◆ 暁月夜 ◆

【あかつきづくよ】――夜明け方にまだ残っている月。またその時分。



 
立ちすくむ弥勒の前に広がっているのは、どう見ても断崖絶壁。
 
「おい…ここを俺に飛べってか?」
脱力している男の問いに、少し甲高い少女の声が答える。
『あれ?道、間違えちゃったかな。だって、ほら、私って箱入りお姫様だったから』
「箱入りでも籠入りでもいいが、ほんとーに、道、わかってんのか?」
『…うーん、ちょっと怪しいかも』
「怪しいかもって…ってなあ…勘弁してくれよ、春花姫様よ…」
弥勒は頭を抱える…が、どう見てもそこにいるのは法師1人。
険しい山を登り、深い森を苦労して抜けた結果のあまりの意味のなさに、弥勒はその場にしゃがみ込む。
「あー、もういいだろ?姫さんが道案内できないんなら、たどり着けっこないからな」
『え、いやよ、いや!だって今までずっと待ったのよ!もういやよ、絶対行くの!絶対絶対に会いに行くの!』
地団駄踏むように叫ぶ少女の甲高い声。だがそれは、弥勒本人の口から発せられていた。
 
 
◆◆
 
 
『ずっとずっと待ってたのよ。私に気が付いてくれる人が通りかかるの』
そう弥勒に語りかけてきたのは、崖下にひっそりと埋まっていた髑髏。
哀れに想い、供養したのが運の尽き…というか、弥勒の身体にはその髑髏の主たる少女の魂がちゃっかりと入り込んでおり、図々しくも自分の願いを叶えてくれとしつこく要求を始めたのだ。
『私の背の君がおいでになるの。私、そこへ行こうとして死んじゃったの。あの方はきっと私を待ってるわ。だから行かなくちゃいけないのよ』
「あのさ…こういっちゃなんだが、姫さんがお亡くなりになられてから、随分経ってると思うぜ。今も待ってるわけはないと思うんだがさ…」
『大丈夫よ、だって、あの方は金色の猩々。妖怪だもの、今もきっと生きてるわ。そして私を待ってるのよ』
本人の顔が見えたのなら、きっと目をキラキラさせているだろう、そう容易に想像の付く口調で
少女は弥勒の頭の中ではしゃぎ続けている。
あげくに弥勒の口を通して声を発するようにまでなってしまい、弥勒は慌てて仲間達に隠れるようにして旅に出た。少女の思い人たる猩々の住処の山を目指して。
さっさと願いを叶えて自分の身体から退去していただこうと思ったのだが、いざ旅を初めて判ったのが春花姫の案内のいい加減さ。
「完璧、迷子って言いませんか、お姫様」
弥勒は投げやりにそう言った。
 
 
 
『迷子みたい…あ!そう言えばあの方にあったのも私が野摘みで迷子になったときでね…』
身体がない分危機感が薄い春花姫は、この状況でもまだ思い出話ではしゃいでいる。
弥勒はため息を付いてとりあえず来た道を戻り始めた。何はともあれ人里でゆっくり休みたい。
「姫様、場所が判らないのなら、諦めて成仏していただきますよ」
『ええ?いやだってば!』
少女はじたばたと頭の中で暴れ出した。
「…結構疲れるんですよ…こういうのは…」
つい愚痴がこぼれる。強制的に身体から追い出すことは、やろうと思えばできるだろう…とは思うのだが、あまりの幼さに力尽くで始末をつけるのも気が引ける。
ため息を付きつつ一休みしようと弥勒は手近な岩を背に座り込み、そして気が付かないうちに眠り込んでしまった。少女が頭の中で何か喚いている。
『寝ちゃわないでよー、だって、戻らなきゃないんでしょ?こんな所で休まないでよ、ねえってば!』
(俺だって、こんな所で寝たくねーよ…でもなんか、すげー疲れちまって…)
それを最後の意識に、弥勒は前後不覚なほどに深い眠りに落ち込んでいった。
 
 
◆◆
 
 
雲の上を悠々と双頭の竜が駆ける。
手綱を取っているのは銀の髪を持つ大妖。鞍の後ろに従僕の妖怪と人間の少女を乗せて空を駆っていた大妖は、ふと、覚えのある匂いを感じて空中で竜を止めた。
無言で雲の下に目を向ける殺生丸に、りんは不思議そうになる。
「殺生丸様、どうしたの?」
それには答えず、殺生丸は竜を地上に向けた。
放っておいてもよかったのだが、不思議なほどに薄れた生気と、混じり合った別の匂いが気になったのだ。
 
 
雲を抜け、空中を駆ける竜は音もなくある一点に降り立つ。
殺生丸は岩を背にぐったりと眠っている法師を見つけ、眉を潜めた。
「たわけが。…ここはすでに人の地ではないというのに」
人里離れた山奥では、日が暮れると獣達と共に妖怪達も気ままに動き出す。
この状態ではあっという間に身体を食い尽くされるだろうと思いつつ、人の不用心さに構うほどの関心も持てずに殺生丸はそのまま立ち去ろうとした。
りんが竜の背から身を乗り出し何か言いたげにしているが、構わずに手綱を取る。
だが、背を向けた殺生丸を甲高い少女の声が呼び止めた。
 
『ちょ、ちょっと待ってよ!この人の知り合い?だったら、お願い、起こしてちょうだい!こんなとこで行き倒れは、私も嫌なんだってばー!』
 
幸い、その声に弥勒は目が覚めたようだ。
ぱっと目を開け、頭をふり――そして気が付いた。
無言でなにやら胡散くさげに自分を見ている殺生丸と、目と口が全開のりんと邪見。
状況を理解した弥勒は、気恥ずかしさに青ざめながら、結局誤魔化し笑いをするしかなかった。
 
「これは皆様……奇遇でございますなぁ…」
 
 
◆◆
 
 
どさくさ紛れというのも変な話だが、結局弥勒は殺生丸の竜に同乗させてもらう形で山を降りたのである。それを頼み込んだとき、殺生丸がどんな顔をしたのか弥勒は今一つよく覚えていない。多分空飛ぶ魚を発見したらするかも知れないような、そんな顔つきをしていた気がする。
何はともあれ、焚き火を前に弥勒はその場にいる面々に深々と頭を下げた。
 
「いや、どうもお世話をおかけいたしました!一応、言い訳させていただきますと、あれは…」
『ありがとー、もう本当にどうしようかと思っちゃったわ。あんな処で行き倒れられたら、次に人がいつ通りかかってくれるか分からないもの〜〜〜』
弥勒の声を遮って無邪気な少女の声が響く。
「姫様…私が倒れるのは悪いとは思ってくださらないので…?」
『うーん、…だってほら、私、ずーっと待ってたから…』
「それは姫様の事情でしょうが!」
弥勒は叱りつけるが、叱られる側が弁解するのも彼の口を通してなので、見ている方にしてみれば弥勒の1人芝居にしか見えない。
まったく動じていないのは大抵のことに無関心の殺生丸だけで、邪見はただでも飛び出た目をさらにぎょろりと大きくし、りんに至っては両手を叩いて喜んでいる。
 
「法師様ー、おもしろいー、もっとやって」
「あのねえ、りん。面白いって…別に私は芸をしているわけでは」
『きゃ、可愛い!私、妹が欲しかったの!私、6人姉妹の末っ子だったし、姉様方とは歳も離れてたから、つまらなかったの』
そう言ってぱっとりんを膝の上に抱え上げたところで弥勒本人に戻り、弥勒は自分の膝の上できょとんとしている童女に深々とため息を付いた。
「春花姫…私の身体を勝手に使うのは止めてください…」
『ごめんなさいー、つい、手が出ちゃったの』
悪びれもせずに少女がはしゃいだ口調で言う。
殺生丸はずっと珍獣を観察するような目つきで弥勒を眺めていたが、ここでようやく口を開いた。
 
 
「貴様、どうやら死にたがっていると見える」
いきなりの不吉な物言いに弥勒はぎょっとして殺生丸を見ると、おずおずと言った調子で訊ねた。
「私はそのつもりはありませんが…そう見えますか?」
「見えるな。そのままだと数日のうちに生気を吸われ、身体を乗っ取られるぞ」
冷酷に告げた殺生丸に、こわいもの知らずの少女の声が憤慨した調子で騒ぎ出した。
『ひどいわ、人を悪霊みたいに!私、この人をどうこうしよう何て気は持ってないのに!』
「黙れ、小娘。これ以上喚き散らすと、むりやりにそこから引き出すぞ」
 
本気を感じ取ったのか春花姫はぴたりと口を閉ざすと、弥勒にも意識できないほど奥に引っ込んでしまった。
「おや、姫。大人しくなりましたな」
剽げたように言うと、弥勒はそれでもほっとしたのか、力無く頭を下げた。
「この所、体力が落ちているのは自分でも判っておりました。その所為であの姫君の方が強くなりつつあるのも。承知はしていたのですが…」
「承知の上でのことなら、何も言うことはない」
「…つれない事を仰らず、力になっては頂けませんか?」
「承知で取り付かせているのだろう」
「取り殺されるところまでは承知していません」
弥勒のあまりにもせっぱ詰まった様子にさすがに哀れになったのか、殺生丸は面倒くさげに
「説明してみろ」
と告げた。
 
 
「どうやら、この姫君は生前猩々と恋をしたらしいのです。それで、その猩々の住処たる場所に逢いに行きたいらしいのですが、どうやら場所が分からないらしく…それならば諦めて成仏するよう言い聞かせても頑固に拒みますし、もうどうすればいいのやら…」
「その猩々はどこに住んでいるのだ?」
『鳴き響む(なきとよむ)の森と言っていたわ』
口を挟んだ春花は殺生丸の一瞥にあっさりと引っ込んだ。
「鳴き響むの森か。あそこは今は頭だった者が居らぬはずだが」
「ご存じなので?」
弥勒は思わず身を乗り出す。
…だが、それ以上、殺生丸が何かを説明する気配がない。
「あの…殺殿。それで、鳴き響むの森について、他にはなにかご存じのことはおありでないので…?」
促してみると、
「知りたいのか?」
と、まるで意外なことを言われたような口振りで答える。
弥勒は我知らず泣けそうになってきた。
「…この話の流れでも、私がその場所について関心がないとお考えになりましたので?ひょっとして私をからかっておいでですか?」
「貴様をからかって何が楽しい」
言葉通り、殺生丸の顔つきには面白がっている気配もない。
「…楽しくないですよね…判っておりますから、ご存じのことを教えてください…」
意地を張る気力もなく、弥勒はそう頭を下げていた…。