◆ 爪痕 ◆


 

衣を掴む指先に、意図していない力が入る。
布が裂ける小さな音に、瞬時に殺生丸の身体から熱が引いた。


自分の背に回された殺生丸の手から力が抜けた事を、弥勒はさほど気にはしなかった。自分自身、達した後の疲労感から全身の力が抜けていたから。
自分の下の大妖に覆い被さるようにして息を整えていた弥勒は、殺生丸が目を見開いたまま、まるで人形を思わせる硬い顔つきになっていることにようやく気が付いた。
まだ荒い息のまま肘をついて身体を浮かせ、弥勒は殺生丸に問う。
「……どうかしましたか?」
殺生丸は答えない。弥勒の背に軽く乗せられていただけの手が、線をなぞるような動きをした。
「はい?」
弥勒は自分の背を見る。別に何がどうしたとも思われない。
完全に身体を起こすと、手はそのまま下に落ちる。弥勒は仰向けに横たわったままの殺生丸の腕を取り、引き起こした。
褥の上に向かい合って座る形になり、弥勒は殺生丸の無機的な色合いの目を覗き込む。もともと表情が動かない妖の、その表情がよりいっそう強ばるときは何か引っかかる物があるときだと、弥勒は察せるようになっていた。
こういうときは後回しにしない方がいい。後になって、「あの時はどうしたのですか?」などと聞いてみても、無口な大妖は口を閉ざすだけだ。

「私の肩に、何かありましたか?」
弥勒はさっきまで殺生丸が手を添わせていた辺りに自分の手を当て、そう聞いた。
自分で触ってみても、別段何かあるようには思えないのだが。
殺生丸は僅かに顎を引き、上目を使うような角度になる。
「…布が裂けた」
聞き返すような顔をした弥勒の前に殺生丸は己の右手を翳し、爪と爪を弾いてみせる。
「爪が食い込んだ」
殺生丸の言葉はあまりに断片的すぎて、さすがに弥勒も少し考え込む。
「殺殿の爪で、私の衣が裂けた、という事ですか?」
弥勒はもう一度、さっきよりも丁寧に手で自分の背中を探る。
確かに、左の肩の下あたりに小さな鉤裂きが出来ていた。
だがそれは本当に小さな裂け目で、針で2、3目も縫えば見えなくなる程度。
これくらいで、なんでそんな真面目な顔つきになるのかと弥勒は首を捻る。

「これなら、すぐに直せます。お気になさらず」
そう言うと、殺生丸は硬い顔のままで僅かに首を振り、自分に問うように言う。
「布が切れる筈など、なかった」
何を拘っているのか、弥勒は判らない。抱き合い達した瞬間に自分の衣を握る癖があるのは知っていたが、今まで布が破けたことなどなかったのは確かだが。
「布が傷んでいたのかも知れませんね」
弥勒は殺生丸の気を引き立たせるように軽く言った。
実際、深刻に考えなければならないような事とは思えない。
殺生丸は目を伏せると、僅かに首を振る。
「困りましたねぇ…本当にお気になさらず…」
「お前は判っていない」
不意に鋭く言うと、殺生丸は弥勒の後頭部に手を伸ばすと、そのまま乱暴に引き寄せた。抱きしめられた、というには色気のない手つきで顔を胸に押し当てられ、弥勒は目を丸くした。弥勒の頭を抑えていた手はそのまま下に滑り、背中の衣の破れ部分付近を彷徨っている。
「私は、衣を傷めないつもりだった」
沈鬱な言葉の意味を確かめたかったが、殺生丸はそれきり沈黙してしまう。
自分なりに考えてみたが、弥勒には今一つその言葉の意味がピンとこない。
衣が破れた――それが一体どういう意味を持つのか。


弥勒は判っていない――。
殺生丸は己がつけた布の傷を眺めながらそう思う。
自分が持つ力。単純に腕力だけでも人間の男を細切れにするのは容易い。
だから弥勒と触れあうとき、殺生丸は徹底的に己の力を抑えていた。
例えどれだけ我を忘れているように見えても、人の肌に傷一つつけないように注意していた。
今宵もそう。制御していた――そのつもりだった。
だが、しきれなかったのだ。力の加減を誤った。
人の手が織った脆い布は、今夜も糸一本切れずに終わるはずだったのに、殺生丸の爪はその糸を何本か断ち切った。

今夜は衣だけ。
だが、次の夜に男の肌まで切り裂かない保証がどこにあるのか。
男に抱かれて達する瞬間、例えほんの一瞬でも意識的な制御を離れて指先に込められた力は、易々と人間の身体を差し貫いてしまうだろう。
僅かな布の切れ目はその予兆。
その瞬間が来ることがけして無いなどと、殺生丸には言い切れない。

胸元に抱き寄せた男の背をなぜながら、殺生丸はその衣の破れ目を見つめている。
心の箍が外れつつある証が、そこにある。


妄想置き場に戻る