◆ 空音 ◆
 


 
風の音が不意に途切れる。
どこか違う場所に紛れ込んだように静寂に包まれた森。
弥勒は脱ぎ捨ててあった僧衣を纏うと、そっと堂の扉を開けた。
常であれば見失っていたかも知れない人の気配がまざまざと感じられる。
沈黙した森の中でくっきりと浮かび上がる妖の気配。
葉がすべて落ちた樹上の枝に、幹に凭れて座った殺生丸はぼんやりと遠くを見ている。
聞こえない音を追うように時折頭を巡らし、その方向を向いたまま身じろぎもせずにいる。
下から仰ぎ見る弥勒にはその表情は見えない。
木と一体化したように動かない気配。
それなのに感じる妖の気配。
頭上の月は望月を一日過ぎ、限りなく真円に近いのにどこか不完全さを感じさせて心を落ち着かなくさせる。
こんな時の殺生丸はとても遠い。
側にいても添っていてもけして近づけない距離は、弥勒の心を不安定に揺らがせる。
 
――何をしているのですか?
――何を見ているのですか?
――何を聞いているのですか?
 
そんな何気ない一言をかけることすら憚られ、弥勒は森と同じく沈黙する。
この人の邪魔をしてはいけないと、すべてがそう感じているのだろうかと弥勒は思う。
夜に動く鳥も獣も雑霊も、そして木の葉すらも風に揺れることを拒んでいるかのように動かない。
肌を刺す夜の冷気の中、殺生丸はだまって空を見つめている。
その向こうに感じる音を聞くように、じっと耳を澄ませている。
弥勒は手が届かないその人の気配を黙って感じることしかできない。
 
 
――こちらを見てください。
 
弥勒は殺生丸を見上げながらじっとそう念じる。
 
――私の存在を忘れないでください。
――思い出してください。
――1人だけでどこかへ行かないでください。
 
すぐ側にいるのに遠い――その距離に私が怯える前に戻ってきてください。
 
巨大な明るい月。
影絵のように見える樹上の殺生丸。
そのすべてが現実離れしていて、弥勒はすべては願望が見せた夢のように思えて不安になる。
弥勒は目を細めるとじっと一点だけを凝視する。
遙か昔に覚えがあるような胸の痛みに、弥勒は僅かに身じろぐ。
胸元を押さえ、喘ぐような息をする。
一言だけ呼びかければそれですむ。
判っているのに声が出ない。
この静謐を破るのが罪悪のように感じられるほどに完成された世界が目の前に広がっている。
夜の闇、月、そして美しい妖。
自分一人だけが寒さに震え、無粋な音を持ち込む場にそぐわない邪魔者のようだ。
弥勒は息を飲み込み、両手で自分の肩を抱いた。
 
戻ってきてください。
 
捨てられた子供のようにただそれだけを念じる。
ふと――頭上から声が降ってくる。
 
「何をしている」
 
その瞬間、森に音が戻った。
フクロウの声、獣の声、風にこすれる枝の音。
張りつめた空気が一瞬にして霧散して、弥勒はじっと声の主を仰ぎ見る。
 
「何をしている」
 
もう一度、今度は焦れた響きのある声。
応えようとして弥勒は自分の舌が凍えて強ばっていたことに気が付いた。
雪が降ってもおかしくないほどに冷えた夜の空気に、弥勒は急にガチガチと震え出す。
それに気が付いたのか、殺生丸はふわりと木の上から下りてきた。
 
「…何をしていた」
 
金色の瞳には青ざめて震える弥勒の顔がよく見えていたのだろう。
呆れたように眉を顰めている。
 
「…あなたを…」
弥勒はようやく掠れた声を出した。
「貴方を捜しておりました」
殺生丸の顔がいっそう不快げに顰められた。
 
「たわけ者が。探していたなら声を出して呼べばいい。凍えるまでの間何をしていた!」
殺生丸は叱りつけるように言うと、冷え切った弥勒の手首を引っ張った。
「脆い人の身で惚けたことをするな」
薄い襦袢一枚纏っただけの殺生丸は外の寒さなど関係ないかのように、弥勒の腕を掴んだ手はいつもの温かさを保っている。
自分よりもはるかに長い間外にいた筈なのにと、目の当たりにした己との種の違いに弥勒は泣き出したい気分で殺生丸の手を両手で握りこんだ。
妖が眉を顰めたままで弥勒の顔を見やる。
 
きっとひどい顔をしている――弥勒は泣き笑いの気分でそう思った。
惨めで情けない顔を殺生丸に晒している。
殺生丸が低く言う。
「中に入れ」
そう言って自ら先に寺へと戻っていく。
弥勒は殺生丸の手を両手で掴んだまま、引かれるように後をついていく。
話す言葉が見つからない。
不安が消えない。
 
寺の階に足をかけたところで、一瞬また森に沈黙が下りた。
殺生丸が遠くに耳を澄ますような仕草をする。
 
添っているのに遠い。
近付いたと思えばまた遠ざかる距離感に、弥勒はだまって唇を引き絞る。
こんな時はどうすればいいのだろう。
明るく笑って呼べばいいのだろうか。
じっと時が過ぎるのを待てばいいのだろうか。
例え同じ場所にいようとも、けして同じ景色だけが見えているのではない。
その事実だけが弥勒の胸を締め付ける。
 
 
静かすぎる夜は、聞こえない音をも運んでくる。