◆ 守り ◆
 

 
伸ばした指先に何かが触れる。
艶やかで滑るような手触りの糸の束。夢うつつに指を絡めると、しっとりと馴染む。
弥勒はその糸を手の中に握りこむ。
ぼんやりとした意識はまだ醒めやらず、手に握る糸の束がなんなのかは弥勒は知らない。
しっとりと手の中に収まっている長い糸はほのかな温かみを感じさせ、それは弥勒に心の底からの深い安らぎを与える。弥勒はそれを握ったまま、また深い眠りの中に落ちていく。
 
 
引かれた髪の感触に殺生丸は視線を向けた。
褥の中に腹這いに横たわったままの弥勒が腕だけ伸ばし、床の上に広がっている殺生丸の髪の先を掴んでいる。
自分を呼んでいるつもりなのかと注意を向けてみるが、目覚めている様子はない。
寝ぼけて動いたはずみでふれた髪を掴んだのだろう。
殺生丸の髪は腰をはるかに過ぎるほどに長く、座ると床の上に裳のように広がる。
掴まれた髪を軽く引いてみた。
指をしっかりと絡めているようで、ぴんと張った髪の房は男の手から解放されてこない。
 
殺生丸はもう一度髪を引いた。すると僅かに強い抵抗。眠りながら弥勒が手に力を込めたらしい。
放す様子がないので殺生丸は髪を引くのを止めた。
新月の夜、蝋燭の火も消えて、星明かりのかすかな光の中で殺生丸の青みを帯びた銀の髪が仄かに浮かび上がる。
その先に続く黒髪の男の手。銀の髪を握りしめ、ぐっすりと無防備な寝顔を曝している。
 
殺生丸はその顔を眺めながら、僅かに首を傾げた。
動いた拍子に髪が微妙な流れを生み、暗い中で不思議な光の流れを作る。
再び髪を掴む手に力が入ったのがわかった。
髪の動きが逃げるように感じたのか、眠ったままの弥勒の指はさらにしっかりと髪を巻き込んでいる。
 
眠っているのに、器用な男だ――そう思い、殺生丸は僅かに呆れた風に息をもらす。
人間の男は殺生丸の髪を気に入り、行為の最中もそれ以外の時もよく触りたがる。
 
――人とは毛質そのものが違うのですな。このような手触りは初めてです。
まるで観察するように、時には触り心地そのものを楽しむように。
妖に怖れを覚えない人間の男は、笑いもしない殺生丸のどこが面白いのか、勝手に近付いてきては勝手に嬉しそうに微笑む。不思議な男だ。殺生丸は未だに弥勒が何を考えているのか分からない。
 
 
殺生丸は眠っている男の寝顔を、飽きもせずにじいっと眺めている。
男は時折、手の中の髪を確かめるように握り直し、そして眠り続けている。
儀式を受けているような無表情さで寝顔を見つめ続ける殺生丸の前で、眠る弥勒は僅かに笑った。
何か夢を見ているのか、それともそれ以外の理由でか。
眠ったままの弥勒が髪を掴んだ手を胸元に引き寄せた。
その動きに合わせ殺生丸は膝を前に進めると、弥勒の顔を真上から見下ろす。
 
人間の法師は殺生丸の髪を胸元に抱くように眠っている。
ただ一つの大切なお守りを手に入れたような、そんな安心しきった顔で。
 
殺生丸はその顔を見続けている。
自分が今髪を引いたら、人間の男は目を覚ますかも知れない。
今感じているこの不思議な空気が変わるのが嫌で、殺生丸は音を立てずに男の隣に横になった。
 
眠っている男が目を覚まさないように。
自分の髪を抱きしめるその手が髪を放さないように。
それがまるで唯一の大切なことであるかのように、殺生丸は無意識のままそのように振る舞う。
 
この時間が失われないように。
そう感じる自分自身の不可思議さえ当たり前のように受け入れ、殺生丸は黙って弥勒の寝顔を見つめ続ける。
静かで不思議な時の流れる夜。
ふと、殺生丸は顔を上げた。
柔らかな闇だけが広がる空間は、聖域を思わせる静寂さに満ちている
しんと静まりかえっているのに息苦しさを感じない優しい闇は、大きな何かに守られているようだった。