◆ 朝氷 ◆


 

季節が先に進みすぎたような、冬にしては暖かい朝。
枝に積もった雪が、朝日に溶けて大地に落ちる。
その音に弥勒はくるまっていた夜具から顔を出した。
昨夜1人で眠った本堂に居るのはやはり弥勒1人で、待ち人はまだ姿を見せない。
弥勒はぼんやりとした顔つきで、夜具を頭から被ったままで扉を開けた。
昨日ここへ来たときは頑固なくらいに硬く地を覆っていた雪が溶け、所々にぬかるみを作っている。
溶けかけの雪が陽を弾いて目に痛いほど眩しい。
弥勒は夜具を無造作に落とすと、外へでた。
1人でぼんやりしていても手持ちぶさただし、だからといってする事もない。
のんびりとした気分で弥勒は寺の周りをぐるりと回る。
裏手の雑木林を抜けると、その先は池。
表面を覆っていた氷も、この暖かさですっかり薄くなり、水に溶け込もうとしている。
弥勒はぼんやりと薄氷と水面が反射させる光の乱舞に目をやった。
普段は薄い灰色の冬空も、今日はいつにないほど美しい青。
氷も水もその青を写して眩しく光る。
弥勒はその色が何かを連想させることに気が付いた。

眩しい光。
光の青。
冷たく輝く色が暖かい大気に溶けていく。

思い当たることに弥勒は薄く微笑んだ。
(殺殿のようだな、まるで)
触れれば切れそうな程に冷たい面差しが、時に柔らかくなる。
金の瞳と銀の髪が光を弾く。
眩しくて、そして綺麗で目を奪われる。
弥勒はその姿を思い出して目を細めた。
側にいなくても、何かのはずみで思い出すのは殺生丸のほんの些細な仕草。
たとえば面倒くさそうに動かす無造作な手つきとか、黙って遠くを見ている視線が自分の方をふっと向いた瞬間とか、今までだったら多分見過ごしてしまいそうなくらいに他愛のない事ばかり。


弥勒は比較的乾いている切り株に腰を下ろし、本格的に薄氷が溶けて水に戻っていく様を眺め始めた。
不思議な気がする。
生まれた時から、呪いという寿命に追い立てられ、とにかく一日一日を必死に生きてきた。
悩んだり落ち込んだりしている時間ももったいないと言わんばかりに、いろんな事をしてきた。たとえ明日死んでも誰も恨まないようにと、好き放題やって充実した日々を過ごしていた。
今は何がなんでも生き延びたいという気持ちの方が強く、むしろ以前よりも焦燥を感じる瞬間が増えたというのに。
それなのに、昔よりもはるかに生きている、そういう実感がある。他愛のない事が楽しく感じる。
こうやって景色の美しさに見入る等という事も、以前はあまりなかった。

弥勒は膝に頬杖を着いて、水面の光の乱舞を見つめている。
キラキラと光るのはただの自然現象に過ぎないのに、見入っている時間を無駄とも感じず、飽きもしない。日が昇るにつれて気温も上がり、暖かい陽射しが降り注ぐのも心地がいい。
何をするでもなく、弥勒はただそこに黙って座っている。
ふと、日が陰った気がして弥勒は顔を上げた。
すぐ横に立つ人影は、ぼんやりしている弥勒を「何事か?」といった顔つきで見下ろしていた。
「お待ちしておりました、殺殿」
満面の笑みを浮かべる弥勒とは逆に、殺生丸は怪訝そうに目を細めている。

「……邪魔をしたか?」
「は?なんのですか?」
「何かをしていたのか?」
「いいえ、何も?」
「……」
かみ合わない会話に、殺生丸の方が先に口を閉じた。
弥勒は質問の意味をようやく察し、照れくさそうに笑いながら立ち上がる。
「殺殿が見えられないか様子を見ようと思い外へ出て、思いがけずこの水面の光景に見入っておりました」
「水面?」
殺生丸はいぶかしげに池を見る。
彼の目には、別段変わったことのない溶けかけの氷が張った冬の池だ。
「珍しいのか?」
「いいえ、……そう言うわけでは」
氷が陽射しに溶けていく様子を見てあなたを思い出しました、等とも言えず、弥勒はただ笑って誤魔化す。笑っているうちに不意にくしゃみが出た。
いくら暖かいとはいえ季節は冬。戸外で動かずにいれば身体が冷え切るのも当たり前である。
急に寒さを感じだして震えだした弥勒に、殺生丸は見慣れた呆れ顔をした。

「……冷えを感じてもなお外を眺めているとは、変わった趣味だ」
「趣味ではございません……たんに忘れていただけです」
「帰るのをか?」
「寒さを、です」
相変わらずかみ合わない会話をしながら、弥勒は殺生丸にすり寄るとぴたりと背後からしがみついた。
「ああ、暖かいですなぁ」
自分の背中にへばりつくようにして息を着く弥勒を横目で見やり、殺生丸は僅かに小首を傾げる。揺れた銀の髪の色合いが、今まで眺めていた陽を弾く氷の色と同じなのを確かめ、弥勒はまた1人で笑う。
「何がおかしい」
「いえ、おかしいのではなくて、……まあ、いいです」
曖昧に答えて弥勒は殺生丸の肩に顎を乗せ、そのまま前を見る。

(あなたの髪の色があの氷と同じだから。氷を見て、貴方を思いだして幸せに浸っておりました……なーんていったら、判ってくれるかな)
そんな事をくすくす笑いながら考えてみたが、結局弥勒は口に出さなかった。
下手な事を言って機嫌を損ね、はり倒されるくらいなら、こうやっている方がいい。
「あーーー、……なんだかいい気分です」
自分の肩に顎をのせたまま気楽に言い放つ弥勒に、殺生丸は妙な顔つきをしたが振り解くでもなく、そのままにしておく。言いかけた男の言葉を追求してふざけた事を答えられるくらいなら、こうやって静かに時間を過ごしている方がいい。
弥勒はなにも言わず、殺生丸も動かず、お互い何をするでもなく景色に溶け込んだように時間だけが流れていく。


目の前で揺れる髪の色が、瞬きをする瞳の色が、自分の頬に触れる柔らかい頬が、今、それを直接見て感じているという、ただそれだけの事がとても贅沢に感じるのは何故だろう。
弥勒は遅れてきた待ち人を抱きしめながら、水面に目を向ける。
薄氷は完全に溶け、揺れる水だけが光を反射してキラキラと光る。
それは今まで感じた事もないほど、眩しくて美しい光景だった。
生まれたばかりの赤子が、最初に目にした光のように。






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