◆ 雨 ◆
 

 
水の匂い――瓦に弾ける水の音――雨。
殺生丸は身体を起こした。
格子窓の向こうは銀の糸のような雨。
聞こえるか聞こえないかの細い雨音に、殺生丸は耳を澄ませる。
森の生き物たちも今宵は木の陰に身を潜めて雨を避けているとみえ、鳴き声一つ聞こえては来ない。
立ち上がりかけた殺生丸の手首を、傍らで眠っていた筈の男が掴んだ。
身体を起こしたものの半分寝ぼけているのか、弥勒の眼差しはどこか焦点が定まっていない。
「冷えてきましたなぁ」
そう言って弥勒は殺生丸を背後から抱き込むと、そのまま暖でもとろうというのか、腕の中の妖の背中に自分の胸をぴたりと添わせた。
殺生丸は肩越しに弥勒を見る。
やはり寝ぼけているようで、半開きの目をしたまま殺生丸の肩に頭を乗せている。
 
「雨だ――」
低く言うと、弥勒はぼんやりした顔のまま窓の外に目をやった。
「ああ、雨ですな…」
掠れた抑揚のない声で、弥勒はひとりごちる。
「…雨も冷たくなる時期になったのであれば……そろそろ、冬の支度をしなくてはいけませんな。どこぞで掻巻と火鉢と炭を調達してこなくては…」
そう言って、またこてんと殺生丸の肩に顔を伏せる。
随分と呑気な仕草だ。それよりも眠いのであれば横になればいいのに、殺生丸の身体を抱き込んだ腕を放そうとはしない。
殺生丸は僅かばかり眉を潜めた後、結局そのままの姿勢でいることにした。
背中から感じる体温は確かに心地よい。
別段、暑い寒いが身体に堪える事はないのだが、それとはまったく別の次元の心地よさ。
 
 
雨は静かに降り続けている。
眠ってしまったかと思っていた弥勒が、僅かに顔を上げた。
「このまま、ずっと雨が止まなければよろしゅうございますなぁ…」
何を言っているのかと、殺生丸はちらりとその顔を窺った。
弥勒は窓の外に降り続ける雨を、静かな目で見つめている。
「このまま、何日も何日も雨が止まなければ、その間ずっと私達はここで足止めを食らいます。
そうしたら、ずっと二人きりです――雨が止むまでの間だけは、ずっと――」
二人きりだというのに辺りを憚るような低い抑揚のない声で、不思議と殺生丸は胸がざわつくような感じがした。
 
「…たわけが。私だけならいざ知らず、このような蓄えもない場所で足止めを食らったら、貴様は乾涸らびてしまうわ」
「それも道理ですなぁ」
素っ気ない殺生丸の言い分にくくくっと力のない笑い声をあげた後、弥勒は思いついたように言う。
「身体が邪魔ですなぁ、いっそのこと、身体が無くなってしまえば、何も煩うこともないのに」
そう自分で言っておいて、すぐに自分で否定する。
「ああ、でも身体が無くなれば、こんな風に触れあうことも出来ませんな」
殺生丸の身体に回した腕に僅かに力がこもった。
「…何もかもが良いようにばかりは、いかないものですなぁ…」
再び殺生丸の肩に弥勒は顔を伏せる。内にこもった声は泣きだしそうな程に頼りない。
殺生丸は顔を伏せたままの弥勒を見つめる。
 
殺生丸は慰めの言葉を知らない。
慰めるという行為それ自体を知らない。
それでも縋るように自分を抱きしめる男をみていると、心の奥から自分でも知らぬ思いがわき上がってくる。
 
『雨が止まなければいい』
 
『止まなければ、このまま』
 
『ズット、コノママ』
 
『…コノママ、二人キリ…』
 
寺を覆う帳のような雨。
全ての音も水が吸い取り、ここだけが世界から切り取られた様なそんな錯覚。
 
『雨が止まなければいい』
 
殺生丸の中を、その言葉だけが繰り返しよぎる。
この感情をなんと呼ぶのか――殺生丸は知らない。