◆ 満月 ◆
 
 


 
瞼の裏が、突然、明るさを感知する。
目を開けると、開け放たれた扉から見える白々とした満月。
さっきまで閉め切られていた堂内の暗さと比べると、驚くほど明るい。
殺生丸は本堂をぐるりと囲む縁に片膝を立てて座り、月を見上げている。
弥勒はその前に座ると、同じように月を見上げた。
 
里で見るよりも大きな月。
月明かりの下で見る白銀の髪は、玉のように硬質に見える。
白い面ざしも、白絹を着た細身の身体も、全身全てが作り物めいていて、弥勒は不可思議な感じを受ける。
弥勒は違和感を振り払うように、子供の頃の昔語りを始めた。
 
「子供の頃、父と旅をしていた頃です。野宿をした夜、同じように大きな月を見ました」
殺生丸がちらりと視線を向ける。
「目の前には大きな沼がありました。幼かった私は、その水面に映った月があまりにくっきりと美しかったので、手に取る事ができると思ったのでしょうな。突然水の中に入っていこうとして、父に止められました。
『あれは水に映る月。どんなに触れそうな程近くに見えても、けして手にすることは出来ない』
と、父はおかしそうに私に教えてくれましたが、私は笑えなかった。
…納得できず、悔しくて悔しくて、父にどうして触れないのかと、しつこく食い下がったことを覚えています」
そう言って、自分を見ている妖の顔を正面から見つめる。
 
金色の目。
同じく自分を見つめているようなのに、何も写していないかと思わせる瞳。
不意にはっきりと聞こえる父の声。
『どれほど近く見えても、けして手にすることは出来ない』
水に映る月――それと同じほどに近くて、そして遠く見える瞳に、弥勒の中に衝動が起きる。
 
弥勒はつと身を乗り出すと、前に座っている妖に口付けた。
唇を合わせているのに、自分を見る妖の目に情欲はない。
白々とさえた満月のように、冷たく見える金の瞳。
強烈な欲望が弥勒の身体を支配する。
 
『ここで抱いたらこの方はどうするのだろう』
『夜風に肌をさらし、ただ、私の快楽のためだけに身体を自由にされても――それでもこんな目をしていられるのだろうか』
『何も感じない、何も求めない、そんな目のままで――』
 
欲望は来たときと同じように唐突に去った。
弥勒の前には、月を思わせる銀の髪の妖がさっきと同じように静かにいる。
彼が何をしようとしているのか――僅かにその事にだけ興味を持ったように、じいっと弥勒の顔を見つめている。
 
弥勒は背筋がぞくりとするのを感じた。さっきの感覚はなんだったんだろう。
強い、凶暴な衝動。まるで自分らしくない。
「…どうやら、寝たりなかったようですな。私は休みます」
弥勒は立ち上がると、堂内に戻った。
横になり、被衣を頭まで引き上げる。
強すぎる自分自身の衝動に、弥勒は震えが止まらない。
 
満月に暴かれた自分の中の欲望――あの方を、己の意のままだけにしたい。
衝動は独占欲、所有欲――あの方を、ただ自分だけの物に、自分だけを見て、求めて、私だけのものに――
それは間違いなく自分の中にある思い――醜い欲。
 
 
 
 
 
男が横になった気配を背中に感じ、殺生丸は衣の胸元を右手でぎゅっと握りしめる。
その手のひらにはうっすらと汗――手の下に感じる己の心臓の鼓動が、耳に聞こえそうなほどに大きく感じる。
さっき口付けられたときに感じたものは、なんだったのだろう。
 
『喰らいたい』
 
そう思ったのだ。この自分に触れている男を『喰らってしまいたい』と。
その身体の全てを、心も声も眼差しも、何もかも喰らってしまいたい。
自分の中に取り込み、どこにも行かぬよう、何も見ないよう、完全に自分だけのものになるように。
そうして自分だけのものにしたら――この身を闇に落とし、ただ身の内にある「それ」だけを感じていたいと。
何も見ず、何も考えず、ただ、それだけを感じていたいと。
 
この男の全てを自分の中に――ぞくりと殺生丸の中を恍惚感が突き抜ける。
強烈な誘惑。
殺生丸は目を瞑り、衣を握った手に力を込めて、その考えを押し殺す。
深い深い息を吐いたあと、殺生丸はちらりと横目で弥勒の姿を探した。
堂内で頭から被衣を被っている男。
殺生丸は痛みをこらえるように思う。
 
『水に映る月ならばよい――側にあるだけで触れることが出来ぬと最初から分かっている物ならば――もとより執着などせぬものを…』
 
 
満月。
人も妖も、その光の前に隠している心を暴き出される。