◆ 名前も知らず 中 ◆


 

鼻に付く塩の臭いに、蛇骨は顔を顰めながら目を開けた。
「磯臭ぇってんだっけ…この臭い…」
生乾きの着物が身体にまとわりついて気持ちが悪いうえに、さらに乾いた塩まで身体にこびりついていて、蛇骨は辟易する。
「気持ち悪い、どこだあ、ここ」
身体を起こした時にじゃりっと音を立てて引きずる物があった。
蛇骨は自分の足首に罪人がつけられるような足枷がはまり、そこから伸びた鎖が太い杭に繋がっていることに、驚き、そして激怒した。
「なんだあ、これは!」
大きな声で喚くと、足枷を外そうと両手で引っ張った。足を無理矢理抜き取ろうかとも思ったが、擦り傷が出来るだけで抜けそうにもない。それなら、鎖の方をどうにかしようと、蛇骨は潮風で錆びかけた鎖を引っ張り始めた。
「石くらい落ちてねえのか、ったく」
悪戦苦闘しながら足枷と格闘していると、小屋の入り口の筵が跳ね上げられる。険のある目で睨むと、若い男が入ってきた。

「よう、目が覚めたか」
海風に曝されたせいか、色の抜けたような赤茶色の髪を首の後ろで纏めた男の顔は、まだまだ小僧と呼ばれる年代に見えた。体格だけは一人前にがっしりと逞しい。七人隊自体、老練と呼ばれる年代の武将からは子童呼ばわりされる事も多いが、この男もそれと対して変わらないようだった。だが、動作を見れば、蛇骨の兄貴分達よりもかなり落ち着きが無いように感じられた。
(田舎のちんぴらだな。これが海賊か)
こんな連中に言いようにされてたなんて、なんてまあお目出度いくらい、のどかな土地だったんだと、半分呆れたように思う。
男は黙って自分を見ている蛇骨を怯えているのだと思ったようだ。にやつきながら近付いてくると、膝をついて蛇骨の顔を覗き込んだ。
「なんだよ、てめえ」
蛇骨は鼻の頭に皺を寄せ、不機嫌に問う。にやけた笑い方が癇に障る。
「何しに来やがった」
「そりゃ、身代金額を決めるための味見に決まってるだろうが」
「身代金額?」
「安心しな、旦那が要求を呑んだら、ちゃんと戻してやるから」
男はそう言いながら、馴れ馴れしく蛇骨の足に手を掛けた。
「何しやがる」
蛇骨はその手に蹴りつけた。男は聞き分けのない子供を見ているような顔になる。
「味見ったろうが。まさか、そのなりで未通(おぼこ)だなんて、言わねえよな」
「余計な世話だっての」
「大人しくしてろよ」
男が腰にぶら下げていた竹筒をとる。そして、中に入っていたどろりとした液体を手に零した。蛇骨はくんと鼻を鳴らす。
「随分と、用意が良いじゃねえか」
「男でも女でも、痛い痛いって喚かれると興ざめするんでなぁ」
男はにやりとして蛇骨の膝に手を掛けると、大きく開かせた。そして手を伸ばして脚の奥に液体を塗り込める。ひやりとした感触に蛇骨は顔を顰めはしたが、抵抗はしない。男はその素直な様子に満足したようだった。
「いい子だから、大人しくしてろよ?」
蛇骨は自分の上にのし掛かってくる男を醒めた目で見上げた。そして殴りつけようと固めた拳から、あっさりと力を抜いた。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「慣れてるように見えたのにな、意外とつまらんなぁ、お前」
男は、期待はずれだった、と言わんばかりの言葉を吐いて蛇骨から体を離した。
「ばーか、惚れてもいねぇ男を喜ばせてやる義理なんてねぇよ」
「そんな無愛想じゃ、客がつかねぇぜ?」
蛇骨の言葉を負け惜しみとでも思ったのか、男は笑った。
「金を要求された旦那が払わねえっていったら、…どうするんだ?売り飛ばされるか、それとも、他の連中に回されるか、わからねぇんだぜ?」
怯えさせようとでもいうのか、そんな事を口にする男を無視し、蛇骨は疲れた仕草で横向きに寝ころぶ。その態度に小馬鹿にされたと思ったのか、
「これが最後のお楽しみになるかも知れなかったんだぜ?楽しみゃいいのに、馬鹿なヤツだ」
男は捨て台詞を吐いて小屋から出ていった。

その足音が聞こえなくなってから、蛇骨は身体を起こした。男が消えた方を見て、にやりと笑う。
「どっちが馬鹿だっつーの」
蛇骨は袂を探ってこっそり隠した物を取り出した。男が持っていた竹筒だ。「つまらない」等と言ったのは、文字通り向こうの負け惜しみだ。
男は、ろくな反応も見せない蛇骨の身体に1人で夢中になり、これを取られたことにも気が付かなかったのだ。
蛇骨は筒の蓋を取り、中に残っていた丁字油を見てにんまりとした。
そして筒に残っていた油を全て気前よく足首と足枷の間に流し込む。
ぬるりなった枷が肌の上を滑る。まだ引っかかりのあるそれを、蛇骨は力任せに爪先に向けて引き下ろした。ごきりと変な音がしたが、構わずに力を込める。枷が足から滑り落ちた。
「あー、すっきりした」
立ち上がると右足が上手く地に着かない。鈍い痛みに「ちっ」と舌打ちする。
「何か変な風にねじっちまったみたいだな。……まあ、仕方ないか」
そう言って足を引きずりながら、こっそりと外の様子を窺った。
「不用心な連中…見張りもいねぇや」
幸運だと思いつつ、侮られていたと思うと、それはそれで腹が立つ。
「あのくそ野郎ども、おれの事、知らねぇのか?そういや商売だの何だのと、変なこと抜かしてたし。あいつら、おれをなんだと思ってたんだろう…」
呟きながら、そろりと外に出た。


禿げ山の岩壁を背後に、前は海岸線ギリギリの場所に建っていたほったて小屋だった。
砂浜の方を見ると、そちらには船や見張り台などがあり、篝火が焚かれて薄暗くなった海を赤く照らしている。さすがにそっちには見張り番がいるし、船の周りにも結構な数の人影がある。
刀を置いてきた蛇骨にはそこを突破するのは到底無理だし、船を乗っ取ったところで漕ぎ方も知らない。
蛇骨は人目を避け、岩壁に添って島の反対側の方向へ移動した。

「船がねえか、船。……つっても、漕ぎ手のいる船だな。か弱くて威したらすぐいう事聞きそうなじじぃの1人ぐらい、いねぇのか……」
ぶつぶつと言いながら進むと、急に岩壁が途絶えた。その先は大きく抉れた洞窟になっており、砂浜に乗り上げた小舟が、海に流されないように繋いであった。蛇骨はそれを見て考え込んだ。
何だかこの辺の流れは本職でないと渡るのは難しい、といった話をしていたような気がする。だとしたら、自分が船を漕いで元の港に戻れるものだろうかと。腕組みをして悩みながら、この洞窟の先はどうなっているのだろうかとさらに進んでみると、その先は完全な岸壁になっていて荒い波が打ち寄せ、足場も何もない。
(戻って隠れてるか?)
舌打ちしながら考える蛇骨の目の端に、海に浮かぶ小舟が見えた。島の連中だろうか?と思ったが、何をするでもなく浮かんでいる。上には男が2人ほど乗っていた。
ひょっとして代官所の見張りだろうか。確信は持てなかったが、それに賭けることにした。この先夜になったら、別の船を見つける事は絶対に出来ない。たとえ海賊の船だったとしても、さっきの話を聞く限りでは身代金目的の人質扱いらしいから、すぐに命を取られるという事もないだろう。
蛇骨は思い切って海に入った。泳ぎが苦手、と言うわけではないが、海で泳ぐのは初めてだ。その上、右足が上手く水を蹴ることが出来ず、何度も沈みかける。辛い塩水が勝手に喉の奥に入ってきて苦しいし、思っていた以上に暗くて今自分が進んでいるのかどうかも判らない。
必死で海面に浮かび上がり、腕を動かす。伸ばしたその手が、堅い木の感触たどり着き、蛇骨は両手でそれに取りすがった。

船に乗っていた男達は、島から泳ぎ着いた着いた男に驚いたようだ。船の縁に手を掛けて顔を出した蛇骨を見て口々に言う。
「あ、あんた」
「今日、お代官様の船に乗ってた…」
「おれを知ってるんなら…」
蛇骨は息を切らしながら言った。
「早く、船の上に引き上げろっての!」

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

島の近くに見張りの船を配置した後、蛮骨達は海賊の島からは死角になる別の小島の影に船で待機をしていた。
潮の流れが変わると同時に、足早の小舟に分乗して蛮骨達が先に斬り込み、それに続いて代官とその捕り手達が島に上陸する手筈になっている。
その彼等の前に一艘の船が現れた。
見張りに出していた船だと気が付いた代官達は、島の状況が急変したのかと一瞬浮き足立ちかける。が、すぐに小舟が戻った理由が判り、落ち着きが戻った。
代官の船に寄せられた小舟から、蛇骨は水夫の手を借りて船に乗り込んだ。その時、蛇骨がまともに立てなくなっていたことに気が付いた睡骨が、右足を見てやりながら、呆れた風に言う。
「お前、何やったんだ?骨がずれてるぞ」
「足枷はめられて、無理矢理抜いたらこうなったんだけど」
骨を接ぎ、白布をきつく巻いてやりながら、半分怒ったように煉骨は言った。
「馬鹿が、無茶しやがって。この足で海に入るなんざ、キチガイ沙汰だ」
「え、やばかった?」
今になって青ざめる蛇骨に、煉骨は続けて言う。
「まったく、考えなしな事ばかりしやがって。大人しく待ってりゃいいものを」
「だってーー、やっぱ、おれも戦に混ざりたかったし」
「馬鹿言ってるヤツだ」
脳天気なことを言う蛇骨に煉骨は渋い顔をすると、何事か蛮骨に耳打ちした。今度は蛮骨が渋い顔になる。そしてその顔のまま言った。
「蛇骨、お前は留守番だ」
「ええええ?」
盛大に驚く蛇骨に、蛮骨は淡々と告げた。

「人手は足りてる。お前は、船に残って、逃げ出す連中がいないかどうか、凶骨銀骨と一緒に浜で見張ってろ」
「やだ!」
蛇骨は言い張った。
「とっ捕まるなんて、恥かかされたんだ。お礼参りしなきゃ気がすまねぇ」
「お前の気なんて知ったこっちゃねえよ」
蛮骨は言い捨てた。
「足を引きずったヤツにうろうろされると邪魔なんだよ。足手まといになるな!」
決めつける言葉に、蛇骨は傷ついた顔で口をつぐんだ。口をへの字にして睨み付けてくる蛇骨を、負けず劣らず険しい目で睨み返した蛮骨は厳しい声でぴしゃりと言う。
「いいな、船で待ってろ。余計な事をしやがったら、おれがぶっ飛ばすぞ」
蛇骨は言い返そうとしたが、それはできなかった。
背を向けた蛮骨は、もう蛇骨を見ようとしなかったからだ。

 
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