お、大兄貴…」
水流に押し流されそうになる蛇骨を抱え、片手だけで蛮竜に縋る蛮骨の声には余裕がない。蛇骨は必死になって手を伸ばした。片手で蛮骨にしがみつき、もう片手で蛮竜の柄を探る。地に突き立った蛮竜はかろうじてその場に留まっているが、水の勢いに揺れている。
これが抜けたら最後、水の勢いに流されるだけだ。
ほぼ全身が水に沈み、冷えた身体は力が入らない。
何も考えられず、ただひたすら蛇骨は手にした物を放さないよう握り続ける。蛇骨の身体を支える蛮骨の腕にも力が籠もる。
流れる水に、ついに二人の身体は全身が飲み込まれていった。


「大兄貴!」
僅かに蛮竜の柄だけを水面に残し完全に水没してしまった二人の姿に、思わず煉骨は石段を駆け下りようと動きかけた。
だが、次に目にしたものにその足が止まる。突然の水柱は津波のように辺り一帯を飲み込み、さらに逆巻きながら石段を登ってきたのだ。
あり得ない動きに全員が呆然となる。
その間にも勢いを増しながら水は石段を駆け上り、見る見るうちに彼等の元に迫ってくる。我に返った煉骨は急いで声を張り上げた。
「逃げろ!背後の森に逃げるんだ!」
蛮骨達の様子を確かめる間もなく、5人は社の脇を抜けて背後の森へと走り込む。
石段を逆流してきた水は勢いを止めることなく、巨大な水鉄砲のように社を直撃した。
小さな建物が木っ端微塵に壊れた瞬間、雨音をつんざいて甲高い女の笑い声が響く。社を破壊した水は再び柱となり、空へ登る。その先端に一瞬だけ笑う女の顔が浮かび上がり、それは分厚い雨雲を割って空へと登った。
最後の置きみやげか、水桶をひっくり返したような雨が一瞬彼等の全身を打ち、すぐに止んだ。
水柱が消えた場所から雨雲は切れ、眩い陽射しが差し込んできたのだ。

煉骨は石段の端に立ち、下を見る。
古い屋敷は土台から押し流され、木々はなぎ倒されて不自然な空き地がそこに広がっている。息を詰めながら視線を泳がした煉骨は、ひくりと顔を歪ませた。
ドロドロの空き地のほぼ真ん中に、薄汚れた蛮竜が突き立っていた。
そしてそれにもたれ、足を放り出して座り込んでいる蛮骨と蛇骨。
俯き、腕も力無く投げ出され、離れた場所からは生きているのかどうかはっきりしない。
のろのろとした足取りで石段を下りる煉骨に、残りの仲間達も続く。
ぴくりと蛮骨の腕が動いた。
ゆっくりと泥まみれの顔が上がり、傍らの蛇骨を揺り起こす。
それから、ようやく蛮骨は仲間達の方に目を向けた。
泥だらけの顔でにやりと笑うと、呑気な仕草で手を振ってみせる。力無く顔を上げた蛇骨が、疲れた動きで蛮骨に抱きつく。
二人とも、無事だったのだ。

「……ったく、しぶといガキ共だ」
煉骨は苦笑いで呟くと、詰めていた息を大きく吐き出した。石段を下りる足取りが、自然と速くなっていた。



◆◆◆◆◆◆◆


「だーかーらーさ!井戸の中からいきなり骸骨がわーっで、水がどわーっで、後ろからどばーっでさ!」
「ほー」
つい先刻までとは嘘のように晴れ上がった道を、蛇骨は興奮して派手な身振りつきで喋りながら歩いている。傍らではいちいち相づちを打つ蛮骨。
その後ろからは不機嫌な顔で黙々と歩く煉骨と霧骨。触らぬ神に祟りなし、と言いたげな殊勝な顔つきの睡骨、銀骨、凶骨。
結局、あの豪雨で煉骨の火薬の殆どは濡れて使い物にならなくなり、霧骨の毒も半分は水に浸って台無しになってしまった。蛮骨の大鉾も泥の中から探し出された蛇骨刀も泥と水にたっぷりと浸かり、繋ぎ目を全部はずしての手入れを必要としている。ヘタをしたら専門の研ぎ師に預けなければならないかも知れない。
そして当然の事ながら、今の七人の有様も酷い物だ。かろうじて手足と顔だけは洗えたものの、髪も着物も鎧も泥が染みこみ、怪我をしている者がいないのが不思議なくらいである。
とりあえずどこかへ落ち着いて、身支度から整えなくてはならない。
すっかり後片づけがすむまでは仕事も出来ないと煉骨は頭を抱えるが、年少の二人は喉元過ぎれば何とやらで、水に飲まれそうになった体験すら面白がって笑い話にしてしまいそうな勢いだ。
その煉骨に気が付いたのか、蛮骨は振り向いてにまっと笑って見せた。

「あんまりさぁ、深刻な顔すんなよ。命があったんだから、後はなんとでもなるさ」
「ですが、これじゃあ、次の地に行っても戦に間に合わない」
「戦はどこででもあるさ、焦んなよな」
他人事のような気楽さで言い放つと、蛮骨は僅かに悪童めいた顔になる。
「そういやさ、姫さんのお化け、なんで凶骨達に手を出さなかったんだろうな。顔を覗いてたって言ってたよな」
「さて、好みじゃなかったんでしょうよ」
「なあ、納屋に寝てたのがおれ達だったら、とり殺されてたと思うか?」
「そんなの知りませんよ」
ぶっきらぼうに答える煉骨に蛮骨は可笑しそうに笑うと、川縁を指差した。
川は落ち着きを取り戻し、数日ぶりに向こう岸に渡る船に乗り込もうと、足止めを喰らっていた旅人達が番小屋の前に列を作っている。
「なあ、迷惑賃代わりに先に船に乗せろって船頭に交渉してみるか?」
「お好きにどうぞ」
ため息を付きつつ煉骨は答える。その時すでに蛮骨は蛇骨を伴って走り出していた。
「……元気な連中だな」
不機嫌さも忘れ、煉骨は感心したように言った。
化け物も自然の猛威も、蛮骨の気力を心底奪いさる事は出来なかったようだ。
口には出さないものの、後ろからついてくる仲間達の目にも同じような感情が浮かんでいる。

これこそが、外道とも言われる傭兵集団、七人隊の首領たる証。
ほんの少しばかり前に起きた不可思議な出来事も、今は昔。
けして何事にも押しつぶされることはなく、新たな地へと彼等を連れて行く。


遅れて彼等が船着き場に到着したときはすでに話が付いていて、一足先に小船に乗り込んでいた蛇骨が両腕を振っていた。
「早く行こうぜーーー」
賑やかな蛇骨の声に合わせ、蛮骨も派手な声で仲間達を呼ぶ。
「ほら、早く乗り込め。次の戦場(いくさば)に行くぞ」

彼等を乗せた船は、穏やかに水をゆらして岸辺から離れていった。





亡霊遊戯場に戻る 妄想置き場に戻る