◆ 白昼夢 ◆
   
  傍らに見える白い背中。
俯せの背に絡みつくように流れる、青みを帯びた長い銀髪。
弥勒はその髪を一房手に取り、滑らかな感触を確かめながら口付ける。
身じろぐ相手がゆっくりと半身を起こし、顔をこちらに向けるが、流れる髪が顔にかかりその表情が見えない。
封印の数珠をまいた右手でその髪をかき分けようと、弥勒は手を伸ばす。
手が思い人の額の髪にふれた、その刹那――数珠が外れ、風穴が開いた。
驚いたように僅かに開かれた朱唇の残像だけ残し、あっと思う間もなくその人が風穴に吸い込まれる。
弥勒は絶叫した。


自分の悲鳴で目を覚ました弥勒は、じっとりと全身が脂汗にまみれていることに気が付いた。
気持ちが悪い――夢見が悪すぎる。激しく打つ心臓の鼓動がおさまらない。
唾を飲み込み、弥勒は月明かりが差し込む窓を見る。
そこに立つ細身の影。
外を向いている顔は見えないが、肩から背に流れ落ちる滝のような銀の髪。
灯りに透ける薄手の長襦袢の下の細身の体の線。
女性のような曲線ではない、文字通り柳を思わせるしなやかですらりとした立ち姿。
弥勒は落ち着かない動悸を静めるためその人を抱きしめようと傍らに立つと、外を向いたままの殺生丸の背後から腕を回した。
瞬間、水が詰まった袋のように、その人の姿は弥勒の腕の中で弾け飛んだ。
弥勒の身体に降りかかる水――真っ赤な鮮血。
弥勒はまた絶叫する。
喉が裂けてしまいそうなくらいに叫び続ける。


「どうした?」
傍らにいた人に揺り動かされて弥勒は目を覚ました。
上から覗き込む人の顔は見えない。
それでも、自分の顔にかかるその人の長い髪。
「うなされていたぞ」
ああ…と弥勒は深い息をつく。
「恐ろしい夢を見ておりました、――いや、まったく…」
みっともないところを見せた気恥ずかしさに、弥勒は身体を起こしかける。
その弥勒を、殺生丸の手が軽く押した。
上にのしかかるようにして見下ろす殺生丸に、弥勒は違和感を感じる。
「どうしたのですか?」
思わずそう問うと、顔の半分を髪で隠したままの殺生丸の唇が、笑みの形につり上がった。
「慰めてやろうか?」
赤くとろりとした色合いに染まった唇が、弥勒の首筋に降りる。
それから、鎖骨をたどり、胸――もっと下まで、艶めいた動作で殺生丸が動く。
長い髪が弥勒の肌をこすり、ざわつくような快感が生まれる。
細くて長い指が弥勒のモノに触れ、慈しむようになで上げた。
弥勒の全身に震えが走る。


――おかしい――。

快感に飲み込まれそうになりながら、弥勒はなけなしの理性を動員してその人を押しのけた。
「どうしたんですか?一体――あなたらしくない」
「私らしくない?」
床に手をついたその人がおかしそうに言う。
「何が私らしくない?」
幻惑されそうな程に艶やかに濡れた赤い唇が、口付けをねだるように弥勒に近付く。
ふっと吹き込んでくる夜の風。
風に煽られた髪の下からあらわれた顔には、金色に輝く瞳がなかった。


ぱっと弥勒は目を開いた。
全身が汗に濡れている。
外は――まだ昼過ぎの白々とした明るさ。
エサを求めて飛び回る小鳥たちの鳴き声が、森の木々の間に響き渡っている。
弥勒はいつもの堂内で、柱に背を持たせかけ、錫杖を抱いて座ったたま眠っていたのだった。


「…ひでえ夢…今度こそ、目が覚めたんだろうな…」
自分の声が震えていることに舌打ちした後、弥勒はこっそりと手を下衣の中に差し込んだ。
その顔が忌々しげに顰められる。
「なっさけねー…おぼえたてのガキじゃあるめえに」
下衣の中で弥勒のモノはすっかりと形を変え、醜態を曝す直前でこらえている、という状態だ。
弥勒は板の間にごろんと大の字に寝ころぶと、すすだらけの天井を睨み、ぼんやりと呟いた。
「…たまってたか…さすがに…」
なんだかんだと忙しく、ここに来るのはもう一月ぶりになる。
「来んのかなぁ…俺のこと、もう忘れてたりして…」
情けないほど気弱な考えが頭をよぎり、弥勒は大きなため息をついた。

大抵は一週間から10日の間隔で、暇を見つけてせっせとこの場所に通う弥勒。
それに思い人が気がついて来てくれると、短い逢瀬が始まる――そんな綱渡りのような情事。
それでもいつも殺生丸は来た。
弥勒が待っていると、今までなら必ず――でも、次も来るとは限らない。
いつもいつもそんな不安を抱え、弥勒はその時精一杯の気持ちでその人を抱く。
次の約束を交わすことなどない。
その人が来てくれなければ、弥勒の方から殺生丸を探し出すのは容易ではない。
昨日の夕方頃にここについて、もうすぐ丸一日。
殺生丸の姿はまだ見えない。

「あーあ…俺、捨てられたのかなぁ…」
自嘲気味に声を出して言うと、なおさら気が滅入ってきて弥勒は目を閉じた。
すぐに意識がとろりと混濁してくる。
「あ、…俺、疲れてんだな。やっぱ、忙しかったもんな、この所。そんでろくでもない事ばかり考えるんだ…」
自分を慰めるように自己分析した後、弥勒はむりやり目を開く。
眠りたくない、また妙な夢を見そうな気がする、そう思って頭をふり、のろのろと身体を起こした。


  夢を見た理由は判る。全部、どこかで拘って怖がっていることばかり。
風穴だったり、大事な人を失うことだったり――ひょっとして、いつも肌を合わせてる人が実は自分の事をなんとも思っておらず、ただ、抱かせて貰ってるだけの独り相撲じゃないかとかいう不安だったり。
「ああ、なんか、俺、すげえ馬鹿みてぇだ…なーにをやってんだか…」
べったりとだらしない姿勢で座って頭をかきながら、弥勒はため息をついた。
と――扉の所で呆れがちにこちらを見ている人。

「…何を1人でぶつぶつ言っている」
素っ気なく冷たいほどの口調に、よく光る金色の瞳。
間抜け面で自分をみている弥勒に近付くと、殺生丸は眉をしかめたまま問う。
「寝ぼけているのか?」
現実味に乏しい異形の美貌と圧倒される存在感。それを間近に感じただけで、弥勒にまつわりついていたどこか退廃的な落ち込んだ気分が、全部吹き飛ばされていく。
自分を見下ろす白い綺麗な顔をまじまじと見つめ、弥勒は鮮やかに生気の満ちた顔で笑った。

「目は覚めましたよ」

殺生丸は一瞬不可解げに首を傾げたが、別にどうとも口には出さない。
弥勒はにこにこと笑っているだけである。
独り寝がみせた悪夢は消えうせた。