◆ 戯れ ◆


 
 
墨を流したような闇夜に、ときおり銀糸が走る。
音も聞こえない、霧に近いほどの細い雨。
不意に一瞬だけ雨足が強まり、そしてすぐに静まる。
里でなら蒸し暑ささえ感じる夜かも知れないが、この山間ではむしろ肌寒い。
ひやりとした水の匂いに包まれ、殺生丸は僅かに眉を寄せたまま、じっと外を眺めている。

並はずれて鋭敏な殺生丸の臭覚も、厚い水の幕の前には著しく鈍る。
雨の日は、どこか狭い檻に閉じこめられたような心地がする。
降り続く雨の中、森の獣達はひっそりと身を潜め、軒下や屋根裏に居を構えているらしい小動物だけが常とかわらず動き回っている。

いや、常と変わらないのは、この人間も同じ――。

殺生丸は脇から伸びてきて襟元を探ろうとする手に、細く息を付いた。
今夜は白い練り絹の単を纏い、小袖は肩に掛けただけの姿だが、手はその小袖の隙間をくぐり、しきりに肌を触ろうと蠢いてくる。
僅かに体の向きを変えると、目標を見失った手が、それでもしぶとく布地をまさぐっている。
そのしつこさに、殺生丸は軽く拳を上げた。背後から迫ってきた男の鼻先は見事に拳の直撃を受け、鼻の持ち主はうめき声を上げた。

「なにも、手を挙げることもないでしょうに」
「きさまが勝手にぶつかってきたのだ」

素っ気ない言葉に、一瞬だけすっぱい顔をした弥勒は、すぐに気を取り直したのか、今度は堂々と手を伸ばしてきた。
「私がここにおりますゆえ、うっかり力を込めた拳は上げないでくださいね」
「牽制のつもりか」
「いえいえ、無論、当然、お願いでございます」
悪びれない台詞の間も、さわさわと手は動き続けている。
さっきまで、あれだけしつこく撫でさすっていたくせにまだ足りないのかと、半ば感心した気分で、殺生丸は弥勒の手をつまみ上げた。
つままれた手を見ながら、弥勒は情けない声を出す。
「あのーー、虫がたかってるわけではないのですが」
「虫ならば、払えばどこかに消えてしまうであろうに」
「……つれないことを仰る。この雨の中、私にどこかに消えてしまえのと、そうお思いですか?」
口では哀れっぽい事を言いながら、弥勒の顔は笑っている。
態度はどうであれ、殺生丸の本心ではそんな事は考えているはずないと確信している顔だ。
内面を見透かされたことが不愉快なのか、殺生丸はつまんだ弥勒の手を放り出すような手つきで放す。
弥勒は、今度は本気で萎れた表情になった。

「よもや本気で、私に消えてしまえと思ってる訳じゃありませんよね」
「耳元であまりに下らぬ事ばかり抜かしていると、本気で山の下まで放り投げるぞ」
萎れた顔つきで、口調も侘びしげで、それにも関わらず、態度だけは相変わらず図々しくてぴったり張り付いてくる男に、殺生丸は冷たく言い放った。
「久々にお会いした嬉しさにはしゃぐ、可愛らしい戯れでしょうに、そこまで嫌そうに仰らなくてもよろしいでしょう」
「何が可愛らしいものか」
素っ気ないのはいつもの事だが、こうまでも刺々しい物言いをするのは、最近では珍しいことだ。
弥勒は僅かに思案げな顔つきをすると、声音を押さえて訊ねた。

「何か、お心にかかるような事でもおありですか?」
「その様な事ではない」
「なれば、なにがお気に障っているのやら……先程から外を眺めて動かずにいるのは、この雨を風情と思し召したのではなく、忌々しい物と睨んでおいでだったので?」
一瞬だけ、赤い瞳が瞬いた。
その色合いに弥勒が息を飲む間もなく、すうっと常の無表情に戻った殺生丸は、静かに言い捨てた。

「このような雨は好かぬ」
「それは、何故?」
「閉じこめられた心地がする」
「それはまた、穏やかならぬ事を仰る。確かに、このようにじっとりと染みこむような雨は、ざんざん降りとはまた違う鬱陶しさがございますが」
「強い雨の方が、まだましだ」
弥勒は薄く笑うと、肩を竦めた。
「さすがは殺殿ともうしますか、なんといいますか。例え相手が雨であっても、中途半端よりは強い方がよろしいですか」
ギロリと殺生丸が睨む。弥勒は悪童めいた笑い方で、小さく手を振った。
「いやいや、ただ戯れに思いついたことを口にしたまで。そう、真面目に受け取られますな」
「きさまの戯れは判りづらい」
「殺殿のお心よりは、判りやすいと存じますが。……ですから、そう真面目に受け取られますな」
またじろりと睨まれ、弥勒は慌てて機嫌を取るような物言いをした。こほんと咳払いをし、気を逸らすようににっこりと笑う。

「このような雨の日は、外を睨んでいても辛気くさくなるだけでございます。扉を閉め、雨の音も匂いも届かぬようにして、たわいない戯れをして過ごす方が、気分的にもよろしいかと存じますよ」
「……貴様の出す結論は、いつもそれだ」
「いつでも朝から晩まで張り付いておられる訳ではありませんからなぁ。たまの逢い引きの時くらい、ひたすら触れあって過ごしたいのですよ」
そう言うと、さっきまでとはうって変わった素早い動作で立ち上がり、さっさと板戸を閉めてしまった。

「さて、これで雨は見えなくなりました。音もあまり響かぬようですし、朝になるまで忘れていれば、次に外を見たときはすっきりと晴れ上がっていることでしょう。ささ、それまでは褥の中で……」
調子よく言いながら、殺生丸の手を取って立たせようとした弥勒は、いきなり躓いて転びそうになった。
咄嗟のことで顔面を床に打ち付けそうになった瞬間、殺生丸の手が襟首を掴む。
なんとか体制を立て直し、弥勒は真っ暗になっていた室内に、ぽんと手を叩いた。
「灯りに火を入れるのを、忘れておりました」
「……大人しく寝ていればいいものを、うかうかと起き出してくるからだ」
「ですから、せっかく久しぶりの逢瀬でひたすら張り付いていたい時に、外を眺めて雨にケンカを売っている殺殿がいけないのです」
ぬけぬけと言い放つと、弥勒は今度は慎重に立ち上がった。目を細めて部屋の中をそろそろと横切ろうとする男に手を引かれ、こちらは昼とかわらず室内を見渡せる殺生丸は、呆れた風に呟く。
「……こやつは、言動全てが戯れておる」
「何か仰いましたか?……と言ってるうちに、褥に到着です」
ニコニコしながら言うと弥勒は、殺生丸が肩に掛けていた小袖を手早く脱がせにかかる。
その手に身を任せていると、殺生丸はふと気が付いた。

こうしていれば、確かに、朝になるまで雨のことは忘れていられそうだ――このふざけた男の言うとおりに。

檻を思わせる濃い雨の匂いは、傍らで蠢く男の匂いにかき消されていった。


 
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