◆ 戯れ言 ◆


 
射し込む朝日の中、間近で見る銀の睫毛は光の雫を乗せたようにきらきらと輝いている。
僅かに乱れた流れを作る長い髪も肌も、ほんの少しのシミ傷もない眩いほどの美しさ。
いつもならうっとりと見惚れるだけのその寝顔を眺め、弥勒は少しばかり不満げに眉根を寄せた。
しかつめらしい顔つきでじいっと穴が開くほど見つめていると、やがて、瞼を閉じたままだった妖が、辛抱しきれないといった風にしかめ顔で目を開けた。

「さっきから、何を見ている」
「あなたのお顔を見ていました」
「それほど難しい顔つきで見るほど、私の顔に難でもあるか?」
「難などございません。名工が精魂傾けて今仕上げたばかりのようなお美しさです。……いえ、その難のなさこそが難、といえるのかも知れませんが」
「貴様、何を言っている?」
夢うつつのようにぶつぶつと答える弥勒に、殺生丸は男の頭にこそ難があるような口調になった。
「ですから、何もないのです!」
弥勒は褥の上に座り直すと、まるで重大な告白でもするかのように言い切った。
「昨夜、首筋につけた筈の吸った痕が、朝には綺麗さっぱり消えているのです!」
その直後、褥ごと弥勒の身体が背後にひっくり返されたのは言うまでもない。


「……そう怒らずともよろしいではないですか…」
弥勒は媚を売るような声を出した。早朝、目覚めた直後に弥勒が放った戯れ言にすっかり機嫌を損ねた殺生丸は、滑らかな動きで男に背を向ける。
「元を言えば、殺殿の体質の問題なのですよ?」
「貴様の戯れ言は、私のせいだと抜かすか」
「怒らないでくださいよ……だってですね、いつのも事なんですよ」
「何がいつもの事だ」
背を向けつつも律儀に返事をする殺生丸に、態度ほど腹を立てているわけではないと察したのか、弥勒はため息を付きながら告白した。

「目覚めてすぐ目にする、昨夜睦み合った証というのは、それはもう、艶めかしいものです。細い首筋にうっすらと残る赤い痕、それを鏡で見た女が『嫌だよ、もう、こんな所にまで痕つけて…このままじゃ外に出られないじゃないですか…』なんていいながらぶつ真似をしてご覧なさい。そりゃあもう、『だったら一日家からでなきゃいいじゃないですか、私がお相手しますよ』…なんて事を言いたくなるくらい色っぽいもので…」
弥勒の顔面に絹の袂が打ち付けられた。
薄く柔らかい布とはいえ、殺生丸の鋭い動きで振られると袂も立派な凶器になる。
またもや後ろにひっくり返る弥勒に、つくづく懲りないやつ、と言わんばかりの視線を殺生丸は向ける。
「貴様、一体何を言いたい。よもや、この私にそのような戯れ言を言えとでも?」
「まだ話の途中でございますのに…それにそこまで殺殿に要求する気はございません」
涙を滲ませて起きあがった弥勒は、赤くなった鼻の頭を抑えて情けない顔をした。
「……ですから、夜の間に私が肌に残した痕が、殺殿の場合は朝には綺麗さっぱり消えてしまいます。いくら何でも早すぎです……」

今度こそ、殺生丸は完璧に呆れた。真面目な顔で何を言うかと思えば、肌につけた筈の吸った『痕』が消えていると嘆いているのだ…。
「……貴様、どこまでたわけているのだ…」
「何もそう呆れた顔をなさらずとも」
ここで呆れずにどこで呆れるのか。
殺生丸は顔を背けると、本気で今すぐ此処を立ち去ろうかという気分になった。そんな妖に気が付いているのかどうか、口に出したことで調子づいた弥勒は蕩々と並べ立てる。

「殺殿のお身体ときたら、つい数刻前につけたはずの口付けの痕すらすっきり消えてしまうのです。毎度毎度せめて消える直前の薄い痕でもいいから一目見てみたい、……昨夜の事が夢ではなかったことを朝日の中で確かめたい…と願う健気な男心を無視していくら強く吸ってもまったく痕が残りません。これははっきり言って非常に寂しいことです、といいますか、睦み合った後の余韻の殆どが失われているようなものです」

(それで、あちこちに吸い付く力が最近強くなった気がしていたのか……いくら痛みに強いとはいえ、興ざめする程度には気になっていたのだぞ…)と、はり倒してやりたい気分になった殺生丸に気が付かず、弥勒は、なおもつらつらと話し続けていた。

「ああ、一度でいい…この目で見たいのです…殺殿のその肌に残る睦み合った証たる痕…白い肌に残る、赤い私の口付けの痕…」
「……まったくもって貴様というやつは…」
うっとりとかなり際どい台詞まで並べ立てる弥勒に、殺生丸は制止の言葉をかける気も失せてしまう。
誰も止める人がいない弥勒の妄想はますます暴走し、そのあげく、ついに名案と思われる思考にたどり着いた。弥勒は嬉しそうに目を輝かせると、呆れきった半眼で自分を見ている殺生丸の肩に両手をおいた。
「そうです!夜つけて朝に消える痕ならば、朝につければいいのですよ!」
「……は?」
胡散くさげに聞き返す殺生丸に、にこにこと笑顔になった弥勒は、「首筋に口付けさせてください!」と臆面もなく言い放った直後――当然のように、濡れ縁から外へと放り出されていた。


「……なんだか、今日一日で100体の妖怪と戦った後以上の傷が増えている気がするのですが」
「貴様がふざけた事ばかりぬかすからだ!」
ぶつけた頭や腰をさすりながら縁側にはい上がった弥勒は、完全に気分を害してそっぽを向いている殺生丸に苦笑しつつ、その背に甘えるように言う。
「一度だけでいいんですけど……だめですか?やっぱり」
「知るか」
「夜なら平気なのに…」
「何か言ったか?」
「いえいえ、何も」
とげとげしい口調で僅かに振り向く殺生丸に、弥勒は「逆らう気はございません。殺殿の仰りよう、真にもってごもっとも」と殊勝に答える。そう答えた後で、にっこりとしながら、「だめですか?」と問う。
先に根負けしたのは殺生丸の方だった。怒っているのも面倒くさくなったのか、ぐるりと身体ごと向き直ると、「一度だけだ」と告げる。
弥勒はそれこそ喜色満面、躍りあがるような顔でいそいそと近付いてきた。

(何がそんなに嬉しいのやら…)
殺生丸は呆れきった醒めた目で弥勒を見やる。正面に座り、肩に手をそえて嬉しそうに顔を寄せてきた弥勒は、明るい陽射しの中で見る白い首筋に妙な照れを覚えたのか、その場になって誤魔化すように笑った。
「いやあ、いざ、改まってするとなると、照れますな」
「では、やめろ」
「いえいえ、殺殿のこの白い首筋に咲く赤い華を目にする、せっかくの機会でございます。いざ!」
妙に気合いの入った声を上げておいて、また照れ隠しのような笑い方をする。
「その様に凝視されている前でするには、やはり照れる行いですな」
この期に及んでぐずぐずと煮え切らない弥勒に、殺生丸は眉を潜めた。
「……なれば、止めればいいと言うに」
「いえいえ、決心が付きました。では、まいります!」
今にも怒り出しそうな顔の殺生丸に焦った弥勒は、ついにその首筋に唇を寄せた。

場所を確かめるようにちろりと舌で舐めると、僅かに竦められた肩の動きにつれて銀の髪が動く。鼻先で揺れる細い髪の感触を楽しみながら、弥勒は少し強めに首筋を吸い上げた。
ひくんと、殺生丸の肩が先程よりも大きく動く。
さらりと背中にこぼれ落ちていく髪。僅かに顎が上がったのか喉が露わになり、尖った耳に血色が浮かぶのを弥勒は目の端で見てとった。

夜の闇の中で夢中になっていた時は気が付かなかったが、弥勒がこうして肌に証を残そうと吸い上げるたび、妖は無言のまま戦慄いていたのだろうか。こんな風に――。
そう考え、弥勒はぞくりとなった。

――こんな風に――自分の腕の中で――声を上げることもなく。

弥勒の身の内に強い恍惚感が込み上げる。殺生丸の手が弥勒の袖を強く掴んだ。
その動きに我に返り、弥勒は静かに身体を離す。
それに合わせて殺生丸も僅かに身体を退く。自分を自由にする男から逃れるように。

殺生丸は不機嫌に顔を顰めると、低く短く問うた。

「気はすんだのか」

「はい、もう十分に」

満足そうに笑う弥勒の顔に、殺生丸は首に残る鬱血の痕を抑えようと上げた手をおろす。
白い首に鮮やかに浮かぶ赤い口付けの痕は、じっと見つめる弥勒の目の前で瞬く間に色を薄め、昼の陽射しに溶けるように消えてしまった。




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