◆幻痛◆


 
左肩に当てた手を下へ動かす。
腕の形をなぞるように。
だがその腕は二の腕から下はない。
殺生丸は何もない空っぽの左袖を掴んでから手をまた肩に戻す。
ある筈のない腕をさするような動作に、弥勒は膝立ちで傍らににじり寄ると殺生丸の左肩から顔へと視線を動かした。

「痛むのですか?」
そう問うと、殺生丸は奇妙な顔つきをした。
「……無い腕が痛む筈がない」
「えーと…その、腕の切り口とか…」
言葉を選び選び言いづらそうに弥勒が言うと、殺生丸はあっさりと首を振る。
「傷は癒えている。痛むことはない」
そう言いながら殺生丸の右手は不可思議な動きを繰り返している。
左肩から袖の肘あたりまで、無い筈の腕をさするように上下する右手。
弥勒は当惑顔で鼻の辺りをかいた。

「……やはり痛むのでは?」
その言葉を受け、殺生丸は誰にともなく呟く。
「……左手の指の間から肘の上まで縦に切り裂かれたのだ」
「はい?」
「……それから、切り落とされて…」
そう言って左肩を押さえ、殺生丸はかつて腕があった部分をじっと見る。
無表情に語られた内容を想像して、弥勒はぞっと背筋が冷たくなる。
腕を縦に真っ二つ。
想像したくない光景だ。
痛みをあまり感じない風には見えるが、その時の激痛とは一体どれだけのものだったのか。
弥勒は僅かに顔を顰めながら言う。
「痛みを思い出しましたか」
「……傷すらもう無いのに、おかしな事だ」
「人でもそういう事はあるようですよ」
そう言うと、弥勒はごく自然な動きで殺生丸を自分の腕の中へ引き寄せた。

自分から寄り添うなどしない殺生丸だが、こちらが引き寄せた場合は、じたばたしないのがありがたい。
当初はそれでも、なぜいちいちくっつきたがるのかと問いたげな目で見られたこともあったのだが、最近はすっかり慣れたらしく微動だにしない。
むしろ自分の身体を背もたれ代わりに使われているようで、弥勒としては喜ぶべきか悲しむべきか微妙なところではあるのが。
それはさておき、弥勒は大人しく自分に背を預けている殺生丸の身体に軽く腕を回し、記憶を探るように目を正面に向けた。

「以前旅の途中に泊めていただいた寺で、負傷した足軽達のお世話をしていたのですよ。で、私がそこで手伝いをしておりますと、1人の侍が私を呼び止めて言うのです。『右足の爪先がかゆいが動けない。代わりにかいてくれ』と…」
弥勒はそこで痛ましげに唇を歪めた。
「その侍はケガで右足の膝から下を無くしていたのです。ある筈のない場所がかゆいと、そう言っていたのですよ」
ある筈のない場所に残る感覚。
殺生丸は空の左袖を掴む。
「そこのお寺の住職様が仰ってました。『体が覚えているのですよ。かつてあった場所が感じていた慣れ親しんだ感覚を。例え失っても、身体そのものは覚えているのです』――何と残酷なことかと思いましたが……痒くても痛くても、無い場所には何もしてやれないのですからね」
しみじみといってから弥勒は、しまった、と言いたげにつけたした。

「むろん殺殿が痛むと仰るのなら、この弥勒、幻の腕でも一晩中おさすりいたしますよ」
「いらぬわ」
瞬時に拒絶され、弥勒はつまらなそうに愚痴る。
「たまには可愛らしく『頼む』くらい言ってくださってもよろしいのに」
「無い筈の傷が痛むはずはない。その様な気の迷いにいつまでも関わる気はない」
「ほんにつれないお方ですなぁ」
わざとらしく傷ついた顔をする弥勒を、殺生丸は無視する。
「ま、よろしゅうございます。依頼されないからしてはいけない、等という決まり事もございませんし。今宵一晩、私が右腕左腕共にさすって差し上げましょう」
「いらんというに」
「まま、遠慮なさらず」
あっさりと気を取り直した弥勒は、嬉しそうに殺生丸の身体に回した腕に力を込めると、言葉通りにすりすりと殺生丸の腕をなで始めた。

「馬鹿馬鹿しい。このような事をしたところで、なんの意味もない」
「私が楽しんでおりますで、それでよろしゅうござます」
悪びれない言葉に、呆れ果てたのか殺生丸は口をつぐむ。
黙り込んだのをよい事に、弥勒は好き勝手に殺生丸の腕やら何やら、さらにはどさくさ紛れに脚の方までなで回し始めた。
「貴様…」
「まあまあ、お気になさらず」
そう言う顔つきが本当に楽しそうなので、殺生丸は好きにさせておく事にした。
鼻歌交じりにくつろいだ顔の弥勒。
先程感じた痛みが消えていく。
もはや癒すべき傷もないのに、身体が記憶した痛みだけが時折表に現れ、どうしようもない苦痛を殺生丸にもたらしてく。
あり得ない痛みであると気を逸らすことで、今まで忘れていた。

殺生丸は小さく息を付いた。
おそらくこの痛みは生涯付きまとうのだろう。癒すべき傷が存在しないのだから、治ることもない。
不思議な心地よさで今、この痛みを消し去った男も、いずれ存在ごと消える。
痛みは残る。
そして、もっと強くなる。
癒えることのない痛みが増えていく。

この男がいずれ消える。
その考えは殺生丸の背筋をぞくりとさせる。
本来あるべきものが消え、ある筈のない痛みだけが残る。
この男は、自分にとってその様な存在になった。自分でその様な存在を作ってしまったのだと、殺生丸は自覚している。

これは自分で招いたこと。
結末は受け入れなくてはいけない。

殺生丸は自分の腕を撫でさする弥勒の腕に手を掛けて動きを止めた。
弥勒は抗うことなく、殺生丸の手に大人しく自分の腕を預けている。
この腕がいずれは消える。
数年か、数十年か、いずれにしろ妖怪の生からみれば、さほど遠い先ではない。
「殺殿?」
怪訝そうに弥勒が呼ぶが、考えに沈んだ殺生丸は答えない。

この腕が、いつか新しい幻の痛みを自分にもたらす。
消え去ってもう戻ることがない故に残る、癒えない痛み。
「殺殿…?」
殺生丸は答えない。
ただ無言で弥勒の腕に指を絡める。
そこにある腕を、永遠に止めておきたいというように。


 
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