◆ 雪 ◆



 
初冬の空は透けそうな程に色が薄く、そして高い。
その空の蒼を透かして、もうじき雪が落ちてくる。
ぴんと澄んだ空気をまとわりつかせ、弥勒はひとりで山道を登る。
楓の村から歩いて半日ほどの山の、森に覆われたその中腹にあるのがいつもの寺。
力を増しつつある仇敵に募る焦りと苛立ちで、歩く弥勒の表情は重い。
それは仲間達も同様――弥勒は風穴を封じた右手をみやり、自分の感情を押し込める。
ふと感じた気配に弥勒は顔を上げた。
「犬夜叉…」
「どこへ行くんだよ」
不機嫌そうに腕を組み、木に寄りかかった犬夜叉が苛立ったように弥勒を見据えていた。

「後をつけたのですか?」
「こんな時にひとりでふらふら出歩くからって、珊瑚達がうるせぇんだよ」
「別に心配することもありませんよ」
素っ気なく言って横を通り過ぎる弥勒の肩を犬夜叉は掴む。
「テメエ、いつも黙って姿消すだろ!どこ行くかくらい、ちゃんと言ってけ!」
「お前ねえ、宣言してから逢い引きに出かける事ほど、無粋なことはありませんよ。 当然、それを呼び止めるのもね」
しらっとした口調で言う弥勒に、犬夜叉は嫌みな口振りになった。
「へえ、この山奥で逢い引きたあ、どういう相手なんだか。熊女でもたぶらかしたのか?」
その台詞に弥勒の目が据わる。
「…しつけぇぞ、てめえ。おれがイタチに岡惚れしようが、狢と乳繰りあおうが、おれの勝手だろうが」
錫杖を担ぎ直して凄みをきかす弥勒に、犬夜叉は思わずたじろいだ。
「ガキはさっさと帰って膝っ子増でも抱えて独り寝してやがれ。人の寝間に首突っ込むようなガキは
ろくな大人になんねえぞ、こら」
「…ガキってなんだよ」
不満そうに唸る犬夜叉に、弥勒は追い払うように手をひらひらさせた。
「気を利かすって事を知らないのは、子供の証拠です。男同士なんだから、それくらい察しなさい。久々の逢瀬なんだから、ついてくるんじゃありませんよ」
犬夜叉はその場で睨むように弥勒を見送る。
その気配を感じながら、弥勒は足取りを早くした
 
 
山の空気は里よりも冷たい。
その空の色も里より薄い。
急ごうと前にだけ気持ちを集中し、弥勒は寺へとたどり着く。
本堂の扉を開けて中に入り――弥勒は息を飲んだ。
冷え切っている筈の堂内にこもるほんのりとした暖気。
火桶の中には赤く熾った炭。
明らかに先客がいた気配。それなのに、誰もいないことに弥勒は不吉な物を感じ、急いで寺から飛び出した。 そして目に飛び込んできたのは自分から遅れて森の中から現れた犬夜叉。
弥勒の背を冷たいものが流れる。
ここへ現れた殺生丸は弟の気配を察し、その存在の証だけを残して、行方をくらましてしまったのだ。
強ばった弥勒の顔に、犬夜叉は自分が取り返しのつかない事をしてしまったのだと悟った。
 
 
 
弥勒は上がり口の階に座り込み、両腕を足の間に 放り出すようにして俯いた。
「…わりい…こんな場所で逢い引きするなんて、やっかいな女妖怪に取り付かれてるんじゃねえかと…。万が一って事もあるしと思ってよ…」
歯切れ悪く謝る犬夜叉に、弥勒は返事をしない。
「…悪かった…余計なお世話だったな…」
「お前のせいではありませんよ。うかれて背後のお前に気がつかなかった、私の不注意です」
ようやく顔を上げた弥勒の不自然な程に冷静な言葉に、犬夜叉の罪悪感が強まった。
「相当、訳ありな相手なんだな…惚れてるんだ…」
「惚れてますよ、とり殺されても後悔しないだろうって程に」
淡々とそう答えたあと、弥勒は切なげな笑みを浮かべた。
「もっとも、向こうはとり殺したいと思うほど、私に執着してくれてはいないかも知れませんけどね」
そう言ってまた俯く頼りない姿。
犬夜叉は何を言えばいいのか判らず、立ちすくむ。
「お前はもう帰りなさい」
その言葉に犬夜叉は物問いたげな顔をした。
「明日の夜までには私も帰ります。だから、今日は先に帰りなさい」
下を向いたままそういう弥勒に、犬夜叉は従うしかない。
帰路に向かいながら犬夜叉は何度も心配げに弥勒の様子を窺う。
弥勒は一度も顔を上げなかった。
 
 
 
――犬夜叉が悪いわけではない。
己の心情だけに捕らわれ、同じく不安から過敏になっていた仲間達への配慮を怠った自分のせいだ。
それは判っている。よく分かっているが…。
 
辺りから完全に犬夜叉の気配が消えたあと、弥勒はふと顔を上げる。
鼻先に触れた小さな冷たい粒――雪。
立ち上がり、何歩か先に進んで弥勒は空を見上げた。
一面灰色に覆われた空、そこから次から次と雪が落ちてくる。
最初小さかった雪の粒はじょじょに大きくなり、視界を埋め尽くすかのように降りしきる。
一面の白、他の色を全て覆い尽くすような雪。
見通しが利かなくなる世界。
 
――あの方はどんなつもりで火を熾したのだろう。
気候の変化はあの方へなんの影響も与えない。
おそらく凍えながら山道を登ってくるだろう自分への気遣い――情を表す事をまるで弱さの証明のように考えているらしいあの方が、どんな思いで自分のために部屋を暖めようとしてくれたのだろう。
その気持ちの出鼻をくじいてしまった――弟の気配をあの方はどんな風に受け取ったのだろう。
ひょっとして、自分が案内をしてきたと誤解しただろうか。
 
もう戻らないんだろうか――。
ぽつりと弥勒は思った。
ここへ来た証だけ残して去ったという事は、これで関係を終わらせるという意思表示なのだろうか。
――犬夜叉に、弟に知られてまでも続けるつもりはないという事だろうか。
迂闊な男に愛想を尽かし、つき合う気を無くしてしまったのかもしれない。
 
 
黙って雪を眺め続ける弥勒の中から、何かが流れ出ていく。
自分を保つために絶対的に必要な物、普段であればけして表に出てくることはない自分の一番中心にある物。
自分を強くしてくれる何かは、今とてつもなく脆く崩れそうになっている。
情けないと思っても、どうにもならない。
黙って立ちすくむ弥勒の頭にも肩にも、雪は降り積もってゆく。
身体の寒さすら感じないほど、凍えてしまった心。
何も感じない、――心の中も無彩色に染まってしまったように。
 
 
その白が動いたように見えた。
開いているのに何も認識していなかった弥勒の目の焦点が合う。
白の中の白――蒼みを帯びた白銀の髪。
雪の中に幻のように現れた人影を、弥勒は夢のように見る。
「…たわけが…雪人形にでもなる気だったのか?」
殺生丸は不快げに眉を潜めると、手を伸ばして弥勒の頭に積もった雪を払った。
凍えて強ばっていた弥勒の唇が僅かに動く。
「…戻ってきて下さったので…?」
「たわけが」
もう一度言って殺生丸は弥勒の両肩の雪を落とす。
その普段と変わらぬ素っ気ない声音に、弥勒は目元が熱くなるのを感じた。
「…つれない言い様ですな。雪人形になるまでお待ちしてたら、少しは哀れんでくださるので?」
「雪人形など、愛でる趣味はないわ」
言い捨てて殺生丸は、弥勒の体温を測るようにその頬に手の甲でふれた。
「冷たいな」
「…それは冷たいですとも」
弥勒は殺生丸の手に自分の手を添える。
普段は自分よりも体温が低いはずの手なのに、今触れる手は温かい。
幻でないことを証明する温かい手の感触に、弥勒の顔が泣き笑いのようになる。
「…ひょっとして、これきり戻ってきてくださらないのではと思ったら、心が冷えて冷えて…」
表情と同じ泣いているのか笑っているのか判別つかない低い声音に、殺生丸の無機的に光る瞳にちらりと困惑の色が浮かんだ。
「…たわけが…」
素っ気ない言葉に、僅かに情がこもる。
 
本当は戻るつもりはなかった。
犬夜叉の気配を感じた瞬間、咄嗟に逢い引きごっこも終わりだ、と思った。
どんな形であれ、弟の介在を許すつもりはない――その仲間と深い関係になってしまったこと自体間違いだったと、そう改めて認識したつもりだった。
それなのに……ただ様子を見るだけのつもりだったのに、雪の中で立ちすくんでいる男を見た瞬間、 どうしても立ち去ることが出来なくなった。
 
 
つと、弥勒の唇に暖かいものが押し当てられた。
殺生丸の方から初めて与えられた口付けに、弥勒の目が丸くなる。
唇がそっと離れたあと、弥勒は目を丸くしたまま呟いた。
「…やはり、これは夢かも知れません。身体を冷やしすぎたせいで、立ったまま眠っていたことにも気がついていなかったのかも知れませんな…」
「たわけが」
呆れたように言う殺生丸の目元が僅かになごむ。
笑顔と言うには程遠い本当に僅かな変化ではあったが、目の前で示されたその表情に、弥勒は自分の中で 失いかけていた物が戻ってくるのを感じる。
弥勒は顔を上げた。
 
さっきまでは不安をかき立てられるだけだった白い世界の、新雪の美しさが目にしみる。
隣を見ると、殺生丸も同じように顔を上げて雪が降る様を見ている。
近くにいて、同じ物を同じように見ている――ただそれだけの事が嬉しい。
 
時が過ぎても、こんな風に過ごしていられたらいい。
明日がどうなっているのかさえも判らない境遇で、先を考えるのは滑稽かも知れない。
それでもこうしていたい。
ほんの僅かな時間を共有できるだけでもいい。
来年も、その次の年も、そのまた次の年も、こうして同じ物を見ていたい。 次々と降り積もる雪の一粒一粒に、弥勒は願をかけるように祈る。
 
繰り返される季節を、どうか一緒に――ずっと――。
 
 
 
 
 
  

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