◆ 消えない傷 ◆

 


 
普段は気が付かないことが、不意に気になる瞬間がある。
たとえばこんな時。
情事の後の、力の抜けた身体を撫でる掌。
その手を覆う布の感触や、指にはめた金具の冷たさ。ぶつかりあって小さな音をたてる数珠玉。
大きくはだけられた襦袢から露わになっている背を撫でる手を避けるように、殺生丸は身体の向きを変える。
「鬱陶しかったですか?」
弥勒は手持ちぶたさになった右手を恨めしげに見た。
「…別に…」
はっきりとしない声で呟くと、殺生丸は身体を起こして乱れた襦袢の襟をあわせなおす。
この妖は、着物は脱いでもけして襦袢の腰ひもは外させない。
失った左腕を見られたくないのだろうと思う。敗北の証である腕の欠損。
普段はまるで気にした風を見せないが、人間である弥勒の前に曝すのはまだ抵抗があるのだろう。
それが判るので、弥勒も無理に両肩をはだけさせようとは思わない。
 
 
横になったまま肘をついてじっと自分を見ている男に気が付いたのか、殺生丸はきっちりと襟をあわせ直すと、弥勒に背を向けるようにして横になった。
弥勒は苦笑気味に笑うと、背を向けた妖の襟足の髪に指を絡める。
しなやかな指の悪戯しているような動きに、殺生丸はくすぐったくなったのか首をふる。
それでも知らんぷりで髪をいじっていると、妖は身体を起こして弥勒を見下ろした。
柳眉が顰められ、かなり不機嫌そうに見える。
弥勒は誤魔化すような笑い方をすると、そろそろと手を放した。
その手を殺生丸が掴む。
おや、と思ってその顔を見直すと、殺生丸は手甲を当て、掌にも布を巻いた右手をじいっと見つめている。
 
「…この数珠を外したらどうなる?」
殺生丸の長い小指が、手首に巻いた数珠に絡まる。
「…風穴が開いて、あなたを吸い込みますな…」
低くそう答えると、妖は弥勒の右手からその顔へと視線を動かした。
「私を吸い込んだら、お前はどうする?」
そう言った直後、殺生丸の顔が手酷い失敗に気が付いたように顰められた。
自分を見上げる弥勒の表情のない顔に、残酷な質問をした、と感じたのだろう。
「別に答えなくていい」
小声で素早く言うと、殺生丸はまた弥勒に背を向けて横になった。
 
弥勒は身体を僅かに起こすと、向こうを向いたままの殺生丸を見下ろす。
肩をそびやかすようにして強ばった背中は、顔を見せることを拒んでいるようだ。
弥勒はそれを見つめた後、僅かに口元をほころばせた。
 
 
普段は無口で何を考えているのか計り知れないところがある妖だが、最近――本当に最近ではあるが、時々、言葉を覚えたての子供のような所作をすることがある。
たとえば、今。
思いつくままのことを口にしてから、その事を恥じるように背を向ける。
そんな様子を見ると、不思議と弥勒の中には温かいものがわき上がる。
 
自分の腕の中で育っていく物を見守っているような、そんな感じ――いや、文字通り育っているのだと思う。
殺生丸は情を持たないのではない、情の表し方、受け取り方、それそのものを知らないのではないかと思う時がある。その自分でも知らなかった自分の中の情が、殺生丸の中で形となって育ちつつある、そんな気がする。
自分の腕の中で変わりつつある、氷のようだった美しい大妖。
どんな風に変わっていくのだろう、この妖は。
いつか自分の腕の中で、泣いたり笑ったりする時が来るのだろうか。
いつの日か――。
遠い先に思いを馳せ、嬉しげに和らいでいた目に不意に影が差す。
 
いつの日か。
その日を俺は迎えることが出来るのだろうか。
この妖が俺に完全に心を許し、思いのままに感情を見せてくれるようになる日まで、俺は生きていられるのだろうか。
 
先の事を思えば、いつでも澱のように心を重くする風穴の呪い。
夢の中に忘れることさえ許さない、けして消えることのない生への傷。
弥勒は背を向けた妖の肩にそっと手を這わせた。
殺生丸は一瞬背をふるわせたものの、手を避けようとはしない。
弥勒はそのまま手を胸元の袷に忍び込ませる。
指に触れる滑らかな肌。
でも風穴の穿たれた掌が、直接その肌に触れることはない。
一枚布越しのもどかしい感触。
 
いつの日か。
いつの日か、この手全体で、この肌を感じたい。
なんの憂いもなく、この妖を抱きしめたい。
肌を撫でていた手は止まり、いつのまにか、弥勒は両腕で妖の身体を抱きしめている。
 
いつの日か。
弥勒は銀の髪に顔を埋め、祈る。
この妖の心ごと、身体を抱きしめられる日を迎えられるようにと強く願う。
腕の中の妖が身体をよじり、弥勒と向かい合う。
あまり表情を見せない金目が僅かに戸惑っているように見える。
弥勒はその耳元に口をよせ、囁く。
「…いつか、何もつけていない手で、貴方に触れてみたいものですなぁ」
 
そう言って照れ隠しのように笑う法師の顔が、殺生丸には泣いているように見えた。