◆ 生まれて初めての ◆


 

物心が付いた頃、少年の居場所はすでに厨の隅と定められていた。
夜明けから日暮れまで、体が大きくて威張った男に用を言いつけられ、従うことを要求された。自分よりも「偉い人」なのだと思った。
筵一つ与えられたことはなかったが、夏の夜は涼しい水瓶の間、冬の夜は熾き火が燻る竈の前で眠ることが出来たので、少年は自分が恵まれていると思っていた。
着物は着たきりで、帯の替わりに縄の切れ端を巻いていた。
ある日、木の枝に風で飛んできたらしい綺麗な帯が引っかかっていた。
手にとって眺めていると、大男がとんできて汚い手で触って汚したと喚きながら殴りつけた。
その少し離れた場所で、少年とほぼ変わらない年代で、華美な服装の子供達が数人、顔を見合わせてくすくす笑っていた。少年が蹲ったまま動かなくなると、近寄ってきて大男から帯を受け取り、少年を足でこづいて頭を上げるようにと言った。

「こんな物、見たこと無いだろ」

腫れ上がった瞼で見えづらくなった目を上げると、華美な少年は帯をヒラヒラさせながら笑っていた。
接ぎ一つない共布で作った立派な着物。絹の飾り紐。時々、少年の住処とは違う綺麗で大きな建物の廊下を歩いているのを見かけたことがある子供達だった。
とても綺麗なので、少年が思う「偉い人」達が言う、仏様なのかと思っていた。
「仏様」達は少年を面白がってさんざん蹴りつけると、満足したように笑いながら戻っていった。
「仏様」達がいなくなると、「偉い人」がやってきて、早く仕事に戻れと言った。
少年は足を立ち上がると、足を引きずりながら水を汲みに行った。
今日の仕事は、風呂場の桶いっぱいに水を満たすこと。
それが終わると、薪をたくさん用意するように言いつけられた。
風呂場が湯気で満たされる頃、「仏様」達がやってきて、「ああ、風呂はいい。一日の疲れも汚れも落とせる」と気持ちよさそうに言った。
疲れが落ちるとはどういうことなんだろう、と少年は思った。「疲れ」も埃と同じように身体にくっつく物なのだろうかと。


ある日少年は「偉い人」よりもっと「偉い人」から叱責を受けた。
頭をつるりと剃り、濃い色の分厚い着物に、綺麗な色の布を肩から掛けた人だ。
その「偉い人」のさらに「偉い人」の部屋のゴミを持ち出すとき、大事な「キョウモン」に汚れを付けてしまったのだそうだ。
一日食事を抜いて反省するように、と言われ、少年は何も食べずに横になった。腹からキュウキュウと音が聞こえ、絞り上げるような痛みが感じられた。慣れた痛みだった。少年は目を瞑って眠ろうとした。そこへこっそりと「偉い人」が来た。
身体を起こした少年に、小さな饅頭を渡す。少年が饅頭にかぶりついている間、「偉い人」は少年の身体をまさぐり続け、食べ終わるのをを待ちかねていたように覆い被さってきた。

少年は、自分が欲望のはけ口にされているのだと判ったが、特別な感情はおきなかった。
偉い人たちが綺麗な女や少年相手に同じ事をしているのを、時々見かけたからだ。彼等は汚れ物を片づける少年を犬か何かのように無視していたので、その目の前でも平気で痴態を繰り広げていた。だから誰でもする当たり前のことなのだと思っていた。
男の強引な行為に殴られる時とは違う場所が痛んだが、日常的に暴力を受け、痛みに慣れていた少年にしてみれば同じように感じられた。
ただ、耳にかかる男の鼻息が耳障りで早く終わればいいと思った。
その夜から毎晩男は少年を抱くようになった。
大人しく身体を預けていれば、食べ物を貰える。少年にとっては身体の痛みよりもそっちの方が大事だった。

しばらくして、少年は夜中の騒ぎに目を覚ました。
外に出てみると、大きくて綺麗な方の建物が燃えているのが見えた。
門の中全体が燃え上がっているのかと思うくらいに、凄まじい勢いだった。夜の空が赤く染まり、火の粉が舞い上がる様がとても綺麗だった。
少年がそれに見入っていると、目隠しのように並んでいる立木の間から、悲鳴を上げて逃げてくる男がいた。いつも少年に命令する「偉い人」だった。
目を血走らせ、肩の辺りを血で真っ赤に染めた「偉い人」はよたよたと走ってきて転ぶと、少年に手を伸ばして「助けてくれ」と言った。
少年は黙って男を見下ろしていた。体が大きくて、いつも大声で少年を怒鳴りつけ、ごつごつとした手で殴り、そして夜になると小さな饅頭や握り飯と引き替えに少年の身体を弄び、常に力で少年を支配していた男が今は鼻血にまみれ、怯えて涙でぐしゃぐしゃの顔で、幼い少年に向かって助けを求めている。
ひどく滑稽だった。
その背中に何かが突き刺さった。悲鳴を上げて大きくのけぞった男の背中から、鈍く光る刃物が強引に抜かれ、血が飛び散った。また刃物が背中に突き刺さった。男の身体がびくんびくんと跳ねる。大きく開けたまま声のでない口から血があふれ出し、少年の足を赤く汚した。じっと見つめているうち、少年は自分の体が熱くなるのを感じた。下肢にむず痒い感覚が起こり、胃の賦が踊り狂ってるような感じがしたが、けして不快ではなかった。少年は自分の息が荒くなっているのに気が付いた。自分にのしかかっていた男の息と同じような勢いだ。その男は最後の痙攣を起こした後、白目を剥いて動かなくなった。血はどくどくと流れて地を赤く染め、少年の目はそれに釘付けだった。(舐めたら、どんな味がするんだろう)と少年はうっすら思った。あまりに腹が空きすぎた時、見つけた蛇を捕まえてかじり付いたときの味を思い出していた。


◆◆◆◆◆◆◆


「おい、お前!」
男の声に、少年は目線を血から目の前の殺戮者に移した。意外と小さい身体、少年とさほど変わらない年齢くらいの子供だった。すでに身に合った鎧を着け、いっぱしの槍を手に持っている。情け容赦なく自分より大きな男を刺し殺した殺戮者は、踏みつけにしていた男の身体から下りると、少年の目の前に立ってその顎に手を掛けた。顔を動かせないように固定してから、じろじろと値踏みするように見る。少年が動かずにいると、殺戮者はにやっと笑った。
「ちびっこくても女は女だ。親方が喜ぶかな」
殺戮者は1人で呟くと、少年の腕を掴んで歩かせた。引かれるままに歩き、壮麗だった建物の方に行く。大火事だと思っていたが、燃えた場所は僧坊の一部だけだったようだ。燻る煙の中で、鎧をつけた男達が中から荷物やぐったりした人間の身体を運び出している。少年は、その動かない人間達が「偉い人」や「仏様」達なのだと気が付いた。いつも身綺麗にし豪奢な着物を纏っていたその人達は、今は血と煤に汚れ、着物も剥がれたのか半ば裸で庭の隅に投げ出されていた。
それをじっと眺めている少年に気が付いたのか、殺戮者の少年は嘲笑うように言った。
「すげえだろ、あいつら。訳有りの貴族や城持ちの若様達だぜ?学問を授けるって口実で預かって、代わりに金銀やら錦やらのお宝をたんまり頂いて貯め込んでたんだ。あげくに夜な夜な女引き入れたりお稚児遊びしたり、すげえ生臭坊主共の巣だったぜ。おかげで俺達は大収穫だがな」
そう言って笑った後、反応の薄い少年に不満だったのか殺戮者の子供は付け加えた。
「別に俺達はただの野盗って訳じゃないぜ。実のところな、別の寺院の奴らから依頼を受けたんだ。だから、お咎めがあるわけじゃない。それどころか、良いことをしたってお褒めの言葉を貰う立場なんだ。坊主共のなわばり争いってのは、戦するよりえげつないぜ」
何を言っているのか理解できない少年は押し黙ったまま、自分の手を引く槍を持った少年を見返すだけだった。ただ、自分が見知っていた人たちは、思っていたような「偉い人」でも「仏様」でもなかった事だけは判った。
せっせと働く男達の間を抜け、少年はひときわ立派な鎧をつけて、床机に座った男の前に連れ出された。男は2人の少年を見ると、返り血で薄黒くなった顔でにっと笑った。
「よう、蛮!初陣の感触はどうだ?」
「言うまでもねえだろ?ただ槍がちと軽いなあ」
「ガキのクセして言いよるわい」
親方は豪快に笑うと、蛮が連れている子供に目を向けた。
「なんだ、そのガキ」
「裏で見つけた小娘だ。坊主が寝床に引き入れていた女はうっかり殺しちまったんで、代わりにやるわ」
「ほう、どれどれ」
親方は少年をつまみ上げるようにして膝に乗せた。そして縮こまった少年の顔をじっと見ると、呆れたように蛮に告げた。
「おい、こりゃ、女じゃねえ、童(わっぱ)だ」
「はあ?」
頓狂な声を上げる蛮に、親方は少年のボロボロの着物の裾をめくって見せた。下帯をつけていない少年の下肢がむき出しになる。
「ほれ、りっぱについとるわ」
「ありゃ、見間違えたか。で、どうする」
「どうするも何も、連れてきたものはしょうがねえ。とりあえず、飯でも食わせておけ」
親方は少年を地面におろすと、尻を叩いて蛮の方に押しやった。
なんだか判らないままに近付いてきた少年のポカンとした顔を見ながら、蛮は見間違えたのが気恥ずかしかったのか渋い顔で頭をかく。が、じいっと自分を見上げる少年に肩を竦めると、蛮はにまっと笑った。
「ま、良いか。ついてきな」
一党の中で最年少の蛮はこのやせこけた子供を自分の弟分と決めたようで、兄貴面で腕を引いた。
「飯っつっても、まだ飯は炊けてなさそうだな」
蛮は飯の支度を始めた連中の方を向いて鼻を鳴らすと、くいっと進む方向を変えた。
「親方、着物一枚貰うぜ」
「おう、好きにしな」
大きな杯を傾ける親方は、積み上げられた財宝に機嫌をよくし、鷹揚に言った。外には大きな純金の仏像まで運び出されていた。
それを横目で見る少年は、1人の僧が親方の側に近付くのを見た。何か小声で話をし、親方は上機嫌で笑っている。それを見ている少年に蛮は気が付いた。
「ああ、あれは坊主の生き残りじゃねえ、仲間だ」
「仲間?」
初めて返事をした少年に蛮は気をよくしたらしい。親方に負けず劣らず上機嫌の顔で説明する。
「ああやって旅の坊主の恰好して宿を頼み、中から手引きしたんだ。煉っていってな、頭がいいから、食わせ者の坊主達もすっかり騙された。何たって読み書き算術なんでもござれなんだぜ」
「ふーん……」
ぼんやりとしている少年に構わず、蛮は長持ちの一つを開けた。この寺院に預けられていた子供達の、豪勢な着物があふれる程詰まっていた。蛮は無造作に着物の山を漁ると、少年の体に合いそうな物を一枚見つけだし、適当な帯も引っぱりだした。少年はその帯に目をやった。触って汚したと怒鳴りつけられた、あの時の帯だ。
「これ、気に入ったのか?」
蛮に問われ、少年は無意識に首を縦に振る。「じゃ、やる」と蛮は選び出した着物と一緒に少年に押しつけた。そしてまた手を引っ張る。今度連れて行かれたのは井戸端だった。蛮は自分で水を汲み上げると、少年が着ていた汚い着物を脱がせ、頭から水を掛けた。少年が目を瞑って顔を拭うと、蛮も手を伸ばして少年の顔にこびりついた垢をこそげ落としてやる。痛いほど顔を擦られて少年が涙目になると、蛮はまた水を掛けた。次はバサバサの頭を擦る。同じ事を何度か繰り返した後、少年がようやく目を開けると、目の前の蛮は満足そうに笑っている。
「お前、可愛い顔してるな」
そう言って、優しく頭を撫でさする。少年は撫でられた場所に手を当て、なんだか気持ちがいいと思った。渡された着物を着ると、つるつるとして肌触りが良い。すっかり身綺麗になった少年の手を引き、宴会が始まった仲間の元へと蛮は戻っていく。
男達が気のいい笑顔で迎えてくれた。

「おう、若頭。今日は活躍したみてぇだな」
「みてぇじゃなくて、活躍したんだよ。僧兵を何人ぶったぎったと思ってるんでぇ」
「親父様も自慢そうだ。いつもよりもずっと機嫌がいい」
自慢げに胸を張る蛮に、男達は次々と持てはやす言葉を口にする。一通り褒めちぎった後、年輩の男が蛮の後ろの少年に気がついた。
「それが若頭が拾ってきた童か」
「ああ、そうだった。こいつに飯喰わせてやるんだった」
蛮が目的を思い出すより早く、少年は皿に積み上げられていた握り飯にかぶりついた。豪快な蛮が驚くほどの食欲で、口の中に飯を詰め込んでいく。
「童、急いで喰うと喉に詰まるぞ」
「煮物も食え、美味いぞ」
年輩の男達がこの小さな少年に興味を持って笑いかけてきた。漬け物や汁の入った椀を渡してやる。少年は指についた米粒を舐め取りながら、急におどおどとした様子になって蛮を見た。働かないのに食べ物を貰える、という事はあり得ないと少年は知っていたし、勝手に食べたのに叱られるどころか色々と皿を出され、混乱してしまったようだ。蛮に向かって「おれ、女の代わり出来るよ」と言った。
蛮はもちろん、その場の男達全員が唖然とした顔をした。
「……なんで女の代わりするんだ」
「……だって…食べるのくれたから」
ぶっきらぼうに問われ、少年は手に持った飯を見ながら呟く。
年輩の男が少年の頭を撫でながら言った。
「哀れよのう。この寺の坊主共は腹一杯に珍味を詰め込みながら、この童にはろくに喰わせもせなんだ。飯を食わせる代わりにと、己の一物をしゃぶらせる輩もおったのだろうて」
腹をたてたように、蛮は音を立てて立ち上がった。
びくりと少年が身を竦ませる眼前で、蛮は釜に手を突っ込むと残っていた飯を両手に山盛りとり、無骨な手つきで固めだした。子供の頭くらいありそうな、大きくて不格好な握り飯が出来上がる。その上に漬け物まで詰め込み、形の歪みきった物を少年に突きつけた。
「腹一杯食え。俺が食えと言ったんだから、他になにもしなくていいんだ」
少年は両手にあまりそうな握り飯を持ち、ポカンとした顔で蛮を見返す。
「若頭、童が驚いておるよ」
誰かが取りなすように言った。蛮は酒の入った瓢箪を持つと、ポカンとしたままの少年の襟首を掴んで引きずるように歩き出す。握り飯を持ったまま連れられていく少年に、男の1人が「若頭、苛めたらあかんよ」と声を掛けた。蛮が唐突に振り返って「そんな事しねえ、こいつは俺のだからな!」と怒鳴る。少年は蛮の顔を見た。怒ってるようだった。


蛮に連れられて鐘楼まで来た少年は、台に腰を下ろして持ってきた握り飯をもそもそと食べ始めた。隣で直接瓢箪から酒を飲んでいる蛮を見ると、向こうも気が付いたのか少年を見返す。急いで俯くと、蛮は酒を飲んで気が晴れたのか、磊落に言った。
「おい、お前さ。名前あるのか?いや、いいや、俺がつけるから」
返事を待たずに勝手に決めつけ、また瓢箪を煽る。
その様子をじっと見ていると、蛮は少年に瓢箪を渡した。
「飲めよ」
「……飲んでいいの?」
「いいから飲めって」
一口飲んでむせた少年に彼は言った。
「今日から俺のことを兄貴と呼べ」
頷く少年に蛮は重ねて言う。
「お前は俺のだから、俺のいう事だけ聞いてれば良いんだ。判ったな」
少年はこくこくと何度も頷く。上目遣いでじっと見つめる少年に、蛮は破顔してその頭を抱え込むとぐりぐりと撫で回した。
「お前、可愛いなあ」
犬か猫の子を可愛がる動作だが、少年はその動作が心地よくて抱きかかえられたまま目を閉じる。一晩のうちにいろいろあり過ぎて忘れていた眠気が一斉に襲ってきた。
蛮はまだ酒を飲みながら、片手で少年の痩せた身体を撫でている。
「名前は何がいいかな」
トロトロとした眠気の中で、そういう声が聞こえる。

目が覚めたら――きっと名前を付けて貰える。名前で呼んで貰える。
おれは兄貴のものだから、ずっと後をついていけばいい。
そう考えながらつく眠りは心地よかった。
ついさっき起きたはずの恐ろしい出来事、見知った人々の死に顔も、血も、炎も、何もかもどうでもよい事で、優しくしてもらって、たくさんの食べ物を貰ったことだけが大切だった。
それにもう、彼をさんざん嬲ったあの男はもういない。彼を殴って笑った子供達もいない。いるのは、自分に名前をくれると言った兄貴だけ。

ああ、なんかおれ、すごく嬉しいな――。

少年は生まれて初めて、安心の中で眠った。





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