◆ 肘笠雨 ◆


 
 

通い慣れた山道に足を踏み入れて間もなく、黒雲が空に広がり出す。
数刻前の空からは信じられないほどの突然の雨。
肘を上げて頭を雨から庇いながら、弥勒は村に笠を取りに戻ろうかと考えた。
背後の里に下りる道を振り返り、それから思い直したように前を見る。
一度村に戻ったら、きっと雨が止むまで待つように言われるだろう。
笠を借りてまでこの雨の中を行くと行ったら、いったいどこへそこまで急いでいくのかと詮索されるに違いない。
答えを考えるのも面倒くさかったし、それに何故か、戻ってしまったらすれ違ってしまうような気になった。
すれ違うも何も、逢瀬の相手と時刻の約束をしているわけではない。
彼が行かなければ、相手は姿を見せない。
ただそれだけだ。
それでも何故か奇妙な焦りを感じ、弥勒は肘を上げたままぬかるみだした山道を登り始めた。

歩くたびに泥が跳ね、僧衣の裾や足を汚す。
濡れてべっとりと身体に張り付いた布は、気持ちが悪いだけではなく、身体を冷やして体力を奪っていく。
旅の最中に急な雨に降られることは日常茶飯事だが、だからといってこの気持ち悪さになれるという事はない。 普段ならば雨宿りできる場所を探そうと真っ先に考えるところだが、中途半端な道程では身を潜める気にもならなかった。

雨は激しさを増し、目を開けるのも厄介になってきた。
急なにわか雨なのだからすぐに止むかと思ったが、思いの外雨は降り続く。
顔をうつむけ、泥を踏む足下だけを見て弥勒は歩き続ける。
単調に、そして規則正しく左右交互に動く足先を見ていると、まるで足を動かすこと自体が目的のように思えてくる。 ただひたすらに足を動かす。ぬかるみも、砂利も気にせず、ただまっすくに早足で歩き続ける。
そうやって、雨の強さも、自分がどこに向かっているのかも、ほとんど忘れかけた頃――。

不意に目の前に現れた見慣れた建物に、弥勒は目的を思い出した。
濡れた階を登り、勢いをつけて湿った扉を押し開け、がらんとした堂内を隅々まで見渡し、そこで冷え切った体を震わせる。
乾いた堂内に足を踏み入れ、髪の先端からしたたり落ちる水滴の冷たさを感じながら、弥勒は呟いた。

「……おれ、なんでこんなに急いで来たんだ?」

落ち着いて考えてみれば、こんな雨の中を殺生丸がわざわざやってくる道理がない。
雨が止んでからゆっくり登ってくればそれで良かったはずだ。
なぜ、急がなければと、そんな風に思い込んだのだろう。

僧衣をずっしりと重く濡らした水滴は点々と足下に滴り、水たまりを作っている。
弥勒は大きなくしゃみをしてから自分の両肩を抱いた。

「あーあ、寒!火!」

足早に厨に向かうと、囲炉裏の中に焚き木と藁を積み上げ、震える手で石を叩いて火をつけた。
冷え切った両手を擦りあわせ、多生血の気が戻ったところで濡れた僧衣を身体から引き剥がすように脱ぎ捨て、手拭いを固く絞って裸身を強く擦る。

「うー、ちくしょう。着物が乾くまでこの恰好じゃ絶対に風邪ひいちまう」

自分がした行為の空しさと馬鹿馬鹿しさに、弥勒は心の底から情けなさを感じた。すっかり脱力し、脱いだ僧衣を絞るのも適当に、その辺の鍋釜の上にかぶせて囲炉裏端に広げる。その後で、身体を擦りながら夜着を取りに本堂に向かった。
独りぼっちでボロ寺で濡れた身体でいるのは、我ながら惨めすぎる状況だ。着物が乾くまでの間、囲炉裏の側で夜着をかぶって温まっていようと思った。
ため息を付きながら薄暗い廊下を渡って本堂に入り、弥勒はそこで薄暗さに慣れた目を瞬かせた。
扉が大きく開き、日差しが奥まで差し込んでいたのだ。
目を細め、何度か瞬きをすると、明るい日差しの中に背を向けている人影が見える。

「……殺殿」

弥勒は惚けた声を出した。扉の所で外を見ていた妖がゆっくりと振り向き、そして眉を潜める。
その表情を目に留めた弥勒は不審げになった。

「殺殿、どうかなさいましたか?」
急いで近付こうとすると、殺生丸は一層不快げな目つきで睨み付けてきた。
首を傾げかけ、そこで弥勒はやっと自分の今の恰好を思い出した。
濡れた着物を脱ぎ捨てていたので、下帯一枚の裸身だったのだ。

「いや、別にこの恰好は濡れたからで、けして殺殿を見た瞬間に事に及ぼうなどとおいしい事を、いや、けしからん事を考えていたからではございませんぞ!」
慌てて言い訳をすると、弥勒は本堂の隅に畳んで置いてあった夜着に飛び付いた。それを身体に巻き付け、誤魔化し笑いをしながらゆっくりと殺生丸に近付く。
ありがたい事に相手は位置を変えようとはしなかった。弥勒は殺生丸の横に立ち、外の明るさに細めた目を向ける。

「……雨が止んだのですな。どうせなら、私がまだ外を歩いている最中に止んでくれれば良かったものを」
「あの雨の中をやってくるとは、とことん酔狂なやつだ」
「そうですなぁ、私も先程同じ事を思いましたので、否定はしませんよ」
あっさりと言いながら弥勒は久しぶりに見る妖の横顔に顔をほころばせた。
「しかし、殺殿もおいでになるのが随分とお早かったようで。ひょっとして近くで待っていてくださったので?」
言った直後に睨まれるかと思ったが、殺生丸は僅かに渋い表情を見せただけで目を背けた。
これは案外図星だったかと、弥勒は一層顔をほころばせる。それを見咎め、殺生丸がとげとげしく聞く。
「何がおかしい」
「おかしいのではございません。殺殿と一緒にいるのが嬉しくて、ついつい頬がゆるむだけでございますよ」
そう堂々と答えると、答えに詰まったように殺生丸はまた顔を背ける。
くすくす笑いながら、弥勒はその顔を覗き込んだ。
雨に濡れ、暗い堂内で一人落ち込み、寒さにどん底まで沈みかけた後の反動か、普段以上に気持ちが弾んではしゃぎたくなる気持ちが抑えられない。
「ところで、何を見ておいでだったのですか?」
何も言わないこと良いことに馴れ馴れしく妖の肩に腕を回した弥勒は、殺生丸が見ていた方向に目を凝らした。
「……別に何を見ていたというわけではないが」
口ごもるように答える殺生丸の視線の先には、くっきりとした大きな光の橋が架かっていた。
山々を繋げるように綺麗な弧を描く虹に、弥勒は素直に感嘆の声を上げた。

「これはまた見事な。これを見られただけでも、雨に濡れたかいがあったという物です」
「貴様、調子がいいな」
「それはもう絶好調ですとも。殺殿とこれだけ綺麗な風景を見られて、調子が悪いわけがございません」
くすくす笑い続ける男に、殺生丸は僅かに呆れた表情を浮かべる。
そんな微妙な妖の表情にも嬉しげに、弥勒は身体をすり寄せる。
「身体が冷たい」
「すぐに温かくなります。殺殿が温めてくださるなら、もっと早く温かくもなりますが」
男の放言に、殺生丸は渋い顔つきになった。
その顔つきに一瞬表情を改めかけ、それでもやっぱり抑えきれなかったのか弥勒はまだ笑い続けている。

雨上がりの空に光を弾く虹は、しばらく消えることはなかった。






 
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