◆ 願い事 後 ◆


 
雨の日が数日続き、ようやく晴れ間を見せた早朝。
城門が開いて早々、のっそりと起き出した蛮骨の寝間に駆け込んでくる者があった。

「大兄貴〜〜〜〜!」
城門の外にある春信の館に出張中の蛇骨が、着替えも中途半端な寝ぼけ眼の蛮骨に泣きついてきた。何だか判らないまま、自分に抱きつく蛇骨の頭を撫でながら、蛮骨は慰めの言葉を口にする。
「よしよし、そんなに俺に会いたかったのか」
「んな事言ってねーっての」
瞬時に蛇骨は否定する。蛮骨はわざと拗ねたような顔をした。
「んじゃ、朝っぱらから何をしに来たんだ」
「おれ、もうやだよー、あの若さんに仕えるの。頭ハゲそうだよ、煉骨兄貴になっちまう」
「誰が誰になるって」
そう言って寝間に現れたのは、すでに身支度を整えた煉骨。呆れ顔で蛇骨のべそ顔を見下ろした。
「お前、ちゃんと外出の許しを貰ってきたのか?」
「んなもん、どうでもいいよ」
蛇骨は憮然と吐き出した。
「あの若さん、一日何してるかってばさ、一日中本を読むか外を見るか、さもなきゃ下手くそな絵を描いてるんだぜ?そんで、おれに聞くんだよ。この詩は何とかの書に載っていた誰それ様の歌だとか、聞いてどう思うかとか、この詩は自作だが、なかなか上手くできたのではないか、とかさ。そんなの聞かれてもおれが知るかよ!」
まくし立てる内容に、思わず蛮骨煉骨は並んで頷いた。

「確かにおれが聞かれても知らねーな」
「だろ!」
蛮骨の同意を受けて、蛇骨は調子づいた。
「そんでさ、面倒くせぇから寝たふりしてるとさ、おれの顔を描きやがるんだよ!豚にしか見えねぇ馬しか描けねぇくせに、おれの顔を描くんだぜ?信じられねぇ!」
目にした春信作の自分の肖像画にどれだけ衝撃を受けたのか、蛇骨は握り拳を振るわせて主張した。
「あんなもん見せられた日にゃ、おれのツラは実は凶骨とどっこいどっこいだったんじゃねぇかと疑いたくならぁ!」
「そ、そいつは災難だったな…」
気の毒と言っていいのかどうだか、とりあえず煉骨はそう言った。蛇骨はなおも泣き言を並べる。
「なあ、大兄貴〜〜もういいだろ?おれ、あそこ帰るのやだよーーーー」
「まあ、そう言うな」
ようやくはっきりと目が覚めたのか、蛮骨が思案顔で宥める。
「お前があの日叩っ斬った連中な、あれ、ただの追い剥ぎじゃなかったんだわ」
「へ?」
「追い剥ぎのふりした、れっきとしたどこぞの侍だ。つまり、若さんに差し向けられた刺客だよ」
「…刺客?」
蛇骨は驚いた顔で繰り返した。あのぼんやり若様を暗殺して、なんの得になるというのだろう。

「なんか事情が変わったらしくて、上の方でこっそり評定してる。決定次第で若さんの扱いが少し変わるかもしれねぇ。そうなったら、また別の指示が出るだろうさ。それまでは護衛だと思って辛抱しろ。なに、多分そう長くはかかんねぇから」
「長くかかんねぇって…」
扱いが変わるとは、どう変わるというのだろう。疑問はあったが、それ以上のことは蛮骨にも判らない。そうこうしているうちに、春信の館から蛇骨を探しての使いが現れた。
「げーーー、今日は写生につきあえって言われてたんだ、この間邪魔が入ったからとかって」
露骨に嫌そうな蛇骨に、煉骨は息を付く。
「さっさと行け」
追い出されるようにして、蛇骨は春信の館へすごすごと戻っていった。


◆◆◆◆◆◆◆

「はあ、いい天気だのう」
「そうかい」
「あれ、久方ぶりの青空に鳥も嬉しそうだ」
「そうかい」
「おお、花もまた色鮮やかに咲き誇っておる。何よりじゃ」
「そうかい」

場所は小高い草原。見晴らしもよく、辺りには人もおらず、実に気持ちの良い場所だった。だが、そこに連れてこられて以来、何を話しかけても素っ気ない蛇骨に、春信は困り顔で笑った。

「蛇骨はつまらなそうだのう」
「面白いわけがあるかい」
身分差を考えれば不遜とも取れる蛇骨の態度に、むしろ楽しそうに春信は笑った。蛇骨はその顔に不服そうに鼻を鳴らした。
「何を笑ってんだ。変なヤツ」
「……蛇骨は、はっきりしておるのう」
「何が」
面倒くさそうな言葉に、春信は薄く笑った。
「全てにおいてじゃ。わしの絵を見て、下手くそだと悪し様に言いもしたではないか」
「だって下手くそじゃん」
「確かにわしの絵は下手くそじゃ。だが、それをはっきりと指摘する者はおらなんだ」
「へえ、なんで」
会話になってはいるが、蛇骨がさほど関心を持っていないのは明らかだった。だがそれでも楽しいのか、春信はにこにことしている。

「わしが、ひょっとしたら大家の主になるかも知れぬからだ。機嫌を損ねてはならぬと、下にも置かぬ扱いをする。……そんな器量を持っていないことを重々承知の上での振る舞いに、わしは時々身の置き所のない心地になる」
写生を止めて持ち込んできた筆と紙を下に置き、そう寂しそうに言う春信に、蛇骨は初めて興味を持った。
「だったらさ、出てけばいいじゃん。実家に帰るとか、行くところあるんだろ?」
「何もない。わしの今の身分は、『ひょっとしたら跡を継ぐかも知れない』という微妙なところじゃ。実のところ、本家にはすでに腹違いの妹とその母がいる。わしの出る幕などないというのに」
「文句ばっかり言ってねぇでさ、だったら1人で好きなようにやりゃいいじゃん」
少し怒ったような蛇骨の言い分に腹を立てるでもなく、春信は呟く。
「わしには何も出来ん。出きることと言えば、下手くそな絵を描くことくらいじゃ。もう少し才があれば、絵師として身を立てることも出来たであろうが。…正直、わしはそなたが羨ましい」
「おれのどこが」
あれだけ大事にされ、なんの苦労も知らずに暮らしているくせに、この坊ちゃんは何を言い出すのだろうと思った。それなのに、春信は言葉どおりに羨望の混じった目で蛇骨を眩しそうに見た。

「そなたは己の腕一本で生きて行けるのだろう。わしには到底出来ぬ」
「そんなの……」
その言葉にこもった感情が重くて、蛇骨は口ごもった。
「おれには身分もへったくれも何もねぇもん、当たり前だろ」
「当たり前か、……そうか」
春信は静かに笑った。笑って手元に散らばった紙を集めた。そこには拙い筆捌きで花や鳥が描いてある。下手くそではあるが、春信はそれを大事そうに抱え込んだ。
「わしは人の顔を描いたことがないのだ。描かせてくれる者が居らぬ」
「下手くそだからだろ」
「それもある。だが、わしに本当の意味で付き合ってくれる者がおらぬからだ。ただ黙ってわしと向き合ってくれる者は、館には誰もおらぬ」
春信は思いきったように言った。

「わしの絵がもう少し上達したら、そなたの顔を描かせてもらえるか?」
「上達したらな。今のそのへったくそな筆じゃごめんだけど」
蛇骨は適当に答えた。春信の絵の腕がそうすぐに上がるとは思えない。それまでに多分自分はこの男付きの仕事から解放されるだろう。もしも長引くようなら、今度こそ着物を返しても役目を誰かと替わってもらおう。そう考えると、空約束もあっさりとできた。正直、向けられる目が蛇骨には負担だった。自分の事など何も知らないくせに、どうしてこんなに素直に自分を憧れの目で見るのだろう。ひどく居心地が悪くて、これ以上、話を続けたくなかった。
そんな蛇骨の葛藤に気が付いているのかどうか、春信は頷きながら嬉しそうに言った。
「約束だぞ。わしはその為に精進するから、きっとだぞ」
「へいへい」
これ以上話をしたくなかった。その為に蛇骨は簡単に頷いた。約束など、どうせ果たされることなど無いだろうと、そう思っていたのだ。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆


夕刻も近付く頃になって春信の館に帰ってくると、蛮骨からの使いが待っていた。すぐに来て欲しいとのことだった。
蛇骨は何かちくりと引っかかるものがあった。だが、春信はいつものあっさりとした笑顔で「急用ならば遠慮なく行くがいい」と許しをだす。蛇骨は使いに連れられて城内の館へ戻った。

「おう、来たな」
迎えでた蛮骨は戦装束に整えていた。蛇骨は驚いて目を丸くする。
「何だ、急に。どっかで戦か」
「戦って程じゃねえがな、ちょっとこいや」
手招きされて側に行く。蛮骨は耳打ちするように蛇骨に言った。
「あの若さんの処遇が決まった」
「え?」
「生きていて貰っちゃ困る、――つうか、この城で庇護していたこと自体を無かったことにしたいんだそうだ」
自分でも驚くほどの衝撃を感じて、蛇骨は声が出なかった。その顔に困ったような表情を浮かべ、蛮骨は頭を掻く。

「例のごたごたってのがお家騒動でさ。嫡子が居なくて先代が無くなった後、あの若さんともう1人の姫様とで跡目争いになったんだと。そんで、姫さんの母方の方が、若さんより勢力があったらしいんだな。それでも向こうは女で、若さんは男だってんで、担ぎ上げようって動きがあったらしいんだが、姫さん側は別の大大名から婿さんを貰うことにしたんだと。お家騒動に完全に決着をつけることを条件にな」
「……じゃ、刺客ってのは、その姫さんがたの?」
「そうだ。それは結局失敗したが……でもまあ、どっちにしろ、勝負はあった。って事で、ここの殿様も姫様側に乗り換えたんだ」
「……若さんを庇護してたって事が表沙汰になると、やばいってか」
「そういうこった」

蛇骨は押し黙った。別にこんな事は珍しくはない。同母兄弟が争うことすらよくある事なのだ。有利な方に寝返るのは、今後の自分の立場を考えればあまりにも当たり前すぎる決断だ。
そう思ってはいても、「なぜ」という気が起きる。春信は野心も何もない。あれほどまでに無害な男は居ないはずだ。
黙りこくった蛇骨に、言いづらそうに蛮骨が聞いた。
「で、お前はどうする?」
「え?」
「今から夜討ちをかける。お前は行くか?」
惚けた顔つきの蛇骨を気遣うような蛮骨の言葉だった。さっきまで供をしていた相手だ、多少なりとも気が咎めるというなら、ここで待っていてもいいというのだろう。
蛇骨は少しの間考え込んだ。考えたところで、結果が変わらないのは判っていた。だから顔を上げ、はっきりと答えた。
「行くよ」
「そうか」
短く言って蛮骨は立ち上がり、蛇骨の肩を叩いた。
「煉骨達は先に行って準備を整えている。行くぞ」


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


すでに見慣れた屋敷は、物々しい出で立ちの兵達に包囲されていた。中に仕えていた者達はすでに逃げ出している。縁の下のそこ此処に芝が摘まれ、油がかけられていた。
蛇骨はしんと静まりかえった屋敷の中に入った。元々、賑やかな屋敷ではなかったが、人の気配の途切れたそこはすでに廃墟のようだった。

――春信はどうして居るんだろう。この異変に、気が付いていないんだろうか。

そう蛇骨は思いながら廊下を進み、春信の居間の前に立った。
いつもここで春信は日々を過ごしていた。障子を開け放ち、庭を眺め、あれ鳥が来ただの、雨の音が風流だのと、蛇骨から見ればなんの意味もないようなことを言っては、穏やかに笑っていた。
思い切って襖を引き開けた。いつもの場所に春信は座っていた。今日の昼、描いたばかりの絵を広げ、一枚一枚愛おしむように眺めていた。白装束に身を固めて。
春信は顔を上げ、いつものように笑った。
「そなたが来てくれたのか」
「……気が付いていたのか?」
「いくらわしがぼんやりでもな。人が居なくなり、油の臭いがすれば、これから何が起こるかくらいは察しが付く」
「逃げれば良かったのに」
我しらず、蛇骨は責めるような口調で言った。回り中を見張られ、そんな事が出来るわけはないと百も承知しているはずなのに、なぜこんな死に装束を整えて、ただ時がくるのを待っていただけなのかと思ったら、腹立たしくなった。
「言っただろう。わしは無能者で何も出来ぬ。庇護を離れては生きて行けぬよ」
「だから――!」
かっとなって怒鳴りかけた蛇骨は、静かに微笑む春信の顔に何も言えなくなった。おそらくは、最初から知っていたのだ。いつか、この日が来ると。
身分を持ちながら、それに見合った才覚も野心も持たない自分は、いつか踏み潰されるだけだと、そう承知していたのだ。

――こいつは馬鹿だ――
蛇骨はそう思った。馬鹿だ、とことん馬鹿だ。
ただ、死ぬ時を待って、生きていたんだ。
最初から最後まで、人に余計な世話をかけさせまいと、ただそれだけを考えて。

「……おれは、惚れた相手は切り刻みたくなる癖があるんだ」
無表情に物騒なことを言い出した蛇骨を、春信は目を細めて見た。
「だからあんたは、一瞬で殺してやるよ。――惚れてないから」
「そうか」
それを聞き、春信は安堵の顔をした。
「わしは臆病だから、死ぬ時に苦しむのだけは嫌だと思っていた。そなたがそう言うのなら安心だろう。そなたの腕なら、し損じるはずがない」
そう言って微笑むと、春信は大事そうに絵を片付け始めた。きちんと文箱にしまい込み、それから少しだけ残念そうな顔をする。
絵が上手くなったら顔を描かせてもらうと、そう交わした約束の事が頭に浮かんだ。最初から叶うはずのない約束だった。それでも、形だけでも頷いて貰えたことが春信は嬉しかった。
ほんの少しだけでも、夢を見ることが出来た。

(悪い日々ではなかったな)

心の底から春信はそう思った。短かったけれども、楽しかった。
この常識外れで裏表がなくて、何の遠慮もなく言葉をぶつけてくれる男と過ごせて、本当に楽しかった。
微笑みながら春信はきちんと正座をして蛇骨に向き直った。
「よろしく頼む」
そう言って、目を閉じ、首を突き出すようにする。
その姿を見下ろし、刀を持ち上げかけた蛇骨の腕が止まった。自分でも理由の判らない躊躇いが、刀を振るうことを拒んでいるようだった。
蛇骨は無理矢理唾を飲み込むと腕を上げた。
蛇骨刀が鋭い光を放った。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「終わったか」
襖を開けて廊下に出ると、蛮骨が壁に凭れて待っていた。蛇骨は身体をずらして部屋の中が見えるようにする。畳の上に広がる血溜まりと、死に装束を纏った腕が見えるのを確かめ、蛮骨は頷いた。
「表の方にはもう火が放たれている。裏から出るぞ」
「ん」
そう話している間にも、きな臭い臭いと煙が廊下を流れてくる。
小走りで廊下を抜け、縁側に出て庭に下りる。裏を見張っていた兵が2人を見てびしっと姿勢を整えた。
「もうじき火が回る。離れていろ」
蛮骨が口早に指示を出すと、兵達は頷いて館から距離を取った。
油を巻かれた館の火の周りは早い。
庭から竹林まで下がったところで振り向くと、すでに館全体が火に包まれていた。

全部燃えるんだな、とその火を眺めながら蛇骨はぼんやり思う。
あの男が描いた下手くそな絵も、大事そうに広げて読んでいた書も、あの男が此処に住んでいた痕跡さえも、全部火の中に消えてしまう。

ぽつりぽつりと降り出した雨があっという間に本降りになった。
降りしきる雨の中、火は衰える様子がない。
黙って燃え上がる屋敷を眺めている蛇骨の隣で、誰に言うともなく蛮骨が「ここの仕事はこれで終わりだな」と呟いた。
炎の中で梁が焼け落ち、館が轟音と共に崩れ始めた。
雨は降り止まず、その屋敷の最後を見守る者達全員をずぶ濡れにする。


雨足は強まり、濡れた髪からしたたり落ちた滴が、蛇骨の頬を伝わって顎の先から落ちた。
それがうっとおしくて、蛇骨は前髪をかき上げて顔を拭う。
それでも、頬を伝わる雫が途切れることはない。

最後の柱が折れ、館の全てが炎の中に飲み込まれていった。



 
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