◆ 消したい心 ◆
 
 


 
夜の闇の中、殺生丸は傍らの人間の男を見下ろす。
ぐっすりと眠り込み、どんな夢を見ているのか、どことなく幸せそうな顔をしている。
その腕の中からそうっと抜け出し、殺生丸は手早く身支度を整えた。
鎧はつけていない――ここに来るときは必要がないからだ。
つまり、殺生丸はこの男と会うとき、そのつもりで来ている。
戦うどころか、衣装を脱ぐことが前提の逢瀬。
当たり前のようにその事を受け入れている、そんな自分を殺生丸は未だに受け入れる事が出来ずにいる。
音を立てずに動く殺生丸に、眠る男は気が付かない。
黒い髪に黒い瞳、とくに変わったところのない当たり前の人間の男。
否――妖を滅する技を持つ法力僧――妖怪である自分とは、むしろ天敵の立場の人間。
そんな男相手に、自分は当たり前のように無防備な時間を過ごす。
その事実が、時に痛くなるほど殺生丸の心を苛む。
 
殺生丸は古い扉を開け外にでると、振り向かずに地を蹴った。
頭上には月、足下に広がるのは黒々とした夜の森。
その中にさっきまで彼がいた荒寺が、シミのように見える。
略奪にでもあったのか、仏像も何もかも持ち去られ、古い家具だけがいくつか残っていただけの寺。
しかも火もかけられたらしく僧房などは焼け落ち、本堂のある一画だけが形を残している。
器用な人間の法師はそこを片付け、寝泊まりくらいはできる程度の体裁を整えていた。
 
『秘密の隠れ家ですね』
最初にここで過ごした夜、弥勒法師はそう言って子供のように笑った。
記憶の中にいつのまにかしっかりと根を下ろしている、その笑い顔。
いつでも飄々として、こちらの気持ちを宥めるような声。
殺生丸は忌々しげに眉を潜めると月を背に梢を蹴り、一気に男を残したままの荒寺から遠ざかった。
 
 
 
人間の男が、なぜこんな妖物が好むような場所で、妖を抱くのか。
人間の里で人間の女を求める方がずっと面倒がない筈なのに、なぜ妖である私を欲するのか――。
それを考えると、自ずともう一つの問い――なぜ私は人間の男に抱かれるのか――に行き当たり、殺生丸はそこで考えるのを止める。
答えが出ない、というより、答えを出したくない。
答えを出すことが怖い。
出た答えを認めることが怖い。
 
 
人間など、つまらぬ生き物。
その人間に抱かれる自分。
今までの価値観が根底から崩れる――人を認めてしまうと、人の血を引く半妖と貶めてきた弟を認めざるを得なくなる。
晩年の父の行動を愚かな気の迷いと、切り捨てることが出来なくなる。
自分は半妖の弟以上の関心を父から持たれなかった、それが真実であると、認めなければいけなくなる。
それが痛い。
自分の存在意義が失われるほどに。
 
感情が消えてしまえばいいと思う。
氷のように、岩のように、揺れることない心であればいいと思う――弥勒と出会う以前の自分のように。
自分で持てあますような心はいらない。
いらないのに、捨てられない。
しっかりと自分の中に根を下ろした記憶が、心を捨てることを拒む。
辛い、苦しい。
人と妖――相容れない関係と切り捨てたいのに、捨てられずに近づいていく。
苦しい――。
殺生丸の顔が、泣き出しそうに歪む。
この妖がこんな顔をすることを誰も知らない。
弟も、弥勒も、殺生丸本人も。
 
夜の空を舞う白い素足が、ひときわ高い木の梢を蹴る。
飛び散った木の葉が地に落ちる頃、銀の髪をなびかせた妖は遠く森の向こうに消えていた。