◆ 体温 ◆
 
 


 
実際に眠るかどうかは別として、抱き合ったあとは自分の腕の中で目を瞑るのが常。
それが今宵に限り、すぐに身体を起こして立ち去ろうとする。
何か気に障ることでもあったのかと、弥勒は妖の腕を掴んで引き留めた。
 
「…何か急ぎの用事でも?」
そう弥勒が問うと、褥の上で片膝ついたままの妖は僅かに眉を潜める。
ほんの数瞬前まで桜色に染まった肌を合わせていたようにはとても見えない、白々とした顔色。
答えを待って掴んだ腕を放さない男を、殺生丸は僅かに持てあましたような目で見返した。
「気に障ることでもしましたか?」
言葉を変えて再び問うと、殺生丸は小さく首を振る。その顔が辛そうに歪む。
「どこか痛めましたか…?」
知らず知らずのうちに乱暴な行為をしていたかと、弥勒は少し焦って顔を覗き込む。
殺生丸はまた無言で首を振る。辛そうな表情は変わらない。
どうしたものかと思い、弥勒は殺生丸を掴んだ手を放さないままに思案する。
やがて根負けしたのか、片膝ついたままの殺生丸がすとんと腰を下ろした。
 
殺生丸は無言のまま下を向いている。
弥勒が顔色を確かめようと覗き込むと、顔を背ける。
本当に何があったのかと弥勒は不安になる。
先ほどまでいつもと変わらぬように、抱き合っていたというのに。
ここで弥勒は少し下品な考えに思い至り、いかにも確かめるのがいやだというような声で殺生丸に訊ねた。
「…ひょっとして、私は手抜きでもいたしましたか…?その、満足させて差し上げられなかったとか?」
「たわけが、そんなのではないわ!」
さすがにこの質問は聞き流せなかったのか、殺生丸は瞬時に否定した。
少し頬を赤らめた表情を認め、弥勒はほっと息を吐くと、照れ隠しのためか笑い声をあげた。
「ああ、それならばようございました。何しろ、自分勝手に楽しむだけなど、男として恥ずかしい限りの行いですからな」
「…たわけ…」
殺生丸は呆れたように言って横を向く。
素っ気ない冷たい無表情ではあるが、先ほどまでの萎れた雰囲気がひとまず去ったのを知り、弥勒は殺生丸を抱きしめた。
「何があったのかは知りませんが、機嫌を直してください」
「…これは地顔だ。別に不機嫌なわけではない」
「そうかも知れませんが、…いや、まあ、それはさておき」
離れようと僅かに身をよじらせる殺生丸に、弥勒は少し寂しげな顔になった。
「帰りを急がれるのでないのならば、もう少し、ここにいて下さい。こうしていると、落ち着くのです。
こうしてあなたを抱いていると、…不安も怖れも全て遠のくようで…安心するのですよ」
その声音に妖はもがくのを止める。
自分に向けられた殺生丸の顔に、弥勒は僅かに驚きを感じた。
自分を見る妖の顔。
普段は表情を見せない金色の目に、怯えたような色が浮かんでいる。
本人は気づいていないのだろう、自分の目に浮かぶ親にはぐれた子供のような頼りない、怖れの色。
大妖である殺生丸には何よりも似合わない筈のその色なのに、それは殺生丸の冷たく整った顔になよやかで儚げな艶を与えている。
弥勒はその瞳をふさぐように、自分の胸に殺生丸の頭を押し当てた。
見るだけで痛くなるようなその瞳なのに、見つめ続けていると欲望のままに求めたくなる。
弥勒は早くなる鼓動を抑えるように呼吸を繰り返すと、子供にするように殺生丸の背を軽く叩いた。
「こうしていてくれるだけでいいのです…あなたがいてくれるだけでいいのですよ」
それこそ子供をあやすような口調だ。これも大妖である殺生丸にかけるにはふさわしくない。
だが弥勒は感じた、顔を伏せている殺生丸が自分の胸元の衣をぎゅっと握りしめるのを。
大妖が何に怯えているのか、弥勒には判らない。
でも自分が自分の怯えを癒そうと殺生丸に縋るのと同じように、殺生丸も自分にしがみついている。
弥勒は判らないまま、殺生丸をより深く抱き寄せた。
 
 
『怖い』
自分の中に不意にわき上がった感情に、殺生丸は怯える。
自分が人間の男と共にいるときに感じる穏やかさ、静かさ――それを認めるたびに怯えは強くなる。
手にしたものの存在が自分の中で大きくなればなるほど、それを失ったときが怖い。
こんな感情は知らなかった。
手強い敵を前にしたときですら、こんな体が震えるような怯えを感じたときはなかった。
自分が怯えるということ、それそのものが恐怖だった。
 
知らなければ良かったのだ、失うことを恐怖するような存在など。
そうすれば、こんな怯えも知らずにすんだ。
 
今からでもいい、手放ししてしまえ。
手放して、忘れてしまえ。
 
殺生丸の中の妖の本能がそう告げる。
従えば楽になる、従えば――自分は壊れてしまう。
忘れきれずにきっと壊れてしまう――戦う力も生きる力も何もかも消えてしまう。
そんな脆い存在に自ら望んで落ちてしまった自分に、殺生丸は怯える。
誰かに依存して存在するなど、そんな事はあってはならない筈だったのに。
乾いて、孤独で、寂しくて――でもそれは殺生丸にとって当たり前だった世界。
求めない故に揺らぐこともなかった。
元通り揺らぐ事を知らない無い自分に戻れと諫める自分がいる反面、それを拒む自分がいる。
 
誰かに求められることも、伸ばした手を握りかえされるのも嬉しくて、それを忘れたくないと心の奥が叫んでいる。
感じることを知らなかった頃に戻りたくないと、駄々をこねている。
 
殺生丸は過去の自分を認めきれずに目を瞑り、今の自分も認められずに身体を竦める。
弥勒の腕の中で殺生丸は子供のように身体をまるめ、その体温だけを感じようと他の感覚を閉じる。
 
 
体温だけが救いとなる――そんな夜もある。