◆ 問いの行方 ◆


 
雲が割れて巨大な望月が顔を出す。
差し込む月明かりのまぶしさに弥勒は目を覚ます。
白々とした夜。
いつものように1人外で空を見ている殺生丸を見つけ、弥勒はまだ半分寝ぼけ眼のままで側に座った。
「何か見えますか?」
弥勒の問いに、殺生丸は無言で空を指差した。
長く形のいい指の指し示す先は、雲を追い払うように輝く月。
その月に細長い影がかかる。
怪しい妖気を纏い、空に架かる橋のように長く長く続く妖怪の群。
だがその異形の群はどこか儚げで悲しく、月の影が見せる幻かとも思う。

「……あれは」
「触れぬ限り害は無い。放っておけ」
空を見上げたまま絶句している弥勒に、殺生丸は低く告げる。
「あれは、人に害を与えぬのですか?」
「これ以前には与えたかも知れぬ。この後は与えるかも知れぬ。だが、今はなにもせぬ。あれは、住処を追われた雑霊だ」
「住処を追われた…」
聞いたばかりの言葉を口の中で呟き、弥勒は粛々と進む妖怪の群を見る。
「住処から祓われたのでしょうか」
法師らしく、弥勒は言った。人が山や森を切り開き、新たな土地を得ようとしたとき、その場に妖の巣が有れば退治やお祓いを頼むのはよくあることだ。
弥勒も旅の間に何度もそういう事をしてきた。

「……あれらは、そうやって追われ追われた者達が、行き場を見失って惑う姿なのでしょうか?」
「力あるものならば戦うだろう。だが、その地の気より生まれ出た精霊や雑霊は、人の手によって土地が穢されれば住み続けることは出来ぬ」
「人が穢しますか?」
「穢さぬか?」
殺生丸は皮肉げに問いを返した。弥勒は一瞬息を飲み、困ったように顔を顰める。
「穢しますな。木を切り、森の生き物を殺し、人に都合の良いように作り替えます」
「法師のくせに、認めるか」
可笑しげに大妖は言った。確かに、人の行いを否定するような、法師が言うには妙な意見だったかも知れない。だが、血に濡れて草も生えぬ荒れ地となった戦場をいくつも見た弥勒にとっては、無条件に人間の行いを認めることなど出来ない。
無論、こんな風に考えるようになったのは、妖怪達と親しく言葉を交わし、そして情を交わすようになったからでもある。

「何やら、寂しげに見える姿ですな」
妖怪の群を眺める弥勒を、殺生丸は目を細めて見る。妖に感慨を見せる人間に対し、何を思っているのだろう。その心の奥深くまでは判らないが、金色の目が穏やかに凪いでいるのを見る限り、悪くは感じていないと思われる。
「住処を失って生きられるほど、強い者達ではない。己の気にあう場所を見つけることが出来ねば、遠からず消滅する」
「それほど迄にか弱いと?」
「貴様等には見分けが付くまい。我らからみれば、あれは月の影とも変わらぬ。地の恩恵を失えば、存在する事も出来ぬ」
弥勒は頭を掻いた。殺生丸が言うように、確かにおどろおどろしい異形の姿は他の妖怪達との区別など付かない。ただ、確かに影が薄いと感じる。
例えるならば、素人が拙い筆で写し描いた御伽草子の挿し絵だろうか。
姿形はそのものでも、生き生きとした精気も迫力もそこには感じない。

「月の影ですか…」
弥勒は呆として呟く。
「あれらは一体どこへ行くのでしょう」
その問いには殺生丸は答えない。
誰にも判らない。
この月が雲に隠れると同時に消え去るかも知れない程に力を失った、哀れな精霊達。
「妖は、人が生み出す穢れによって増えるかと考えておりました。その逆もありえるのですね」
「人は全て同じ言葉で括りたがる。だが、我らからして見れば、みな、違う者達だ。その力も、存在の在りようも」
「……あなたは、消えたりなさいませんよね?」
不意に不安になって、弥勒は言った。
殺生丸が金色の瞳を弥勒に向ける。望月よりもなお輝く、その力強い金色。
どの妖怪よりも強く確かな存在だと思いつつ、人の穢れが増した場合、この妖はどうなるのかと思う。
力が増すのか、失せるのか。

「たわけた事を言う」
「はあ、自分でもそうは思います。ですが…」
弥勒はひどく怯えた目で笑う。
「先程からのあなたの言葉を聞いていると、私達人間よりもあれらの方に近しい存在なのだと感じます。だから、人の穢れが増せば、あなたにも何か変化が起きるのかと考えてしまって」
「ますます、たわけているな」
殺生丸は、弥勒の不安を蹴り飛ばすような顔つきで告げた。
「人の穢れごときに影響を受ける私ではない」
明らかに機嫌を損ねてしまったようで、大妖は眉をわずかに顰めてそっぽを向いてしまう。
一瞬慌てかけた弥勒は宥めようとしたが、不意に苦笑したまま大妖の肩に額を乗せた。
殺生丸が怒ったことに安心したのだ。弥勒が漏らした気弱な戯言を、完全に否定してくれた。その事が何よりも嬉しかった。
「……何を笑っているのだ」
自分の肩に顔を埋めてくすくす笑っている弥勒に、不審下になった殺生丸が言う。
「いえいえ、別に」
笑いながら顔を上げ、その代わりに弥勒は殺生丸の肩に両腕を回した。
しっかりと引き止めるように抱きしめてから、弥勒はまた空を見る。
月を横切る異形の行進はまだ続いている。

「あれらは、どこから来たのでしょう。そして、どこへ向かうのでしょう。そしてどこへとたどり着くのでしょう」
「お前は覚えているのか?」
「はい?」
殺生丸の問いが理解できず、弥勒は聞き返した。大妖は僅かに顎を上げ、空を眺めて呟く。
「どこから来て、どこへ行くのか。貴様は己の行く末を知っているのか?仏の教えなどではなく、自分の目で見て確かめたことがあるのか?」
「……いえ、ございません」
出来の悪い生徒のように、弥勒は小さく答える。
「ならば問うな。あれらも判りはせぬ」
「はい」
大人しく首肯しておいてから、弥勒は改めて尋ねた。
「あなたはどうですか?」
「わかるものか」
殺生丸は瞬時に答える。
「行く末など、誰にも判らぬ」

雲が流れ、月がその陰に隠れる。
月が見えなくなると同時に、異形の群も影に紛れて見えなくなる。
どの地を追われ、どの地を目指すのか。
目指す場所にたどり着けるのか。それともどこにも行けずに消え失せるのか。

弥勒が思い浮かべる問に何一つ答えを残さず、月を渡る者達は姿を消していった。


 
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