◆ 暁月夜 2 ◆

 


 
鳴き響む(なきとよむ)の森。
そこは文字通り、妖怪達の鳴き声が日も夜もなく響き渡っているところから、そう呼ばれる。
人の通わぬ深山幽谷であり、当然――今現在弥勒達がいる場所より、遠く離れている。
 
 
「人が一刻と生きていられる場所ではない。何より、雲を呼ぶことも出来ぬ人の足で行き着ける場所ではないぞ」
「はああ…まったくもって、無謀な事だったのですなあ…春花姫?」
呼びかけるが、弥勒の中に入り込んだ娘は返事をしない。
「春花姫。相談事ですから、出てきてください」
『…だって、その人、睨むもの…』
おずおずと言った調子で春花が答える。
「大丈夫ですよ、ちゃんとした理由があってお呼びしてるのですから。…話の内容はお聞きになっておりましたか?」
弥勒が優しく言うと、春花は弥勒の体を使って頷いた。
『聞いたわ…あの方…東雲の君は毎夜のように私の元へ訪れてくれたから、ずっと近くにお住みなんだと思ってた。…そんな遠くにお住まいだったなんて…』
「すみませんが、東雲の君とは?その、…猩々のことで?」
途中で口を挟んだ弥勒に、春花は癇癪を起こして怒り出した。
『そうよ!東雲の君は私の背の君たる猩々の御名よ!私がそうつけたの、だってとても綺麗な金色の毛をお持ちなんですもの!まるで東雲の空のような見事な赤みのある黄金色。猩々だからって、馬鹿にしないで』
「いえ、別に馬鹿にしているわけではないのですが…」
少女の剣幕に力無く言い訳する弥勒。殺生丸はうんざりと言った様子で口を開いた。
「喚くな、小娘。貴様が気を高ぶらせるたびに、宿主の生気を吸い取っているのが判らぬのか」
またぴたりと鎮まった春花に、弥勒は胸をなで下ろす。
「…助かります。姫がお怒りになるたびに、何やら胸が縮むような気がしていたのですが…」
弥勒は自分の心臓部に手を当てしみじみと何かを考えていたようだったが、やがて顔を上げると毅然とした口調で殺生丸に申し入れた。
「お教えくださった殺殿にさらなる慈悲を賜れますよう、お願いいたします。どうか私をその森に案内していただけませんでしょうか」
「物好きな男だな」
殺生丸は僅かに呆れたようだ。
 
 
「姫はこの若さでお亡くなりになっておりながら、我が身を哀れんだり、世を恨んだり、といった事が微塵もございません。話すのはいかにその猩々と共に過ごして幸せだったか、という事のみ。生前は秘めた恋として、誰にも話すことが出来なかったのでしょう…。その心根を思いますと、哀れに存じます。せめて、自分が出来る範囲だけでも納得行くよう計らってやりたいのです」
「死霊のために己の身を削るか。酔狂なことだ」
「やはり、…案内していただけませんか?」
相変わらず感情を示さない殺生丸に、弥勒は少し意気消沈した口調で言う。だが、殺生丸の返事は意外なものだった。
「いいだろう。明朝、案内してやる」
弥勒のみならず、邪見も驚いたらしい。主の後ろで口をぱくぱくさせている。
「面白い見せ物だった。見料がわりだ」
「見せ物というには命削っておりますが…」
冗談を言ったのかと思って弥勒が返した言葉を、殺生丸は一蹴した。
「戯言をほざく暇があったら、さっさと休むがいい。体力不足でついて来れぬようなら、捨てるまでだ」
「最初に見せ物という言葉を出したのは殺殿でしょうに」
冷たい言葉に弥勒は苦笑いを浮かべる。
だが、辺りを警戒する必要なしで休めるというのは、今の弥勒にとっては実にありがたい。
「それでは。明日、捨てられぬよう、休ませていただきます」
にこりと言って横になると、弥勒はたちまちのうちにぐっすりと眠り込む。
その顔を見ながら、邪見が呆れがちに言った。
「なんと言いますか、図々しい男ですなぁ。殺生丸様、このままうっちゃってしまいませんか?」
その言葉を無視しつつも、殺生丸は小さく息を付く。
 
(なぜこの男の頼みを聞いてしまったのだろう?)
放り出す気にもなれず、殺生丸は火の側でまんじりともせずに夜明けを迎えていた。
 
◆◆
 
 
明朝、りんと邪見に見送られて双頭竜の鞍の後ろにまたがり件の森へと弥勒は旅立った。
ゆっくり眠ったつもりではあったが、大妖の身体に掴まり、肩の柔らかな毛だまりにもたれていると、なんとなくまた眠くなってくる。
弥勒は大妖の腰の前に回した錫杖をきつく握り、なんとか睡魔を追い払おうと頭をふったりもしてみたが、ふわふわと心地よく意識が飛びかける。かくんと力が抜けかけた背後の男に気づき、殺生丸は忌々しげながら一度地に降りようかと手綱を繰る。
ふと、錫杖を握る手に力が戻った。
殺生丸の背後から、控えめな少女の声がかかる。
『法師様眠っちゃったみたい。その間だけ、私がいてもかまわないよね…?』
殺生丸が振り向かずにいると、少女はそれを了解だと思ったのか、ホッと息を付く。
『あのね、お返事とかしなくていいから、私、ちょっとだけお話ししてていい?誰かに向かって話してみたかったのよ。法師様は親切に聞いてくださったけど、やっぱりひとりごと言ってるような気分になっちゃって』
背後から聞こえる声は完全に少女のもの。弥勒本人は気が付いていないだろうが、少女が身体を支配しているときは単に声が変わるだけではなく、顔つきさえ普段と変わってしまう。
ふわふわと浮ついた雰囲気と、甘えた落ち着きのない目。
犬夜叉達の中では知恵袋的位置にいるらしい男がこんな自分の顔を見たらどう思うか、――いささか意地の悪い興味がないとは殺生丸は言いきれない。
相変わらず無言の殺生丸に、弥勒の中にいる少女はふわっと声を弾ませた。
 
『あのね、私の名前は東雲の君がつけてくださったの。私、6人目の女の子で六の姫としか呼ばれたことがないっていったらね、「それならば、春の花のように愛らしいから」って仰ってくださって…きゃ』
その時のことを思い出したのか、後ろでくねくねと弥勒の身体をよじらせている少女に、殺生丸は珍しく振り向いて見てやりたいという興味を覚えた。
さぞかし笑える見物だろう――そんな程度の関心だが。
 
相槌一つ打つ気のない殺生丸に構わず、少女はなおも思い出話を続けている。
『東雲の君はね、ご自分のお姿が人と違うことを気になされて、いつも日が暮れてから迎えに着てくださって、そして夜明け前に帰っていかれるの。暁月夜を背に戻っていかれるお背をじいっと眺めていると、やがて完全に陽が昇って、空が東雲の黄金の色に染まってゆくの。…まるで東雲の君の身体の毛のような色で、私は本当に美しいと思っていたわ』
うっとりととろけるような声。
 
『東雲の君は私をいろんな処へ連れて行ってくださったわ。高い山の上にある一面の花畑や、夜に咲く花や、星空が落ちてきた程にたくさんの蛍がいる池とか。秋の夜、ススキの原でたくさんの虫の歌を聞いたときは、きっと御所の楽の音よりも素晴らしいと思った。
でも一番好きだったのは、東雲の君が柔らかい金色の毛が生えた逞しい腕でわたくしを懐に抱いてくださること。温かくて、安心できて、大好きだったの。
人と姿が違うことなど、全然関係なかった。誰よりも美しくて優しい方。
でもそれに気が付いたお父様は、私を勝手に人の妻にすることを決めておしまいになったの、妖怪と逢い引きを続ける娘は体裁が悪いから、評判になる前にって、都を離れた遠くの国司に嫁にいけと仰ったの。私、途中で逃げ出したのよ、牛車が嵐で立ち往生した隙に。…無我夢中で走っているうちに崖から落ちちゃったんだけど…』
さすがに少女の声は萎れたものになった。自分の死に際を語るのに明るかったら、それこそ性格を疑うところだが。
『私、もう一度逢いたかったの。そして、どうしてもお話ししたかったの。東雲の君は、わたくしを可愛いと仰ってくださって、ご自分は猩々だから醜いと仰ってた。そんな事はない、とても美しいってそれを伝えたかったの。誰よりも誰よりも美しくて、大好きだったって…』
それきり少女は声が詰まったように口を閉ざしてしまった。
不可思議な疑問が殺生丸の中にわき上がる。
 
人の形を取っていないそのままの妖怪に人間が好意を持つなど、あり得るのだろうか。
およそ人というのは見た目の形だけに誤魔化される、愚かな生き物。
実体がどれほどおぞましい下等妖怪でも、姿形だけ美しく整えていれば簡単に引き寄せられ、そしてその正体を知ると手のひらを返したように怯え逃げる。
それなのにこの娘は猩々の姿そのままを美しいと、そう言っている。
そんな事があり得るのだろうか?
 
ややあって背後から寝ぼけたような男の声がした。
「…春花姫は隠れてしまいましたな…」
「貴様、寝ていたのではないのか」
そう問うと、
「少しばかり意識が飛びそうになりましたが、なんとか。ですが春花姫が先に話をしに出ておられたので、遠慮しておりました」
殺生丸は呆れがちに言った。
「あの娘に体を使わせるたびに自分の体が弱ると承知の上で、ようもそのような事が出来るな」
「…姫が話し相手を欲しがっていることは判っておりました。同じ年頃のおなごである珊瑚やかごめ様と話をさせてやれればよかったのですが、…なにぶんにもおなご達に女声をだす己の姿を見られるのは、かなりの抵抗がございましてなぁ」
「私相手ならば構わぬと申すか」
「まあ、殺殿は興味本位で接せられることはないでしょうし」
「……」
興味本位になりかけた事は口に出さず、かわりに殺生丸は別なことを言う。
「貴様はおかしいとは思わんのか」
「はて、なにを…でございますか?」
「あの娘がしきりに猩々を美しいの何のとほざく事だ。貴様ら人間は、人の姿をしていない相手にも欲情できるものなのか」
「…いや、別に姫は猩々の姿に欲情したわけではないと思いますが…強いていうのならば、猩々の心根に愛情を感じたのでしょう…」
「どこが違う」
「全然違うと思いますが…殺殿は少々というか、かなり情緒に欠けておりますなあ…」
弥勒は困ったように口ごもった。
「古来より、人と人外の者の恋物語は語り継がれております。理屈ではどうにもならないのが恋心というもの…例えてよく言うではないですか【あばたもえくぼ】と。恋した相手であれば、姿形がどうであれ、すべてが愛おしくなるのですよ」
殺生丸には理解しがたいようで、押し黙った背中からむっつりしている表情が透けて見えるようで、弥勒は薄く笑った。生気が吸われて体が弱っているせいなのか、何やら気分がふわふわとしていて普段よりも感情の制御がきかなくなっている。
弥勒は竜を操る大妖の肩を覆う毛溜まりに凭れると、息を吐き出すように呟いた。
「人ならざる者に恋いこがれる胸の痛みは、この弥勒もよく知っております。だからこそ、姫の望みを叶えてやりたいと心から思うのでしょう…なに分、私の思い人たる人外のお方はつれない事極まりなく、こうして身体を添わしていても、ほんの僅かの心を向けてくれる気配もない…」
殺生丸は耳に届いたその告白に、咄嗟にふりむきかけた。
だが…。
「すみませんが殺殿…空を駆ることに酔いました…」
せっぱ詰まった口調と続くえづきに、殺生丸は舌打ちしながら息をついた。
「今地上に降りるゆえ、ここでは吐くな!」
「は、…はい。耐えます…うっぷ…」
喉を鳴らす音に、殺生丸は忌々しげに手綱を引き竜を降下させてゆく。
(さっきの言葉は酔うた上での錯乱した戯言か…)
そんな言葉に一瞬でも驚いた自分が腹立たしく感じられた。
 
 
竜の背で体調を崩した弥勒を地上へ降ろし、結局その日はそれ以上の飛翔を止め、野宿することになった。
火を挟んで石に座り憮然と横を向いている殺生丸に、弥勒は機嫌を窺うように笑いかける。
「とことんご面倒をおかけしましたなぁ。ですが、手ずから捕っていただいた雉を食し、それだけでも体力が戻ってきた気がいたします」
「別に捕ったわけではない。勝手に落ちたのだ」
「…まあ、そういう事にしておきましょう。気だけで鳥を気絶させるとは手練の技。なるほど、りんの血色が良いはずですなぁ」
「あの娘は自分の食い扶持は自分で探しておるわ」
「そうでしょうとも。ですが、気まぐれに狩りの真似事をするのも悪くはないと思いますよ」
「…とっとと寝ろ。明日中に着けぬのなら引き返す」
自分の顔を見ないで言い放つ殺生丸に、弥勒は困った顔で笑うしかない。
(ついて行けなきゃ捨てるとかなんとか言ってた気がするがなあ…でも結局つき合ってくれてるんだから)
この大妖は自分で思っている以上に情が深いのかも知れない…そんな事を考えながら、弥勒は横になる。
パチパチと爆ぜる火の向こうに見える殺生丸の横顔は、こちらに目線を向ける気配もない。
(そういや、吐き気が起こる前に何か言った気がするが…なに言ったんだっけ?ぼんやりしてて覚えてねえや…)
思い出せないまま、弥勒はぐっすりと眠り込む。
結局、無意識に口をついた弥勒の本音の告白は、どさくさに紛れて綺麗さっぱり流されてしまった。