◆ 生きている場所 ◆
 
 
 
厨の方から焦げた匂いがする。
人間なら香ばしい、と称するかも知れない匂いも、殺生丸にはただの焦げた匂い。
朝露の香りが清々しく漂う早朝の時間に割り込む無粋な匂いに、殺生丸は僅かに顔を歪めた。
足音を立てずに外から厨へと回る。
そこでは弥勒が火桶の側に屈み込んで何かをしきりに炙っている。
何をしているのかとすぐ背後まで近付いたところで、弥勒は振り返った。
 
「おや、お珍しい。食事の用意など、今まで気にとめられた事もないのに」
そう言って笑いながらも弥勒の手は止まらない。
朴の葉に包んだ何かを、熱い灰の上に乗せている。
「…何をしている?」
「ですから、朝餉の支度です」
当たり前のように弥勒は答える。今までも此処で食事をしたことはあるのに、殺生丸は全然気が付いていなかったらしい。らしいと思う反面、人間の当たり前の生活に興味を感じるようになってくれたのはかなりの進歩だと密かににんまりとする。
「珍しいですか?粟の餅なのですが」
そう言って弥勒はちょうどよく焼けた餅の薄切りを差しだした。
それを受け取り、しげしげと眺めながら、殺生丸は葉に包まれた物体の方にも目を向ける。
「これは煎った豆と味噌を合わせたものです。こうやって焼くとなかなかの美味ですよ」
木の枝で香ばしい香りを上げ始めた包みを弥勒は突っついてみせるが、殺生丸はその匂いに僅かに顔を顰めると、手に持ったままの餅の切れ端に目をやった。
「…一応食べ物ですので、眺めるよりもかじって味見をしてみた方が分かりやすいと思いますが」
弥勒は苦笑しながら僅かな期待をかけてそう言った。殺生丸が何かを食べているところなど見たこと無い。せいぜい、茶や酒を口に含んでいる程度。
無表情ながら食べ物に興味を抱いているらしい殺生丸を、弥勒はそれこそ興味津々といった態で眺めている。
なにしろ殺生丸には徹底的に生活感が欠けている。手に餅を持っている姿など、めったに拝めるものではない。
 
「毒ではありませんよ」
重ねて言ってみると、殺生丸はようやくそれを口元へ持っていった。
さて、どうするのか?と面白そうな顔で見ていると、殺生丸は餅の端を僅かにかじっただけで、露骨に顔を顰めてしまった。無言のまま餅の残りを弥勒に押しつける。
あまりにも露骨なその表情に、弥勒は呆れる前に可笑しくなってしまった。
「確かに美味とは言いかねるものですが…なにか毒を盛るよりも効いているようですなぁ」
くすくす笑いながら言う弥勒を、殺生丸は口元を抑えて睨め付けた。
本気で口に合わないらしい。かといって一旦囓りとった物を吐き出しもせず、顔を顰めたまま飲み込もうとしている。
 
「無理なさらずに、口に合わなければ吐き出してもいいのですよ」
たかが餅の切れ端一つに何やら苦しげな殺生丸に、弥勒は困り切った苦笑いでそう言った。
それでも口元を抑えたままの殺生丸に、弥勒は水を汲んだ椀を渡す。
水と一緒に餅を喉の奥に流し込み、殺生丸は弥勒をじろりと睨むと一言だけ言う。
「まずい」
「だから、吐き出してもいいと申しましたのに。律儀な方ですなぁ」
苦笑したまま弥勒は返された餅をかじる。
味も何も付いていないので確かに旨いとは言いかねるが、食べ慣れた味なのでさほどまずいとは思わない。
 
「犬夜叉もあまり物を食べませんが、殺殿はそれに輪を掛けておりますな。生肉とか…そういうものならば食されるのですか?」
素朴な疑問を投げかけてみると、やっと常の無表情に戻った殺生丸は抑揚なく答える。
「食せなくもない、といった程度だ」
弥勒は腕組みをして唸る。
「何か好物、という物はないのですか?『人間』以外で」
「人など喰わぬわ」
いかにも呆れた、といいたげな目で見返され弥勒は頭を掻いた。
「いや、それはそれでありがたいのですが…一緒に食膳と囲むというのは、やはり無理な注文なようですなぁ」
はは、と笑いながらいう弥勒に、殺生丸は少し難しい顔になった。
 
 
「私の今の姿は本当の姿ではない」
殺生丸は低く言う。
「本来の姿であれば、貴様ごとき食するという意識もなく飲み込んでしまうだろう」
弥勒は頭に当てていた手を下ろし、真摯な目で妖を見返した。
「貴様は私の本性を知らぬが故に、その様なふざけた事が言える」
「そうかも知れませんなぁ」
弥勒はわざと軽く言った。
「殺殿の本性が巨大な化け犬であるというのは、聞き及んでおります。そのお姿で一緒に食事などしたら、私ごとき小さな人間はエサと間違えてぺろりと一飲みされてしまうのかも知れませんな」
殺生丸は僅かに肩を竦める。
 
「…お前は勘違いをしている」
じいっと弥勒を見つめる目は、相変わらず表情が読めない。
「お前の目に私はどう映っている?お前が見ている人型の私は、私の本来の姿とかけ離れた幻想にすぎぬ」
「私に見えるのは――」
弥勒はにこりと微笑む。
「私が一緒にいたい、と思った方のお姿だけですよ」
表情が変わらない殺生丸に、弥勒は言い含めるように言った。
「殺殿は私が見た目に誤魔化されて人に対するような間違った認識を持っている、という事を仰りたいのでありましょうが。…いや、確かに見た目は大切です。最初にお会いした時の殺殿のお姿が邪見だの冥加様のようであったら、ずっとお顔を眺めていたいなどとは死んでも思ったりしませんでしたが」
冗談に紛らわそうかとしているのかと、殺生丸は胡散くさげになった。
 
「今なら化け犬の姿でも共に過ごしたい、と言いきる自信がございますよ。確かにお姿は仮の姿かも知れませぬが、お心は本物ですからな」
僅かに目を見開いた殺生丸に、弥勒は柔らかく微笑んだ。
「顔を眺めたい、と思う程に美しいお方は多々おりますが、何気ない暮らしを日々一緒に過ごしたい、と思うお方はそうおりません」
「お前は馬鹿だ」
起伏のない声で言う殺生丸に、弥勒は微笑んだまま頷いた。
「かも知れませんが、本音でございますよ」
「さほどの力も持たぬ小妖ならいざしらず、人が妖と共に暮らせるものか」
「意外と悲観的なことを仰いますな」
弥勒はニコニコしたままである。殺生丸の否定的な言葉に傷ついた様子もない。
「今だって一緒におりますでしょう?」
そう言って弥勒は殺生丸に顔を近づける。鼻先が触れるほど間近にある金色の瞳をじっと見つめると、殺生丸は僅かに困ったような表情をした。
その両肩に手を置き、弥勒はそっと唇をあわせ、そして言う。
 
「こうして触れているものを嘘だと言い張るほど、私はひねくれてはおりませんので。仮の姿でもなんでも、私は今の殺殿と共にいたいと思っておりますよ」
「法師…」
殺生丸は困惑げに呟いた。
その声音が頼りなげに甘く聞こえ、弥勒はゆったりとした余裕のある表情で次の言葉を促す。
「なんですか?殺殿」
「……あれは、放っておいていいのか?」
「はい?」
予想外の言葉の意味が分からず、弥勒は笑顔を張り付けたまま聞き返した。
「だから、あれはどこまで焼けば食せるようになるのだ?」
「あれとは…って、あああああああ!」
突然鼻を突いた匂いに、弥勒は大きな声を出した。
灰の中に残った熾き火が置きっぱなしだった朴の葉包みを焦がし、ついでに中の味噌まで全部黒焦げにしていたのだ。
「ああ…朝餉が台無しに…」
見事な炭と化した食材を前に、弥勒はがっくりと肩を落としている。
その様子を眺めながら、殺生丸は自然と口元が和らいでいくのを感じる。
 
確かに――人と過ごすのも悪くはないかも知れない。
少なくとも退屈はしない。
本当の気持ちはもっと別の場所。自分の感情を納得させるために当たり障りのない理由を見つけようとしている事を殺生丸は無意識のうちに悟っている。
それでも真の理由は認められない。
でも共にいることは嫌ではない。
 
弥勒が情けなさそうな顔に精一杯のしかつめらしい表情を作り、わざとらしい説明口調で言う。
「よろしいですか?殺殿。これは調理の失敗例です。本当なら、表面が乾き、薄く焦げ目が付いて香りが高くなったあたりが一番の食べ頃なのです」
そう言ってから長いため息を付く。次々と変わる豊かな表情がおかしい。
 
退屈しないから。
 
弥勒と共に過ごす訳をそう結論付けながら、殺生丸は心が揺れるのを感じる。
仮の姿でも本性でも変わらないと言い切る男の強さは、殺生丸が知る強さとはまったく別の類の物。自分がどれだけの力で引き裂こうとも、けして勝てない予感がする。
 
共に過ごす理由、一緒にいたいと感じる理由。
その本当の理由は、まだ殺生丸は認められない。