◆ 合一 ◆




身体にかかる重みに弥勒は目を開いた。
真上から見える赤い目。殺生丸が仰向けに寝ている弥勒の腹の上にまたがって座り、黙って男を見下ろしている。
氷の中に横たわっているように冷え切った空気。
殺生丸は闇の中で真紅に染まった目で瞬きもせずに弥勒を見つめている。
燐光を思わせる青い瞳孔が、冷え冷えとした色に燃えている。

弥勒は開きかけた口を閉ざし、身動きひとつせずにその目を見返した。
冷えた視線。
狩りをする直前の獣の目。
殺生丸は手を弥勒の眼前にかざした。その手首から手の甲にかけて妖力が満ちた証の模様が浮き上がる。
まっすぐに見上げる弥勒の眉間と僅か髪の毛一筋ほどの距離に、殺生丸はその指先を突きつけた。指先から震えるほどの妖気が眉間に伝わり、弥勒は僅かに身体を緊張させるが、やはり動かないままに殺生丸を見上げる。
気まぐれに指を動かしただけで強力な毒爪は弥勒の顔面を溶かしきる。
判ってはいるが弥勒は動かない。
強烈な妖気と裏腹に、殺気はほんの少しも感じない。
弥勒は腹を決めると、全身から力を抜いた。
そのままの姿勢で一瞬とも永遠とも感じるほどの時間を過ごした後、殺生丸は手からすっと毒気を引かせ、そのまま力無く弥勒の顔の横に手を付くと、金色に戻った瞳で男を見据える。
不思議と攻撃の手を引いた今の方が、先ほどまでより危険な感じがした。


「なぜ逃げぬ」
低く殺生丸が問う。
「逃げる理由がございません」
妖はまだ法師の身体の上に乗ったままだが、体重が感じられない。身を翻して逃げることも容易いようにも思える。
だが弥勒は真上から見下ろす金色の瞳を見つめたまま、動かずに答えた。
「私はお前を一撃で殺すことが出来る」
「殺気は感じませんでした」
「殺気など無くとも、お前の命を消すことは容易い」
床に着いたままの殺生丸の手が静かに動き、弥勒の喉にかかる。
「少し力を入れれば、この首は砕け散る」
「そうでございましょうな」
弥勒が穏やかに答えると、妖の瞳が揺れた。
「死にたいのか?」
「生きていたいですよ、もちろん」
首に手を掛けられたままにこりと笑う弥勒に、殺生丸が戸惑う気配がした。
「なぜ逃げない」
もう一度殺生丸が聞いた。
弥勒は微笑んだまま自分の首にかかった妖の手に両手を添えると、大事そうに包み込む。
「逃げたら、あなたが去ってしまいそうな気がしました」
身体の上の妖が、身を固くしたような気がした。
「それよりなら、この手にかかる方がマシだとと思った次第でございます」
不意に殺生丸が上体を倒す。そのまま弥勒の身体に覆い被さり肩に顔を埋める。
「どうしたのですか?」
変わらぬ穏やかさで言いながら、弥勒は殺生丸の背に手を回した。
答えはない。
しっかりと抱きしめると、その背中から僅かに震えが伝わってくる。
自分でもどうにも出来ない惑乱が伝わってきて、弥勒は不思議な心地にとらわれた。
弥勒は妖を抱きしめたまま、黒くすすけた天井を見上げた。
二人だけの場所、妖がその素を見せるただ一つの場所――それが此処なのだということが、強く感じられる。


深夜、自分の隣で安らかに眠る人間の姿を目にしたとき、殺生丸は強烈な痛みを感じた。
なぜ、この男は別の存在として此処にいるのだろう。
自分の身体と別にあるのだろう。
自分でも訳の分からない怒りが殺生丸の脳裏を支配する。
常に冷静な判断力を持ち我を忘れるという事を知らぬ妖が、理不尽な怒りを覚える。
弥勒が一個の存在であること、別の身体であること、それが許し難いように感じた。
私は痛みを感じているのに――自らの身体を引き裂かれたように感じているのに、なぜこの男はこんなにも安らいだ顔で眠っているのだろう。
ただそれだけの事に憎しみすら感じた。

なぜこの男は当たり前に別の身体を持っているのだろう。
理由も理屈もないただの手前勝手な怒りを感じ、それを冷静な自分が呆れて見ている。
何という馬鹿な怒り。
大妖たる自分が何という愚かな感情に支配されているのか。
それを殺生丸にもたらしたのが目の前の男だということにまた怒りを覚え、大妖は混乱し自らを見失いそうになる。

弥勒に爪を突きつけ、そして返された優しい動作に殺生丸は戸惑うことしかできない。
自分は一体何がしたいのだろう――。


「不思議ですなぁ…」
言葉に出さぬ殺生丸の自分を求めている心が肌から伝わってきて、弥勒は静かに呟いた。
「あなたの心に、初めて触れた気がいたします」


殺生丸の中で一つの言葉が形を作る。自分で見つけることが出来なかったこの怒りの訳。
それが叶わないと知っているからこその怒り、――そして痛み。

『一つになりたい』