◆ 呼ぶ名前 ◆


――おれが名前を付けてやるよ。

そう言われ、拾われた傭兵隊の本拠地である里に連れてこられて数日。
少年はいまだに名前がなかった。
とはいえ、それまでもずっと「おい」とか、「そこの」とか、そんな風に呼び付けられるのが当たり前だったので別に不自由はない。
兄貴分の蛮少年は自分の言う事だけ聞いてろと言ったが、元来が細かく指図したりする質ではないらしく、少年は「好きにしてろ」とだけ言われて後はほったらかしだった。もっとも、新入りの少年を物珍しがる年輩の男達が面倒を見てくれたので、少年は着る物にも食べる物にも困ることはなかった。好きに遊んでいていいんだよ、と口を揃えて大人達は言った。
何一つ困ることも不自由もなく、少年はその事に困っていた。

何をすればいいのか判らない。
今まで日がな一日こづかれて働き通しだった少年は、ぼんやりと1人で日中をすごすことに慣れていなかった。
少年は自分で物を考えることも、人から好意を向けられることも、哀れみを受けることにも慣れていなかった。
みすぼらしくやせこけた自分を、まわりの大人達が労ってくれているのだと気づけなかった。
優しく扱われる理由が分からず、ただ居心地の悪さしか感じられなかった。


夕暮れが近付くと、留守番の男達が作る夕餉の匂いがしてくる。
ここに女はいない。いるのは、せいぜい老女だけ。
女が欲しければ、近くの集落に行って買えばいい。夫を失って独り身になった女は、大抵は夜這いを拒まない。女が近くにいれば争いの元になる。女の甘え声にそそのかされ、仲間を裏切ったり、命を惜しんで逃げたりと、ろくな事にならないと男達は言う。
たぶんそれは正しいのだと少年は思う。寺で見た女達の行いの醜さ。
金欲しさに金襴の衣を着た坊主の足下にはいつくばり、仲間の女達には口汚く罵ったり足を引っ張ろうと化粧道具を投げ捨てたりする。
あげくに、興味本位で木の陰から覗き込む稚児相手に秘所を見せつけ、その反応を面白がったりと、まるで他人を笑い者にするためだけに生きているように見えた。
少年は女の母性的な優しさや、美しさを知る機会がなかった。「女に惚れるとろくな事にならない」と言いながらなぜ男が女を欲しいと思うのか理解することが出来ず、嫌悪感だけが育っていった。

蛮の姿が見えないと不安になった。誰に声を掛けられても安心できず、少年はいつも蛮少年の姿を探し、そして、大抵見つけられなかった。
少年はいつも不安で、落ち着かない気持ちのまま、ただ蛮少年が戻ってくる時だけを待っていた。


仕事に出ていた男達が戻ってきた合図の音が、少年の耳に届いた。
いそいで村の入り口に駆けつけると、大男達が山のような戦利品を台車に積み、得意げに引いてくる。その荷物の上に蛮はふんぞり返るようにして座っていた。集まってきた男達の後ろに小さな少年がいるのを見つけ、蛮はにまっと笑って台車から飛び降りる。そして少年の腕を掴むなり、「ちょっとこいよ、いいものやるから」と言って里の外れへと連れて行ったのだ。

人気のない場所まで少年を連れだした蛮はにやりと笑うと、鎧の隙間から一枚の紙を取り出し、それを少年の前に広げて見せた。

「『蛇骨』だ!」

少年は広げられた紙を見て、怪訝そうな顔つきで首を捻る。彼には、それが複雑な線の組み合わせにしか見えなかったのだ。
予想していた反応が返ってこなかったせいか、蛮は少し機嫌を損ね、むっとした口調になった。
「字は間違ってないぜ、煉に書かせたんだから」
「字?」
少年は、蛮がなぜ不機嫌になったのか判らない。きょとんとした顔で聞き返す。
「これ、なに?」
「あー、お前、字、知らなかったんだっけ?」
「字ってなに?」
その本気で聞き返す様子にあっさりと機嫌をなおし、蛮は一文字づつ指で差しながら読んだ。
「上の方が『蛇』、ヘビ。下は『骨』、ホネのこと」
「ヘビとホネ?」
「そう、ヘビとホネ、二つ続けて書いて、『じゃこつ』と読むんだ」
「じゃこつ」
少年は蛮が言った言葉をただ繰り返す。
「そう、蛇骨だ。お前の名前だよ」
そう言われ、少年はさっきまでよりも、もっときょとんとした顔になった。


「おれの名前?」
「そう、お前の名前。蛇骨だ」
「じゃこつ……」
少年は確かめるようにその言葉を繰り返し、それから不思議そうに言う。
「おれの名前、ヘビのホネ?」
「うーんとな、そうだけど、そうじゃなくてさ」
蛮は説明に困ったのか、頭をかいた。少年はよく判らなかった。なぜ、「ヘビのホネ」を示す言葉が自分の名前なのか。ただ蛮がそれがお前の名前だと言ったのだから、自分の名前だろうとは思った。
「蛇骨……蛇骨かぁ」
蛮が顔を顰めて説明を考えている間、少年は紙の文字を眺めながら、自分の名前といわれた言葉を繰り返している。意味は分からないが、ともかくそれははじめて付けられた自分の呼び名なのだ。そう納得した頃、蛮はようやく口を開いた。

「えーと、上手く言えねぇけどさぁ」
少年は黙って蛮の言葉に聞き入る。
「蛇ってな。毎年皮を脱ぐだろ。だから、生まれ変わりとか、そういうのの例えに使われるんだと」
蛇が脱皮するのは少年も知っていた。よく、蛇の形そのままの薄い皮が草むらに落ちていたからだ。
「だからさ。お前が今まで何をどうしていようとさ、これからは、前とは別の新しいお前に生まれ変わるって事で、いいかと思ったんだ。それに、蛇は水神だったり、銭神だったり、結構、偉そうだし」
自分自身では「良い」と思って選んだ名だが、もともとがただの聞きかじりなので説明するとなると少し怪しげになる。蛮は最後は誤魔化すような言い方をすると、少し真剣な顔つきになった。

「それから、『骨』の方だけどな、おれの本当の名前は『蛮骨』っていうんだ」
「……蛮骨…の兄貴?」
「そう、蛮骨。親父が、なんかこういう家業は、蛮骨な奴じゃねぇと務まらねぇとかいってさ」
蛮は顔全体で笑うと、また真顔に戻る。
「でさ、おれがそのうちに自分の隊を持った時には、弟分にはみんなおれの名前から一文字とった呼び名を付けようと思ってたんだ。『蛮蛇』とか『蛇蛮』でも良かったんだけど、なんか呼びづれーっていうか、くどいっていうか、それで『蛇骨』だ」
一人肯き、蛮骨は少年の顔を覗き込む。
「……いやか?この名前」
「ううん!」
少年は勢いよく首を振ると、にこっと笑った。
「蛇骨かぁ、おれの名前、蛇骨だ」
そう何度も繰り返し新しい名前を口にする。嬉しそうなその顔に、蛮骨も安心したような顔で笑った。
「さーて、じゃあ、名前も決まったところで、お前の得物も選ばなきゃないな!」
「えもの?」
少年はまたきょとんとなる。蛮骨は呆れた風に言った。
「言ったろ?おれの名前一文字は、おれの隊の弟分につけるって。お前もそのうちおれと一緒に闘うんだ。今のうちに得物を選んで、訓練しねぇとな」
「蛮骨の兄貴と一緒に行ける?」
ぱっと顔を明るくして少年は問う。おかしそうに蛮骨は答える。
「そうだ。だから――蛇骨。お前は強くならなきゃないんだ。おれと一緒に闘って、勝って、生き残るためにさ」
「わかった。おれ、強くなるよ」
無邪気に答え、少年は大きく肯く。闘って生き残るという言葉の意味も考えず、少年は蛮骨と一緒にいられるという事だけに喜んだ。
「おーし!んじゃ、武器小屋行こうぜ。あそこはおもしれーぞ。その辺の侍連中は使わねーようなのばっかりあるんだ。珍しいの作るのが好きな奴がいるからさ」
「うん!」



闘って生き残るというのは、多くの人の命を奪うという事。
少年は、自分がそうやって生きていくことになんの罪悪感も覚えない。
彼はもう、人に使われ、殴られて小さくなっていた下働きの少年ではない。
『蛇骨』の名は、傭兵として生きる者に与えられた呼び名。
武器を振るい、人を殺し、それによって生きる糧を得る。
蛮骨の元で、それを生業とする者が名乗ることの出来る名だ。

少年は自分が『蛇骨』であることを喜んでいた。

――たとえ行き着く先は奈落の底であると、そう知っていたとしても。



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蛮骨→バンカラ 粗野な気風、人柄。もしくは素朴で飾らない気風…だそうです。





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