◆ 終日(ひねもす) ◆


 

最近は朝が楽しみになった――ような気がする。

このところ陽気が良くなり、朝の陽射しにも力強さが感じられる。
明るさにそろそろ目覚めようかと思う刻限になると、頃合を計っていたように傍らにいた人が先に起き出す。寝乱れていた襦袢を整える衣擦れの音。 弥勒が身体を起こす頃には水場へと先に消えている。そして身支度を整えて戻ってくる。
法師が待っている場所へ。

取り残される不安に怯えていたのは遙か昔。
そう思って弥勒は1人ほくそ笑む。1人でニヤニヤしている顔に、戻ってきた殺生丸が不快げに顔を顰める。冷たい目つきで笑う男を一瞥したあと、大妖はさっさと帰り支度を始めてしまった。
「す、少しお待ちを!何もそう慌てて支度などせずとも」
余裕を感じたのもつかの間、あせって着付けの邪魔をするように帯の端を引っ張ると、殺生丸が表情を変えずに見下ろして言う。
「1人が楽しいのであれば、私がいる必要はあるまい」
「……1人が楽しくて笑っていたわけではありませぬ。本当にもう、いけずなお方ですなぁ」
「何を訳の分からぬ事を」
すべらかな動作で殺生丸は体の向きを変え、弥勒の手の中から帯が滑り落ちる。
そのまま外へ向かう妖を弥勒は慌てて追いかけるが、殺生丸は縁に出たところですとんと腰を下ろした。
壁に背を預けて無言で外を眺めている。

「あの…お帰りになるのではないのですね?」
おずおずと確かめるように問うと、「ない」と短く答えが返った。
弥勒はあからさまに安堵の息を吐くと、
「朝餉の支度をして参りますので、その隙に消えたりなさいませんように。いいですね、いいですよね!」少し五月蠅く聞こえるぐらいに念を押した。
妖はちらりと横目で弥勒を見上げ、渋々といった様子であるが頷く。
「すぐに戻りますから、ここにいて下さいね」
なおしつこく言うと、殺生丸は物憂げに手を振った。さっさと行け、というのだろう。
まったく、なかなか安心させてくれないお方だと苦笑を浮かべ、弥勒は奥に消える。
殺生丸は立てた膝に肘を乗せ、ぼんやりと外を眺めた。

まだ肌寒くはあるが、確実に春は近付いてきている。
秋から冬を越え、やがて春。
季節が変わる間に何度この場を訪れたのか、もう数えることもしていない。
黙って座り込んでいるうちに意識が空気に溶け込み、時間や場所の感覚が消えていく。
もはや警戒する気も起きないほど、この辺り一帯の気は殺生丸に馴染んでいる。
古い木肌の匂い。
人間が行っている炊事の音。
それらを当たり前のように感じながら、殺生丸は外の風景を見つめていた。


弥勒が手早く食事を済ませて戻ってみると、殺生丸はまだ一点を見つめたままだった。
変わらぬ無関心な表情に少しガッカリした顔つきで弥勒はその隣に座り、横顔を覗き込む。
鼻の利く殺生丸だ。自分が戻ってきたことに気が付かないはずはないと思いつつ、その瞳がずっと見つめている方に目を向けてみる。
別に何ら変わることのない風景である。
何が面白いのかと、ますますガッカリした気分で弥勒は殺生丸を盗み見る。

ずっと横顔だけ向けている人の表情は穏やかだ。
その顔は落ち着いていて、ここにいる事で何かを煩っている風には見えない。
弥勒はまた苦笑すると、ゆったりと座り直した。
自分が傍らにいても、気にしていない。以前なら寂しくも思ったことだが、今日は気にならない。気にする気も起きないほどに、今日の殺生丸は穏やかだ。
一緒に朝を迎えることが当たり前になってきたように、ただ側にいるだけで満ち足りた気分に浸れるようになってきたのかも知れないと、そんな事を考える。ただの思い込みかも知れないが、そんな時間が嬉しくて、弥勒は満足げな笑顔になる。

日が高くなるにつれ空気が暖まり、雀たちの鳴き声が活発になってきたようだ。
その愛らしい声を聞いているうちに、弥勒はあくびがこみ上げてきた。


ことんと肩に何かがぶつかり、殺生丸は我に返った。
何をぼんやりしていたのだろうと、自分を叱るように思いながら肩にぶつかったままの物に目を向ける。
弥勒の頭があった。すうすうと規則正しい寝息が聞こえる。
起きたばかりなのに、狸寝入りを決め込んでいるのかと殺生丸は一瞬眉を潜めたが、そうではない事はすぐに分かった。
本当に、眠り込んでいるのだ。
殺生丸は眉を顰めたまま、その男の寝顔を見つめた。

――この頭、放り出してやろうか。

そう思わないでもないが、とりあえず殺生丸は少し肩を動かした。
枕代わりになっている自分の肩が無くなれば目を覚ますかとも思ったが、眠り込んでいる男の頭は殺生丸の右腕をなぞるように下に落ち、そのまま膝に頭半分引っかかる形で止まった。
殺生丸はこれでも起きない男の顔を呆れて眺めた。
下半身は座った形のままで上半身だけ折れ曲がり、しかも頭が中途半端に殺生丸の膝に載っているので、不自然で苦しそうな姿勢に見える。
それでも弥勒は起きる気配がない。
殺生丸は僅かに首を傾げた。

こんな恰好になっても起きないという事は、よほど眠いのだろうか。
『くたびれている』という事なのだろうか。
自分では感じたことのない状態を表す言葉を、殺生丸は苦々しげに思い浮かべた。
(私も随分と人馴れしたことだ)
弥勒は、今にも顔を板にぶつけそうな位置で寝息を立てている。
どうしようか、と数瞬だけ考え、殺生丸は弥勒の法衣の背を掴んで僅かにその頭を浮かせると、自分の身体をずらして男の身体と少しだけ間を開けた。
そしてそのまま自分の膝に弥勒の頭を引き寄せ、乗せてやる。
引っ張られた弥勒の身体は、自然に縁の上に横たわる恰好になった。
動かされて起きるかと思いきや、弥勒は姿勢が楽になったことで本格的に眠り込んでしまったようだ。
腕が動いて、枕を抱え込むように殺生丸の膝を抱き込む。
その図々しさに半ば呆れつつ、殺生丸は男の寝顔を見下ろした。

くたびれ、疲れているのだろうか。
この人間も仇敵を追って旅をし、戦っている。
人間ならば疲れもするだろう。自分達妖怪より遙かに脆い人間ならば、当然だろうと思う。それならば、人里で休んでいればいいものを、わざわざこのような不便な場所にまでやってくる。

(私に会う、それだけのために。私の側でくつろぐというのか、この――たわけ者は)
そう考える殺生丸の顔に、困惑げな笑みが薄く浮かんだ。


殺生丸は背を壁に持たれかけさせると、空を見上げた。
柔らかな春の陽射しに満ちた青空を、真綿のような雲がゆっくりと流れている。
耳に聞こえるのは遠くの雀の声と、近くの寝息。
何を枕にしているのかも知らず、弥勒は微かに笑っているように見える顔で熟睡している。
静かすぎるほど静かな時間がまろやかに流れていく。

終日(ひねもす)のたり。
こんな風に過ごす日があってもいい。

のんびりと腰を据えた殺生丸の頭上で数羽の小鳥が遊ぶようにくるりと輪を描き、そして飛び去っていった。








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