◆ 眠りの底から 後 ◆


 

医者ってのは忙しいもんだ――寝そべりながら蛇骨は思った。

(早朝からガキ共が来たかと思うと、今度は山親父だ)
熊と見間違えそうなごつい男が相好を崩し、ペコペコ頭を下げて白布を押しつけていく。それを愛想良く見送ったかと思うと、今度は若い娘がやってきた。 医者の色女かと思いきや、手早く包んだ薬草の包みを受け取るとあっという間に帰っていった。呆れるほどにあっけない。
薬を求める連中が途絶えると、乾燥させている薬草をひっくり返したり、砕いて粉にしたり、一日中細々と何かやっている。
そしてその仕事の合間に蛇骨の足の薬を変え、食事の支度をする。こまめに世話こそするが、その間けして目を合わせないし、必要最低限のことしか言わない。
ただの義務感だけで面倒見ているのはよく分かった。

(馬鹿なヤツ。嫌なら放りだしゃいいのに)
そそくさと背を向ける医者を見ながら、蛇骨はそう鼻で笑う。一日中せこせこ働いて、野菜や安っぽい布と引き替えに惜しげもなく薬を渡し、時には里にまで下りて治療しているらしい。この数日の間だけでも、何度、里と往復しているのか。疲れ切ってバカみたいだと思うのに、戻ってくるときはいつも満足げな顔をしている。
それが無性に癪に障った。
一刻も早く此処を出ていきたくて、蛇骨は医者のいない間に何度か起き上がり、足の具合を確かめた。
5日目、多少萎えてはいたが、足の痺れは消えていた。痛みはまだ少し残るが熱も下がって調子もいい。さんざん世話になってはいるが、どうあっても胸くそ悪くなるような場所だった。医者も村人も、善男善女の絵に描いたような笑い顔が気持ち悪い。「善人」の仮面を張りつけているように蛇骨には感じた。
いったん事あればいつでも取り外し可能の、上っ面だけの仮面。

「おれ、明日でてくから」
土間で縄を編んでいる医者に唐突に言った。きっと、一度は引き止めるような事を言うだろうと予想した。内心は一刻も早く出ていって欲しいと思っているのに。
「……熱が下がったばかりだ。もう数日休んでいた方が…」
口ごもるように医者が言う。顔は蛇骨の方を向いているが、視線はやはり外したままだ。想像通りの医者の言動に、蛇骨は可笑しくなった。
「休みすぎたくらいだ。早いとこ戻らないと、死んだ事にされちまいそうだからさ」
「……そうか」
こちらに向けた背中から一瞬緊張が溶けたのが見て取れた。ほっとしているんだろうさ、と蛇骨は思う。背中を向けて、こちらから見えなくなった顔はきっと笑っているんだろう、これで平穏な生活に戻れると。
ふと悪戯心が湧いた。それなりの歳なのに、清らかで邪念の欠片もないような顔つきの医者。
からかったら、どんな態度をとるんだろう。

蛇骨は寝床から抜け出した。立ち上がらず、四つん這いのまま猫を思わせる動作で医者の背後に忍び寄ると、そっと後ろから手を伸ばして肩に触れた。
男はびくりとしたようだ。息を飲むのが判った。
蛇骨はのたりとした動きで腕を男の身体に回し、背後からその青ざめた顔を覗き込んだ。耳に触れんばかりに唇をよせ、甘く囁く。
「……なあ、先生…おれ、お礼したいんだけどな…」
その声の響きを聞けば、何を言われたのか、普通の男なら判るはずだ。淫猥で、男とも女ともつかない類の色香は、男の下肢を直接刺激する。
案の定、医者は小刻みに震え始めた。内心はきっと嵐のように激しく揺れているのだろう。そして愚にも付かないお題目を唱えて平静を保とうとしているに違いない。

さて、本番はこれからだ、と蛇骨は舌なめずりをした。
震えたまま動けなくなっている医者の前にゆっくりと回り込み、下から睨め上げるように見る。医者がひっと引きつった声を上げて唾を飲み込む。蛇骨は相手の目を見たまま、少しずつ身体をよせた。逃げようと後ろに引く医者の動きに合わせて前に進み、自然に相手の身体に乗り上げるような姿勢に持ち込む。膝で相手の股間をまさぐった。完全に縮み上がっているソレににやりと笑い、手を添える。袴越しに揉みしだきながら真上から見下ろすと、医者は怯えた顔をしている。驚愕と快感でどうすればいいのか判らないのだろう。思考が麻痺しているのか、ろくすっぽ声も出せなくなっている。
蛇骨は心底楽しくなった。目を細め、口元だけで笑うと、顔を寄せてさも優しげな口調で言う。
「……先生は何もしなくていいよ…おれが良くしてやるからさ…」
それを聞いたときの男の顔を見て、蛇骨は声を上げて笑いたくなった。医者はまるで死刑を告げられたような顔つきで、口を無様にぱくぱくさせていたのだ。

こういうヤツはいる。蛇骨に誘いを掛けられた男の反応は大抵二つに分かれる。一つは単純に欲情し、自分から手を伸ばして彼の着物をはぎ取ろうとする者。簡単だが面白みはない。そしてもう一つはこの医者のように怯え、逃げようとする者。
まるで取って喰われそうな顔で――ある意味そうなのだが――必死になんとか逃げだそうとする。こういうヤツは面白い。陥落するまで手管を使ってもいい。手間をかけさせられた分だけ、じっくりといたぶってやる。力尽くで逃げようとする相手は、こっちも力尽くでやり返す。これが一番面白い。
少しずつ切り刻み、血まみれになって土下座する相手を押し倒して上に乗る。そういう状態のヤツの方が、なぜか一物も硬くて長持ちする。絶頂の瞬間に息の根を止めてやる。快楽にゆるんだ顔のままの生首を持ち上げ、血の味のする唇を舐める。
震えが来るほどに気持ちがいい。最高の悦楽だ。

こいつはどうするんだろう。
抵抗しろ、と蛇骨は思った。暴れて、突き飛ばして逃げればいい。追いつめて、思い通りにしてやる。蛇骨は鬼女の微笑みを連想させるような笑い方をした。色香に満ちて美しく、そして魅入られたものを食い尽くすまで消えない、飢餓を感じさせる笑みを目の当たりにし、ついに医者は恐怖の限界を迎えた。
「うわああああああ」
叫んでがむしゃらに腕を振り回しだした。蛇骨は薄く笑いながら身体を避け、動きやすくしてやる。伸ばした医者の腕が土間の片隅にあった鉈を掴む。医者は自分が何を手にしたのか確かめもせずに、それで蛇骨を殴ろうとする。
「おっと」
軽く身体を引いた蛇骨の髪の毛が数本とんだ。医者はむちゃくちゃに手にした鉈を振り回した。自分が刃物を人に向けているという、その事にも恐怖しているようだ。悲鳴を上げて、尻でいざって逃げながら鉈を振り回す医者の混乱っぷりに、蛇骨は呆れて動くのを忘れてしまった。

(……こいつアホか?こんなんでよくもまあ、生きて来れたもんだ…)
医者は戸口にたどり着くと、鉈を投げ捨て、つんのめるようにして駆けだした。
ようやく蛇骨は立ち上がった。くくっと笑いながら蛇骨刀を持つ。
外へ出ると、医者は足が縺れて転びそうになりながら小屋の後ろの納屋へと逃げ込もうとしていた。蛇骨は笑って刀を振るった。殺す気はない。一応、彼のケガを手当てしてくれた相手だ。少し脅かして、相手の偽善っぷりを笑い飛ばして、それで終わりにしてもいい気がしていた。しなる蛇骨刀が医者の肩を切り裂く。
「うわあああああ」
医者はひっくり返った裏声で悲鳴を上げ、血に染まった肩を押さえながら納屋へと飛び込んだ。蛇骨は刀を肩に担ぎ、謳うように語りかけながら、ゆっくりと歩を進める。
「なあ、先生、出てこいよ。いい子にしてりゃ、悪いようにはしねぇってば」
ふと気が付いたように蛇骨は空に目を向ける。山間を真紅に染める夕陽の色に、口元をほころばせた。

「すげえ空の色だなぁ、見ろよ、先生。血を塗ったくったような空だ。一緒に見るのに丁度良い色だ」
くすくすと笑い、無邪気な子供が遊びに誘う口調で言う。
「なーあ、せんせーよー、出てこいよ、遊ぼうぜ」
骨組みに屋根を乗せただけのような、簡単な作りの納屋の中は外から殆ど丸見えだ。積み重ねられた薪に、鍬に釜。広げられた筵の上には陰干ししている木の実や草。大きな漬け物樽等が整然と並んでいる。
その影で医者は震えているんだろう。親切に世話をしてやったのになんでこんな目にあうんだろうと、訳も分からずに怯える医者の心臓の鼓動が、空気を伝わって感じるような気さえして蛇骨は恍惚となった。
「なあ、先生よ。かくれんぼより、もっとイイ事しようぜ」
蛇骨は刀をだらりと下げて納屋に近付いた。
反撃されるなどもう考えてはいなかった。完全に油断していた。太い薪の山の陰で何かが動いたと思った瞬間、蛇骨の顔面に向かって何かが投げつけられた。咄嗟に交わし、背後の地面に突き刺さったものをみて仰天した。

鎌だ。手入れが行き届いた刃物が、がっちりと地面に食い込んでいる。
ヒュンと風を切る音がする。蛇骨は自分の頭をめがけて横から襲ってくる鍬を咄嗟に刀で受け止める。蛇骨刀の握りに近い部分に直撃した鍬は、彼の手から刀をもぎ取り、絡まりながら吹っ飛んだ。得物が手から飛ばされると同時に首に手が掛かり、地面に押し倒される。此処にいたってようやく蛇骨は相手の顔を確かめることが出来た。

「てめえ、誰だ?」
蛇骨は目を丸くして尋ねた。自分を押さえ込んでいる男はざんばら髪に鬼の面でも着けたような形相をしていた。目はつり上がり、顔には筋が浮き上がっている。さっきまでは確かにこんな男はどこにもいなかった。蛇骨は男の肩から血が滴るのを見た。彼が医者につけたのと同じ場所の傷だ。まさか、と思った。あの善良な顔とは似てもにつかない羅刹の顔。だが、よくよく見れば身に纏っている着物も同じだった。

「……お前、医者か?」
「身体はな」
意味が分からなくて蛇骨は顔を顰めた。どっちにしろ、猫を被っていたんだろうと思った。
「とんだ役者だな。すっかりいい奴かと騙された」
嘲笑う蛇骨に、羅刹の顔の男はにやりと笑う。
「フリをしていた訳じゃねえ。あの医者は確かにいい奴だぜ。鬱陶しい程にな」
「他人事みてぇな言い方だな」
「他人事って言えば確かに他人事だ。あの医者は今はおれの中に隠れてるがな」
「……良くわかんねえけど…お前は医者だけど、医者とお前は別人って事か?」
「あの医者は血が怖えのよ。てめえに傷つけられて、おっかなくて、どうしようもなくなって、おれと入れ替わったのさ」
「ふーん、って事はてめえは血が怖くねえんだ」
押さえつけられながら、それこそ他人事のように蛇骨は言った。
「怖くねえどころか、このおれは血を見るのが大好きでな」
「へーえ…」
ぼんやりと答えながら、蛇骨は気づかれないように髪に手をやった。指先が簪に触れる。蛇骨はそれを素早く抜き取ると、尖った先端を男の腕に突き刺した。
「ちっ」と男が舌打ちする。その腕の力がゆるんだ隙に、蛇骨は簪を鋭く翻した。腕から血の糸を引きながら、男は蛇骨の上から飛び退く。
膝をつき、体制を整えながら、蛇骨は顔を歪ませた。

「どうにもこうにもいけ好かないヤツな訳だぜ。気色悪い善人面してたかと思えば、とんだ悪党だったりするしよ」
「よく言うぜ、その善人面した医者に面倒みてもらってたくせによ。どうしようもねえ恩知らずだな。医者が気色悪いってのは同感だがな、それとこれは別だな」
「け、お医者先生は別におれを助けたかった訳じゃねぇだろ。怪我人を見捨てられない、お優しい自分の満足のためだろ」
「まんざら違ってもねぇがな」
男はにやりと笑うと地を蹴った。蛇骨も同時に動く。男を避け、蛇骨刀を拾うために走り出そうとした瞬間、踏み出した左足に鈍い痛みが走った。
(出遅れた!)と思ったときには遅かった。蛇骨は後ろから羽交い締めにされ、再び地面に押しつけられていた。
「ちきしょう、足が完全に治ってりゃ…」
悔しがる蛇骨に男は笑う。
「そりゃ仕方がねえ、医者はもう少し休んだ方がいいって言ってた筈だな。聞かなかったてめえが悪い」
簪を握った方の手が背中にねじり上げられ、動けなくなった蛇骨の頭を男は乱暴に地面に押しつけた。

「てめえ、顔に傷が付くじゃねえか!」
怒る蛇骨をいなすように男は言う。
「少しぐらいどうってこたぁねえだろ。どうせ、すぐに首から取れる顔だ」
笑いながら、男は思いだしたように言う。
「そういや、てめえ、医者に遊んで欲しがってたな」

男は全身の体重をかけて蛇骨の動きを封じると、片手を裾から差し込んできた。無骨な手の動きに、蛇骨は何か鋭い物が身体を切り裂くような感じを受けた。押しつぶすようにかけられる体重に、彼の意志を無視して身体をまさぐる手。幼い頃道具のように扱われていた日々が一瞬で脳裏に蘇り、蛇骨は怖気をふるう。
「てめえ、止めろよ!おれは無理やり乗っかるのは好きだが、乗られるのは好きじゃねぇっつーの!」
「あんまり我が儘ばっかり言ってんじゃねえぞ、この山猫小僧が」
嘲笑う声に蛇骨は目の前が白くなる気がした。男の手が動きを止める気配はない。体中に鳥肌が立ち、息が詰まって悪態吐くのもままならない。
「止めろっての!」
背中に覆い被さってる男の顔面に頭突きでもくれてやろうかと、蛇骨は思い切って背をのけぞらせた。そして途中で止めた。上げかけた頭が、突然差し出された鋼に触れたからだ。
蛇骨は目を見開き、身体を強ばらせて息を詰めた。
鋼は蛇骨の背中をなぞるようにゆっくりと足の方に向かって動き、それに従って背中に乗っていた男の重さが消える。皮を一枚剥ぎ取られるような感じがして、背中一面に冷や汗が流れる。
鋼が身体の上を完全に通り過ぎたのを待って、蛇骨は跳ね上がるように身体を起こした。そして、そこに立つ人物の顔を確かめて惚けたように呼んだ。
「蛮骨の大兄貴…」

蛮骨がいた。蛇骨の後ろで片膝をついている男の喉元に蛮竜の切っ先を突きつけていた。それを見た瞬間、蛇骨の全身の力が抜けてへたりこみ、泣き笑いのような顔つきになる。蛮骨がからかうように言った。

「よーう、蛇骨。帰りが遅いと思ったら、こんな所で男引っかけてたんか?」
「引っかけてねーよ」
蛇骨は憮然と言い返すと立ち上がり、軽く足を引きずりながら蛮骨の側に行った。それを見た蛮骨が問う。
「足、やったのか」
「矢傷だ。ちょっと後ひいちまった」
未だに切っ先を突きつけられたままの男を見下ろし、蛇骨は冷ややかに言った。
「こいつ、さっきまで医者だったんだ。血を見たら化けやがった」
「ふーん、悪そうなツラしたヤツだなぁ」
蛮骨が大鉾を一度引くと、男は詰めていた息を吐き出す。その前にしゃがみ込み、蛮骨は男の顔をしげしげと覗き込んだ。
「見れば見るほど悪そうなツラだなぁ」
「てめえに言われたくねぇや」
可笑しそうに笑う蛮骨の不敵な面構えに、男は吐き捨てるように言う。
「てめえもそいつも、血の臭いが染みこんでやがる」
「当たり前だ、俺たちゃ傭兵だ。人殺してなんぼの商売だ、血の跡が付いてねぇ場所なんて、身体中どこ探したって、残ってやしねぇよ」
悪びれもしない蛮骨を、男は凝視する。蛮骨は笑った。
「なんだ、てめえ。羨ましいんじゃねえのか?うん?」
笑いながら再び大鉾の切っ先を突きつけた。男は鼻先に光る大鉾を無言で見つめる。蛮骨は切っ先を突きつけたまま立ち上がると、男に向かって誘うように言葉を重ねた。

「羨ましそうだな、てめえも、好きなだけやりたいんじゃねえのか?」
「好きなだけとは、なんの事だ…」
男の血走った目に僅かに理性の色が浮かんだ。超えてはいけないギリギリの境界線の内側にかろうじてしがみついているような、そんなか弱い色だ。
蛮骨はそんな男の心中の抵抗を笑い飛ばすように言う。
「わかってんだろ?認めてみろよ。そうしたらいい所へ連れて行ってやる。てめえも十分、楽しめる場所だ」
そこまで黙って聞いていた蛇骨が、憤然と食ってかかった。
「兄貴!この野郎をどうするってんだ!」
「元医者が化けたってんだろ?おもしれぇじゃねえか。そんな野郎、今まで見たことも聞いたこともねえや」
「そんなの…!」
なおも抗議しようとする蛇骨の腰に手を回し、蛮骨はその身体を乱暴に引き寄せた。
もう、これ以上は言うな、という事だ。蛇骨は蛮骨の腕に抱き寄せられ、身体を密着させてそれを悟った。蛮骨は傲慢な笑みを浮かべたまま、男を見下ろしている。
蛇骨は息を吐いた。もう何を言ったところで、蛮骨は自分の言葉なんて聞く気がないのだろう。蛇骨は口をつぐんで蛮骨の肩に腕をかけた。完全にもたれかかりながら、敵愾心に光る目を男に向ける。
蛮骨はこの男が気に入ったのだ。きっと仲間に入れる気なんだ。本気でそう思っているなら、彼は誰の言葉も聞かない。決めるのは蛮骨なのだ、いつだって。
蛇骨は男が答えるのを黙って待った。
長い沈黙の後、男は苦しそうに聞いた。

「……おれをどこに連れて行くって?」
「決まってるだろう。お前が思う存分暴れられる場所だ。極楽みてぇに楽しい――戦場だよ」
何かが弾けたように男の表情が変わった。

この男は仲間になるんだ――蛇骨はそう確信した。



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