◆ 業持つ手 ◆


 

狭い堂内に墨の臭いがこもる。
殺生丸は壁際に座り、半蔀(はじとみ)を少し上げて新しい空気を入れた。
外は日暮れ時、陽が落ちきる直前の最後の光が眩しく山を染める。
首を巡らしてその光を避け、殺生丸は堂の中央付近に座る男を見た。

どこから探してきたのか、塗りの剥げかけた古い文机。
その上に紙と矢立を広げ、ぴんと背筋を伸ばして座った男は文字を書き連ねるのに没頭している。
室内はかなり暗くなっているというのに、傍らの灯台に火を入れる事もせずに弥勒は正確に筆を運ぶ。
殺生丸は黙ってその端然とした姿を見ている。
彼がここへ来たのは今日の昼過ぎ。
その時すでに弥勒は書き物に没頭していて、彼が来たことにも気が付いていないようだった。
珍しい、と思った。
普段であればいつも人待ち顔で、階に座りこんで待っていることもよくあるというのに。
今日は古びた紙の端から端まで文字を書き、裏返ししてまでも書き、真っ黒になるまで筆の跡を重ねて、それから違う紙を広げる。
書くという行為に熱中し、取り憑かれているようにも見える男に、殺生丸は声をかける気も失せてただ黙ってそれを眺めていた。


弥勒は繰り返し文字を書く。
ちらりと目の隅に映った言葉は多分何かの経文の一節。すでに暗記している言葉をひたすら紙に書き留めていく。
一点を見つめ、正座した足が崩れることもない。
その弥勒がふと手を止めた。そして寝起きのような表情で顔を上げる。殺生丸はつと立ち上がった。


手元が急に暗くなった気がして弥勒は手を止めた。そして堂内自体がすでに暗くなっていたことに気がつき、急いで傍らにあるはずの灯台を手で探る。
弥勒がそれを掴む前に、ふわりと灯がともった。
橙色の柔らかい明かりの輪の中に、殺生丸の横顔が浮かぶ。
半ば伏せられた長い睫が顔に落とす影の濃さに、弥勒は今更のように夜になっていたことに気が付いた。

「いつ、いらしたのですか?」
殺生丸が来たことに気が付かなかった後ろめたさに、弥勒は気恥ずかしげに訊いた。
「昼過ぎ」
殺生丸の答えはいつものように簡潔だ。妖は火の具合を確かめるように少し灯台に顔をよせ、それから立ち上がると灯台の外側を回り込んで弥勒の横に座った。
自分の方にきちんと身体ごと向き直る男を無視し、殺生丸はびっしりと書き込まれた紙を見る。
いくつか読みとれた文字から、書かれた内容が予測できた。
「写経をしていたのか」
そう言うと、弥勒は狼狽えた顔つきで笑った。

「あなたをお待ちしている間に部屋を整えようと、その辺を片付けるついでに納戸の奥を調べてみたのです。そうしたら古い文机と、その引き出しの中にこれまた古い紙が残されているのを見つけまして、時間つぶしにでもとつらつらと覚えている経を書き連ねているうちに夢中になってしまっていたようです」
そう言って弥勒は真剣な顔で頭を下げた。
「それであなたのお出でに気が付かないとは、本末転倒もいいところですな。面目次第もございません。申し訳ございませんでした」
目の前にあった気配が消えた。
弥勒が頭を下げると同時に、目の前に座っていた人は音も立てずに壁際に移動していたのだ。
暗闇に溶け込むような殺生丸に、弥勒は困り果てた気分でその隣に行く。
「怒ってますか?」
「いや」
「怒っているでしょう」
「……」
殺生丸はそっぽを向いている。
痴話喧嘩と言うには、自分だけが一方的に分が悪いのを感じ、弥勒は項垂れた。

「機嫌を直してください」
下手に出てそうっと顔を近づける。
「こっちを向いて、顔を見せてください…」
耳元で囁くと、殺生丸はくすぐったそうに身体を引いた。自分から逃げるような動きに、弥勒は泣きが入る。
「あまり殺生な事はなさらずに。私だって泣きますよ?」
堂々と言うと、ようやく殺生丸が顔を向けた。
「泣き声は好まぬ」
「だと思いました」
相変わらずのつれない物言いだが、黙っていられるよりはよほど事態は好転したと、弥勒はほっと胸をなで下ろす。
にこりとした笑顔が戻った弥勒に、殺生丸はぽそりと聞いた。
「貴様は夜目が聞くのか?」
「は?多少はなんとか…それが何か?」
そう聞き返したところで、殺生丸が灯りの側の机を見ていることに気がつき、その事を言っているのかと考えた。

殺生丸と話していると嫌でも気が利いてくるなと、いつも周りをうろちょろしている小妖を思い出して弥勒は可笑しくなった。
殺生丸の意をくみ取るのは、なかなかに大変なことだろうと思う。こちらが訊ねない限り説明などする気のない人だから。
「多分手元は見えていなかった筈です。書いている間は、手が覚えているのに任せておりましたので。明るい場所で見たときに、さて、読みとれるかどうか」
「器用なものだ」
「子供の頃世話になっていた寺で写経はさんざんやりましたので。これも修行の一環とか言いくるめられましたものですから、それはもう、飽きるほど。その間、等の師匠は何をしていたかというと、酒を飲んでは大の字に寝るばかり」
気を引き立たせるように身振り付きで面白おかしく言ってみたが、当の聞き手は無関心に見ているだけだ。笑いをとるのに失敗した太鼓持ちの心境で、弥勒はため息を付く。
「自分が不調法だったのは承知しております。苛めないでください」
「苛めた覚えなど無い」
「そうやって、冷たいそぶりをされること自体、私にとっては苛められているような気分です」
「ふざけた事を抜かす」
「本気ですってば」
弥勒は宥めながら側ににじり寄り、そっと腕の中に抱き込んだ。今度は逃げるそぶりがないので、弥勒は殺生丸を抱いたままほうっと安堵の息を付いた。

「あなたのお出でに気が付かないなどと、そんなまぬけた事は二度としませんから」
「なぜ、それほど気を遣う」
「なぜとは…」
まだ拗ねているのかと、苦笑気味の弥勒に答える暇を与えず、殺生丸は呟く。
「貴様のこの手は、退魔の経を記す。妖を封ずる業も心得ておろう。消滅せしめる呪も印も結ぶことが出来る」
「私が封魔の術を使ってあなたに仇を成す、思いのままにするなどと、もしやお考えで?」
傷ついた風に弥勒は言った。
「その業を持つ、そう言ったのだ」
「酷いことを仰いますな」
自分の腕の中で力を抜いた状態で淡々とそう言う殺生丸を抱きしめ、明らかに傷ついた声音で弥勒は言う。
「貴方はどうすれば私が傷つくのか熟知していると見える」
「その様な意図はない。ただ、真実を言った」
喉を詰まらせ、自分の項に顔を埋めた弥勒の手に殺生丸は触れる。
「貴様のこの手は、我ら妖怪に仇を成す手段を知る手だ」
「なぜ、その様な事を言うのです」
くぐもった男の声に、殺生丸は自嘲するような薄い笑みを口の端に浮かべる。
「その手の持ち主に逢いに私は足を運ぶ。愚かしいことだ」
弥勒は顔を上げた。困惑の色がその目に浮かぶ。

「……今、ここにいる事を後悔しておいでか?」
「いや」
殺生丸は触れている弥勒の手に視線を落とした。
「後悔などはせぬ――それが一番愚かしい」
男の手が動き、荒い動作で裾を割る。
言葉が途切れて息だけが荒くなり、床に崩れた身体が重なって蠢く。

妖を滅ぼす術を知る手。
業を持つ手。
その手に触れられるために訪れる我が身。
妖と、それを滅ぼす業持つ者と。
ただ互いを傷つけ合うだけかも知れぬ関係なのに、その中で抱き合う男と自分は愚かだとそう思う。
後悔などはしない。ただ、己を嘲るのみ。
唇を噛んで声を殺す殺生丸の手が、弥勒の頭を抱き寄せる。


僅かに流れた風が灯火を消し、闇の濃さが増した。


 
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