◆ 星夜 ◆

 


 
新月の夜から一日二日。
月は細く、存在感も朧気な微かな光を零すだけ。
澄み切った秋の夜の大気の中で、星は存分に輝き渡る。
 
弥勒は荒れ寺の傍らに立つ大木の前に立つと、首が痛くなるほどの角度で先端付近を見上げた。
 
「降りてまいりませんかー」
この美しい星の夜に我ながら無粋だと思うほどの大声を上げると、ややあって低いのになぜかよく通る声――明らかに人外の響きを持つ声が頭上にふってくる。
「今宵は星を愛でて過ごそうといったのは、貴様ではないか」
「いえ、確かにそうは申しましたが…」
弥勒は、はあ、と困り果てたため息をついた。
 
確かに今夜の星空の美しさに、美酒でも酌みかわしながらゆっくり過ごしましょうか、と言ったのは自分だ。
夜空に流れる星の河の美しさは心を奪われるほどであったし、大陸渡りとかいう甘い果実から作った珍しい酒も手に入り、たまには、こう、縁で並んで酒など飲みながらあまーい雰囲気でしっぽりと語らってみようか…という風流心が疼きまくったのだ。
まさか、その甘い雰囲気を共に過ごしたいと思った相手が、実に素直に星を愛でるためだけに高い木の先端に行ってしまうとは…。
弥勒はもう一度声を張り上げた。
 
「頼みますから、降りてきてくだされ!せっかく珍しい御酒を手に入れたのですから、せめて味見だけでもしてくだされませんか?」
今度は返事はなかった。
返事の代わりに枝が風に払われるような音を立て、木の葉が数枚落ちる。
それからゆっくりと――降りるというよりも舞うような印象の、銀の髪をなびかせた大妖が降ってくる。
見惚れるような眼差しでさしのべられた弥勒の手を無視し、殺生丸は音も立てずに地にたった。
弥勒は無視された手を苦笑げに眺めると、そのまま、案内するように本堂を指差した。
「口に合わぬかと思いますが、干魚なども少々用意しておりますし。とりあえず、一献差し上げましょう」
多少不満そうに見える目ながらも大人しくついてくる殺生丸に、弥勒はほっと胸をなで下ろした。
 
 
笹の葉に乗せたあぶった干魚と瀬戸の杯を二つ、それから小振りの酒瓶。
弥勒がそれらを膳にのせて縁に運んでいくと、殺生丸は本堂の壁に背を預け、片膝を立てて座っている。
僅かに眉を顰め、いつにもまして機嫌がよろしくない雰囲気だ。
弥勒は内心で低く唸った。
なんか、今日は機嫌を悪くするような事をいっちまったんだろうか。
甘く語らうどころか、自分が居る事さえ無視したがってるように見えて、弥勒はため息をついた。
膳を置いて殺生丸の隣に座ると、弥勒は愛想笑いを浮かべて下手に出る。
「ささ、とにかく杯をどうぞ」
差し出された杯を、妖は渋々といった体で受け取った。
弥勒はますます焦りながら首を捻る。何をやったんだろうか、俺は?
うーむとしかめっ面で悩んでいると、それを見ていた殺生丸が杯を置いた。
 
「さっきから貴様は何をしたいのだ?」
「え?」と思わず弥勒は聞き返す。
「突然、一晩中星を見ようと言い出したかと思うと、場所はここだ、あそこだと五月蠅いし。酒でも飲もうかと言っておいて唸っているし。貴様は何をしにここへ来たのだ?」
心底煩わしそうに殺生丸が言う。
冷たく突き放すような口調だが、その言葉の内容に弥勒は答えを見つけたような気になった。
にんまりと笑う弥勒に、殺生丸は何かと不審げな様子になる。
弥勒はにこにこと嬉しそうになると、殺生丸に添うようににじり寄り、そのまま肩に手を回しと不審げなままの妖に満面の笑顔を向けた。
 
「ひょっとして、拗ねておいででしたか?」
珍しく驚いた様子で、殺生丸は無言のまま目を見開く。
「ですから、久しぶりの逢瀬ですのに、触れもせずに酒だ星だと浮かれたような事ばかりを並べたので拗ねられたのかと…」
「…この虚けが…何を自惚れた事を…」
呆れかえったように言って視線を逸らす殺生丸の顔を、弥勒は覗き込んだ。
「おや、外れですか?だとしたら、非常に残念なのですが…やはり私の自惚れですか?」
言葉では否定しているが、切れ長の目元が僅かに赤らんでいるのを見ると、まんざら自惚れだけでもなさそうだと1人満足げに思う。
もっともあまりしつこく追求すると、ますます機嫌を壊されそうなので弥勒はそれ以上言うことは止め、嬉しそうな笑顔のままもう一度杯をさしだした。
 
「ささ、どうぞお召し上がり下さい。一口味見したのですが、馥郁とした香りはなかなかなものです。これならお気に召すかと、少々無理をして手に入れたのですから、ぜひ味見だけでもしてくださいませ」
杯に注がれた酒は僅かに琥珀がかった色合いで、とろりとしている。
口に含むと、甘酸っぱい果実の香りが口中一杯に広がった。
「いかがですか?」
酒瓶を抱えた弥勒が期待を込めて感想を聞いてきた。
「…悪くはない」
そう答えると、法師は満足そうに頷く。
「そうでしょう、ささ、どうぞもう一杯」
だが殺生丸は杯を置くと、ひょいと酒瓶を弥勒の手から取り上げた。
「…どうしました?もう沢山なのですか?」
嬉しそうだった顔に落胆の表情が滲む。殺生丸は何かを誤魔化すように早口で言った。
「たわけ。酌をしてやると言っているのだ、杯を取れ」
思いがけない申し出に弥勒はあからさまに惚けた顔つきになった。
 
固まってしまった弥勒に、殺生丸は酒瓶を手にしたまま急かすような手つきをした。我ながら自分らしくない行動だとひどく気まずく思っているらしく、その仕草に慌てて弥勒も杯を差し出す。
差し出された杯に注がれた酒を口に含み、弥勒はとろけるような表情になった。
「まさしく甘露、ですな。いや、実にいい気分です」
「あとは勝手にやれ」
素っ気なく言って顔を背ける仕草が照れてるように見え、弥勒はくすりと笑った。
 
夜が更けるにつれ、星はくっきりと一段と輝きを増しだす。
淡く輝くたくさんの星は、文字通り夜空を横切る河のように一連の流れとなって瞬いている。
弥勒は隣にいる人の白い横顔に見惚れながら、語りかけた。
「ご存じですか?あの天を流れる川の辺には、年に一度だけ逢瀬を許された天人の恋人同士が
居るという言い伝えがあるのですよ」
「年に一度?」
つき合いのように聞き返す殺生丸の、相変わらずの素っ気なさに苦笑しながら弥勒は話を続ける。
 
「あまりに愛し合いすぎたために己がすべき仕事を全て放り出してしまい、罰を受けて逢うことが叶わなくなってしまったのだそうです。ですが、その恋人同士の嘆きがあまりにも哀れだったために、年に一度だけ、あの河を渡って逢うことが許されたのだそうです」
「くだらん話だな」
「…いや、そう言われてしまうと、風情もへったくれもなくなりますなー…」
一言で終わらせてしまった殺生丸に、らしいと思いつつも、弥勒は答えに困る。
「いえ、ですからね。例え天人であっても、恋心というのは自分でもどうにでもならない、大事なものだという事ですよ」
言いつくろってみても、相変わらず殺生丸は何ら感じた様子はない。
「とりあえず、…まあ、理性だけではどうにもならないという事で…」
弥勒はそっと膳を除けると、妖に口付けた。
甘酸っぱい香りのする口付けを受けた後、殺生丸は何か納得がいかない様子で問う。
「…今夜は星を見て過ごすのではなかったのか?」
「苛めなさるな。やはり眺めるだけの星よりも、触れられるお方の方が、どうにもこうにも魅力的という事で……」
そう言って抱きしめてくる男を、殺生丸はやっぱりよく分かっていない様子で見やる。
それでも止める事はしなかった。
 
 
 
天を渡る川の辺での天人達の恋心が、星の輝きに乗って地上にも降り注いでいるような、そんな一夜。