◆ 仮宿 ◆



夜が明けきる直前の白々とした時間。
目覚めるとやはり1人で、弥勒はため息を付いた。
のろのろと起き上がり、衣服を身につけようとして気が付く。衝立に掛けられたままの、殺生丸の絹の長着。
肌着姿で帰るわけがないと思い、弥勒は寺の中を探して歩く。
縁を回って裏手にある厨にゆくと、釣瓶が水を叩く音が聞こえた。
厨の屋根の下に作られた釣瓶井戸はいまも現役で、清らかな水を湛えていた。
 
ぎしぎしと軋む廊下を歩き、板戸の無い入り口から中を覗くと、目に飛び込んできたのは白い背中。
殺生丸は井戸端で長い髪を右肩から前におとし、弥勒のいる側にはすっかり背中を曝していた。
白い襦袢を左肩に掛け、それから右腕を袖に通して肩まで引き上げる。
肌の上を滑るように覆ってゆく白絹が、さらりという衣擦れの音を立てる。
衣装を脱ぐときの仕草が色めかしいのはもちろんだが、身につける動作というのもまた艶めいたものだと、弥勒は朝から得をした気分になった。
 
土間におりて置いてあった腰ひもを手に取ると、襟元を会わせていた殺生丸がちらりと弥勒を見る。
「…紐を返せ」
「締めて差し上げますよ」
弥勒は背後から手を回し、紐を殺生丸の細い腰に巻いてやる。
「自分でやるから、いい」
「殺殿が器用なのは知っておりますが、片腕では不自由なこともおありでしょう。言ってくだされば着付けなどいくらでも手伝いますのに」
機嫌よさげに言うと、弥勒は腰ひもをきっちりと結びあげ、前にたらしていた銀の髪を背に戻してやった。
「髪も濡れておりますな。お洗いになりましたので?」
「水を遣ったときに濡れただけだ」
弥勒が髪をいじりながら首筋に唇を寄せてくる。
「よせ」
「おや、このようにされるのはお嫌いですか?」
お預け喰らった犬のような目で白々しいことを言う弥勒に、殺生丸は息を付いた。
 
「誰のせいで…貴様がさんざん舐め回すから…」
掠れた呟き声を耳に留め、弥勒はわざとらしく目を見開いた。
「朝から水を遣ったのは私のせいですか?だったらなおのこと、仰っていただければ、身体の隅々まで拭って差し上げましたのに…」
言ってしまってから、調子に乗りすぎたと弥勒が思ったときはすでに遅かった。
本気で怒ったらしい殺生丸が無言で投げつけた手桶は、見事に弥勒の顔面を直撃していた。
 
 
「そんなに怒らなくてもよろしいのに…」
「くだらん事ばかり、ぬかすからだ」
情けなく言い訳をする弥勒を無視して本堂に戻り、殺生丸は着物を手にとろうとする。
それをすかさず先に取り、介添えするように手に持つ弥勒を殺生丸は不快げに睨め付けた。
「もう悪戯はしませんから」
苦笑しながら機嫌を窺うように言うと、胡散くさげながらも殺生丸は背を向ける。
弥勒は着物を妖の肩に掛け、袖を通し終わったところで髪を着物の上に出してやる。
殺生丸はどことなく達観したような息を付いた。
 
結局、この男に世話をされるのは嫌いではないらしい。
殺生丸が襟の形を整えていると、帯を持った弥勒が何か考え深げにぶつぶつと言っている。
「やはり、衣桁があった方がよろしいですな。せっかくの着物が皺になってしまいます」
「別に構わぬ」
「殺殿は気になさらぬかも知れませんが…夢中になって、上物の着物を脱がしたままその辺に放り出す側にしてみれば、やはり気になるものです…あいた!」
錫杖でひっぱたかれ、弥勒はこぶの出来た頭を抑えた。
「…失礼…この手のあからさまな物言いは、お気に召さぬようで…」
形だけ反省したそぶりの弥勒を殺生丸は睨み付けた。
 
「どうせ仮の宿だ。道具を増やしたところで、意味は無かろう」
「仮であろうと、使いやすいように手を入れるのは悪いことではないと存じますが」
弥勒はこぶを撫でながら、苦笑する。
「私としては、あと鏡と櫛箱も揃えたいところですな。殺殿の髪をくしけずってさしあげますよ」
「…いらぬ…どうせ、ろくでもない事をついでにするのだろう…」
「そう思われましたか?実はそうなんです、私のことをよく判ってらっしゃる…って冗談ですって」
ぎらりと鋭さを増した爪をかざされ、冗談めかして笑っていた弥勒は急いでうち消すように手を振った。
「とことんふざけた男だな」
殺生丸は冷たく言い捨ててそっぽを向く。
 
「まあまあ、そう仰らずに。まだ髪が湿っておりますな。拭って差し上げますよ」
「いらぬ」
「私の楽しみなのですから、そうつれなくなさらないでください」
悪びれずに弥勒は手ぬぐいを持ってきた。
なんのかんの言いつつも、他愛のない事であれば大抵は弥勒の好きにさせてくれるという事をよく知っているのだ。単に拒み続けるのが面倒くさいだけかも知れないが、せっかくの機会を無駄にすることはない。
言われるままに縁に座った殺生丸の背後に回り、弥勒は手ぬぐいで丁寧に湿った髪を包んでいった。
綺麗に登ったばかりの朝日を受け、しっとりと濡れた銀の髪が艶やかに輝く。
 
「火取りもあった方がよろしいですか?気に入りの香があれば調達して参りますが」
「香はいらぬ。鼻について煩わしいだけだ」
「それは残念。いつも良い香りがいたしておりますが、これは香とは違いますので?」
くんと鼻を鳴らす弥勒に、殺生丸は呆れたように肩を竦めた。
「貴様程度の鼻で、私の匂いをかぎ分けるというのか」
「愛しい方の肌の匂いくらいは、人の鼻でも判りますよ」
言った後で弥勒はまた殴られるかと思ったが、殺生丸は僅かに目元を染めて顔を逸らしてしまった。
「…まったく、貴様は…なにをそのように嬉しそうに…」
どことなく照れくさそうな物言いに、弥勒はくすりと笑う。
 
「嬉しいからですよ、むろん。ま、我ながら今日は調子に乗りすぎているかと思いますが、それもこれも朝から結構な物を見せてくださった、どなたかのおかげでして…」
殺生丸がギロリと睨む。
「はは、また口が滑りましたな。失礼」
誤魔化し笑いをしてから、弥勒は真顔になった。
 
「先ほど殺殿は仮の宿と仰いましたが、ずっと旅暮らしであった私から見れば、この世の暮らしそのものが常に仮の宿のようなもの…いつかは消える物なら、少しでも楽しく笑って過ごせた方がよろしいではないですか」
そう言ってにこりと笑う。
「なくても困らぬ道具もありますが、あればあったでいろいろと便利な道具もございます。貧相な仮の宿でも体裁が整ってくる様を見るのも、また楽しいものですよ。…それに…」
弥勒は目を細めると薄く微笑んだ。
「物には思い出が宿ることもございます」
 
 
小さな道具一つに様々な思いがこもる。自分の腕に巻かれた数珠もしかり。
なじみ深い物はいつも悲しい思い出を秘めている。
だから、より所となる物が欲しい、と強く思うことがある。
この仮の宿が消えてしまったあとも、なにも残さずにこの関係が消えてしまっとしても。
心の縁(よすが)となるような何か、たとえば小さな櫛一つでも。
あの時、確かに幸せであったのだと、そう思い出せるための何かが欲しい。
そう弥勒は思う。
 
 
「…好きにすればいい…」
弥勒の考えていることを察したのかどうか、別にどうでも良いことだからなのか、殺生丸は心持ちぼんやりとした口調でそう言った。
「良いものを選びますよ」
そう言いながら、弥勒はおや?と思った。
温かい陽射しがよほど心地よかったのか、殺生丸は身体の力を抜いて弥勒にもたれ掛かってきたのだ。
「眠くなりましたか?」
お珍しいこと、と思いながらそう訊いてみる。すると
「……乱れ箱はあった方が良いな…」
ぽつりと言われた言葉に、弥勒はまたおや、と思い、次に目元をゆっくりとなごませた。
「では、最初に選ぶ道具はそれにいたしましょう」
そう言うと、殺生丸は弥勒に凭れたままこくんと頷く。
そのどことなく幼い動作に、弥勒は目を細める。
 
いつかは消えてしまう仮の宿だからこそ見せてくれるのかも知れない、大妖が気を許してくつろぐ姿。
この瞬間を切り取って、懐に仕舞っておけたらいいのに――そんな事を考え、弥勒は少し切なくなる。
いまが幸せだからこそ、なにもかもが消えたあとのことを考えるのが寂しい。
陽射しを浴びてすっかり乾いた髪を殺生丸が手櫛で透く。
さらさらと零れる髪が弾く銀の光が、まぶしかった。