◆ 渡る影 ◆


見上げた夜空の真っ正面に、巨大な望月が浮かんでいる。
それはあまりにも大きくて、そして眩しくて、手を伸ばしたら突き破って向こう側に手が抜けるのではないかと思えるくらいに近く、そして薄っぺらな紙細工のように見えた。
蛇骨は目の上に翳した手を、思いついたままに空に向けて伸ばしてた。
なんとなく手で掴めそうに見えたのだが、当然の事ながら遙か上空にある月に手が届くわけもなく、蛇骨はつまらなそうな顔で上げた手を握ったり閉じたりしてみる。

「やっぱり、届くわけねーよな」

そう落胆のため息を付く蛇骨の背後で、慌ただしく駆け寄ってくる足音がした。
「蛇骨殿!何か見えましたか?」
息せき切った声が、緊張気味に問うてくる。今夜の不寝番の1人だ。空を見上げて妙な行動をする蛇骨に、もしや敵の斥候の影でも見つけたのかも、と思ったらしい。
「なんも見えるわけねーだろ?っていうか、こっちは向こうさんの陣とは逆側じゃん。どうやって後ろに回り込むってんだよ」
振り向いて兵の顔を見据えると、蛇骨は鬱陶しげに言った。
夜襲をかけるにしても、これだけ月が明るい時刻に動くわけがないだろうと、半ば呆れ気味に考える。
夜とは思えないほどの月明かりの下で、若い兵は意気込んでいた顔をさっと赤くした。言われてみれば当然の、馬鹿な質問をしたと恥ずかしくなったようだ。
まあ、それでも無理はないかと蛇骨は思った。急ごしらえの柵を巡らしただけの砦の、ほんの目と鼻の先に敵の陣が張られているのだ。
いつ急襲があるかと、砦の兵達は神経を張りつめて、一日中見張りをしている。そこへ傭兵が奇妙な仕草をしたのだから、何事かと気にするのも当然かも知れない。かといって傍らに張り付いていられても鬱陶しいので、「まー、とりあえずさ、なんか見かけたら声出すからさ」と無責任に言い、蛇骨はそそくさとその場を離れる。彼等七人には見張りの義務はない。ただひたすらに襲撃に備え、体力を温存し、いつでも戦える状態にしておく事だけが、今の彼等の仕事だ。

「……とっとと始めりゃいいのになぁ…まあ、初手であれだけ大兄貴にやられたら、怖じ気づくのも当たり前だけどなぁ」
蛇骨は思い出し笑いを零した。
山間の谷間を見下ろす高台に出来た小さな砦。くびれた形の谷の向こう側には敵の陣がある。隣国の領内に入り込むには、いやでもこの砦の真正面を抜けなくてはいけない。
戦に出る直前に、敵方の城に潜り込んでいた間者から、兵が二手に分かれて挟み撃ちを狙っているという情報が入った。そこで、その別働隊を抑えるために向けられた部隊に、七人隊は組み込まれたのだ。
かろうじて敵方が領内に入り込む前に見つけだし、この場所に脆弱ながらも砦らしきものを築くことが出来たのは、それこそ、最前線で敵を薙ぎ払って時間を稼ぎだした七人隊の手柄だった。
本当の砦は、七人隊の戦闘力といっても言い。

それ以来、この数日の間、敵は動かない。城からの知らせによると、敵の本隊も国境の城に入ったまま、動いてこないのだそうだ。
ここの砦が突破されるのを待っているのだろうと言うのが、煉骨の意見だ。
今回は戦を諦めて退くのもよし、とっとと勝負を付けるもよし。
どっちにしても、毎日武器を磨いて、寝てるだけというのも芸がない。
正面から勝負を挑む危険を考えると、おそらく月が欠けるのを待って夜襲に持ち込むつもりではないかと、これも煉骨が言っていた話だ。
だとしたら、こんな風に月が丸く大きく登っている夜は、緊張してるだけ無駄だと蛇骨は思う。
陣地内をふらふらとそぞろ歩くだけでも、不寝番連中の注目を集めてしまうことに気が付き、蛇骨は陣の端の方に向かった。
柵の際に燃やされている篝火の明かりもこの辺りには届かず、見張りの兵もいない。昔はこの辺りにも人が住んでいたらしく、壁に穴が空いたような小屋がいくつもあって今は兵達の寝小屋になっている。
他の仲間達もその辺の小屋の中で、武器をかかえて休んでいるはずだ。
襲撃もないのに夜中にうろうろしているのは、きっと仲間内で自分だけだろうと思った。
寝飽きていたせいもあるが、今夜の月は格別だ。見ていると、妙に気分が高まってきて、こんな時に好みの男と良いことをしたらさぞやいい気分だろうと考え、蛇骨は肩を竦めた。

「好みの男なんて、いねーじゃん。へたにちょっかい出すと煉骨の兄貴が怒るし、ほんと、真面目だからなぁ…」

そう言って、蛇骨はまた空を見上げた。
相変わらず、眩しすぎて金を塗した作り物に見える月だ。
夜だというのに、足下に伸びた影さえくっきり見える。
蛇骨は今夜は外で寝ることに決めた。
寒くもないし、風もない。陣の背後は高台から平地へと続くなだらかな下り坂になっており、その途中に程良い高さと枝振りの木がある。
あの影に寝っ転がっていれば、警戒のために陣内を歩き回る兵達にも見咎められることはないだろう。
そう思って歩き出した蛇骨は、少し離れた場所から、自分と同じ方向に歩いていく後ろ姿を見つけた。
体格や身につけているものからして、どう見ても睡骨だ。
「なーんだ、あいつも夜更かししてたのか…」
だがそこで蛇骨は首を捻った。
見慣れているはずの後ろ姿が、なんとなくいつもと違う雰囲気に見える。
この、嘘臭い月明かりで見ているせいだろうか。
そう眉を寄せて考え、考えるよりも近くに行って確かめた方が早いと考え、蛇骨は足を速めて背後に近付いた。足跡が聞こえているはずなのに無視され、それが癪に障った蛇骨は乱暴に睡骨の肩を掴んだ。
「おい、ちょっと待てよ、てめーーー!」
乱暴な言葉に睡骨は振り向いた。が、その顔を見て、蛇骨はぽかんとなって手を離した。黙って自分を見ている顔に、おもわず上擦った声がでた。
「お前、医者のほうかよ!」
嫌そうに顔を顰めた蛇骨を、穏やかな医者の顔つきになった睡骨は黙って見ている。そこでまた蛇骨は首を捻った。 医者ならば、蛇骨を見れば怯えるなりするはずだ。こんなに落ち着き払って、それどころかまったく動揺する気配も見せないなどという事はあり得ない。

「……お前、誰だよ」
警戒する素振りを見せた蛇骨に、医者の顔をした男は苦虫を噛みつぶしたような顔つきになって聞いた。
「お前、おれと寝たことないか?」
「はあ?」
唐突な問いに、さすがの蛇骨も頓狂な声を出した。
「いきなり、なに寝言いってんだ?お前」
「いや、なんかお前の顔を見ると、やりたくなるんでな。前に寝た事あったかと」
「ふざけた事言うヤツだな、てめえには、おれの顔が女の股にでも見えてるってか?」
半分本気で怒ると、医者の顔をした男は飄々と答える。
「女の股は今んところは、いらねぇなぁ。それより、寝たことはないのか?」
「拘るなぁ。どうでもいいだろうが、そんな事」
面倒くさそうに言い放つと、男は薄笑いを零した。
「そうか、おれの気のせいか。なんか前にあんた相手に、良い思いした気がしたんだけどな。顔を合わせたのも初めてか?」
その言葉に、蛇骨は複雑な顔になる。
「……なんかお前、妙なやつ…おれのこと、おぼえてねーの?」
「覚えてるような気がしたんだが、違うかもしれねぇ」
また厄介なことになったのかと、蛇骨はため息混じりに思った。
これは医者の顔をしているが医者ではなく、睡骨ともまた違うらしい。あの無骨な顔に似合わないどこかピリピリした雰囲気が失せ、妙な余裕を感じさせる。医者とは当然のごとく違う。この張りつめた陣の中にあって、まったく戸惑いを見せていない。自分が誰なのかさえ判っているのかどうか怪しいというのに、何故こんなに平気な顔をしていられるのだろうか。

「お前は知らねぇけどさ、別のお前と寝たことはあるよ」
奇妙な言い方をした蛇骨に、男は腑に落ちたような顔で頷いた。
「そうか、やっぱり寝た事あったのか。道理で、あんたの顔を見た途端に勃つわけだ」
「なんかよくわかんねぇな…つか、お前、誰さ。お前、自分が誰かわかってんの?」
「判ってるって言うか……うーん…」
男は腕組みをして考え込む。
「とりあえず、俺は今しかいられねって事は判る」
「ますますわかんねぇ…医者でもないし、睡骨でもないし、今しかいられねぇって、お前なんなのさ」
「医者と、睡骨ってのがそれなのかな?なんかさ、……おれの前に二人立ってるわけさ。ずーっと遠くにいて、おれはその背中だけ見てる。本当ならまだそこにいて見ているだけの筈なのに、なんでか外に出てきちまった。おれは多分そいつらの影なんだ」
「影?」
ますます判らなくなって蛇骨は頭を抱えた。その様子に、男は自分でも今の状態がよく分からないのか、じっと足元を見て考え込んでいる。
そして、ふと思いついたように言った。

「おい、あんた。足下見てみな」
言われるままに蛇骨は足を見た。煌々とした月明かりで浮かび上がる影が、傍らにいる男の影と重なり合って一つになっている。
男は、影の重なってひときわ濃くなっている部分を指差し、「多分、これみたいなもんだ」と言った。
「前にいる、多分お前の知ってる連中の影がたまたま重なり合ったのがおれだ。あいつ等はてんでに違う方向を見ていて、そして離れようとしている。おれがいられるのは、あいつ等が離れてしまうまでだ」
「ふーん」
影の例えはよく分からなかったが、最後の言葉を蛇骨は耳に留めた。
「そうすると、そのうちに睡骨か医者のどっちかに戻るんだ?」
「多分な」
「ふーん」
蛇骨は顎に手を当てて、何か考え込む顔つきになった。
ややこしい事に代わりはないが、そのうちにまた戻るというのなら、問題はないような気がした。医者になってしまったら少し厄介だが、あの臆病な男がこの状況下で居座るとも思えない。
少し脅かしてやれば、睡骨に戻るだろう。
と、そこでまた蛇骨は顔を顰めた。戻るのはいいが、いったいいつ頃戻るのだろうか?

「お前、いつ頃、元に戻んの?」
「おれが目障りか?」
「いや、それはどーでもいいけどさ。今は敵と睨み合ってる最中だからさ、戦が始まったところで逃げ出されたら、大兄貴達が困るっつーの」
男は蛇骨の言葉に吹きだした。
「どーでもいいのか。戦が起きても、多分、逃げ出す気は起きないと思うがな。どうせなら、消えちまう前に一度くらいやり合ってみたいくらいだ」
そう答えながら自分の手を眺め、恍惚とした顔をした。
「おれは戦い方も、その時どんな気分になるかも、ちゃんと判ってるぜ」
「ふーん、なら、いいか」
納得気味に頷き、蛇骨はにやりと口角をつり上げた。
「それじゃ、やっとこうぜ」
そう言って、男の首に腕を回し、身体を押しつける。男は肩を大きく揺らすと、笑いを堪えながら言った。
「あんた、突拍子もないな」
「てめぇが勃つって言ったんじゃん」
「そりゃ、言ったがな」
「お前が勃つって事はさ、睡骨がおれの事、良かったって思ってるって事だろ?だったら、お前を良くしてやったら、戻った時にあいつもおれのこと見て勃つって事じゃねーの?」
蛇骨は面白そうににんまりと笑った。
「あの仏頂面がその時どんなツラするか、見物だってーの」
その様子を見て男は少し気難しげな顔になった。
「その睡骨ってのは、おれの名前か?」
「そう」
「お前は、おれの事は睡骨って呼ばねぇんだな」
「お前は違うだろ」
こともなげに蛇骨は言う。
「おれが睡骨って言ったら、おれ等七人隊の睡骨のことだ。お前は違うって言ったじゃん」
「……そうだな、確かに違うが…」
男は不服気な顔つきになると、蛇骨を引き寄せて訊いた。
「じゃ、なんで違うおれと寝る気になった?」
「てめぇはさ、なんか話が通じすぎてあんまり面白くねぇけど、睡骨は話が通じねぇからさ。今のうちに、からかうネタ仕込んどこうと思って。あいつがおれの顔見て股押さえたら、笑えるじゃん」
男の膝に乗り上げながら、蛇骨はけらけらと笑う。
「笑うネタか。あんた、性格悪いな」
「良いじゃん、別に。笑われるのは、てめぇじゃねえし」
「まあ、確かにな。おれなら股押さえる前に、あんたを押さえ込む」
「そーゆーところが、今一つ、面白くないってーの」
蛇骨は焦れた顔つきになった。
「やる気がないなら、おれは勝手に寝ちまうっての」
「やる気がないなんて事は、言わねぇさ」
そう言いながら、男は頭上の月に目をやった。
少しばかり傾いた月は、心持ち色をくすませ、影のようなものが浮かび始めている。
「この月が上がってる間だけかなぁ…」
ぼんやりと呟くと、物問いたげに何か言いかけた蛇骨の口を塞ぐように、男はその唇を強く吸った。


◆◆◆◆◆◆


肌寒さを感じ、蛇骨は目を開けた。
夜明けだ。

日の出まであと僅かという時刻の、薄ら寒さを感じさせる色合いの空の隅に、山陰に逃げ込みかけてるような頼りない小さな月がいる。
ほつれた結い髪から垂れ下がる髪の一房をかき上げ、蛇骨は寝ぼけ眼のまま着物をかき寄せた。
背後から手が伸び、背中に流れる髪が引っ張られる。
「……何だ、お前も起きたのかよ」
振り向くと、半身を起こしかけた男が消えかけの月を眺めている。
「どうやら、おれも消えるらしい」
「……ふーん…」
「少しは名残惜しがるフリでもしてみたらどうだ?」
「別に名残惜しくねぇし」
あっさりと答える蛇骨に、男は笑いながら少し寂しそうな顔で言った。
「そう言うだろうと思ったよ。まあ、いいさ。今は消えるとしても、いずれはおれが本物になるはずだ。その時は、ちゃんと名前で呼んでくれよな」
「お前が睡骨になったらな。そん時はそう呼んでやるよ」
男は無言のまま頷くと、また横になった。そのまま目を閉じる男に、蛇骨は問いかける。
「目が覚めたら、医者か睡骨かどっちかか?」
「ああ」
「どっちになるか、判るのか?」
「さあな。それは自分で確かめな」
少しだけ意地悪く言うと、男はそれきり口を閉ざし、すぐに小さな寝息が聞こえてきた。
そのすぐ隣に、蛇骨は頬杖をついて横になる。寝顔を眺めながら、手持ちぶさたの態で、支えにしていない方の手を睡骨の髪に絡めた。
柔らかい髪をいじくりながら、どっちの睡骨が目を覚ますのだろうと考える。

男は、自分は二人の影だと言った。
一つの影が消えたとしても、次に目覚めるのも別の影のようなものだ。
医者と睡骨と、片方が出てくれば片方は消える。いつだってどちらかは影に回る。
今、目覚めを待つ蛇骨が考えているように、睡骨本人も眠りに入る度に考えたりするのだろうか。 目覚めるのは、自分なのか、それとも医者なのかと。
目が覚めたら、消えているのは自分の方じゃないのかと。


徐々に強まってきた朝の日差しが、頭上に揺れる枝の影を濃くしていく。
不意にいじっていた髪が硬さを増した気がして、蛇骨は睡骨の寝顔を凝視した。
髪が逆立ち、穏やかだった顔に血印のような模様が鮮やかに浮き出てくる。
そこに表れた見慣れた顔に、蛇骨は何故かほっとしたような心地になっていた。





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