◆ 暁月夜 3 ◆
 


 
翌朝は完調といえないまでもかなり弥勒の体調は戻っていた。細身ではあるがもともと鍛えられた体である。雲の上を高速で飛ぶ竜に乗っていても、別段気分が悪くなることもない。
「鳴き響むの森はまだ遠いのですか?」
「この先の剣山に囲まれた森だ。じきに着く」
その言葉に、弥勒の鼓動が急に早さを増す。おそらくは春花姫の期待のためだろう。
表に出ることなく黙って逸る胸を押さえているのかと思うと、娘に対していじらしいという思いが増す。
切り立った剣のような岩山をいくつか一気に飛び越す。一番高い山頂部を覆う霧を抜けると、急に濃くなった妖気が勢いよく押し寄せるような感じがした。
風の音に乗り、不気味な鳴き声が響き渡る。緊張の色を浮かべた弥勒に、殺生丸は振り向かずに言った。
「あれが鳴き響むの森だ」
 
 
◆◆
 
 
深山の霊気と無数の妖怪の放つ妖気が混ざり合い渦を巻いているような、そんな森だった。
木々の色は瑞々しいのにどす黒さまで感じる。森に近付くにつれ、透けた尾を引く森の精霊や妖怪達が、ひょいひょいと周辺を飛び回り始める。
それでも殺生丸との格の違いを感じているのか、遠巻きにするだけで攻撃してくる気配はない。
大妖は森の上をぐるりと旋回し、少し開けた場所へと竜をおろした。
地に降り立ちながら、弥勒の顔を見ずに言う。
「妖気に当てられるな。倒れても支えてはやらぬぞ」
「…はい。なんとか大丈夫です」
そこは森の中でも特殊な意味合いの地だったのか、ややあって周囲を飛び交う者達とは明らかに格の違う妖気を纏った妖怪達が集まりだした。翼を持った者や、長い黒髪に派手やかな唐衣を着た骸骨。巨大な角を持つ一つ目の鬼や、動物の首と長いかぎ爪を持った者など、地獄絵に描かれた百鬼夜行を連想させる不気味な者達ばかり。
自分の中で春花が身を竦ませたのを弥勒は感じる。
殺生丸が何の気負いもなく口を開いた。
 
「貴様等がこの森の住人か。訊ねたいことがあって来た」
ざわざわと耳障りな笑い声がわき上がる中、この中でも一目置かれているのか、修験者の装いをしたカラスの顔の妖怪が前に出た。
「お前は西国を根城にしていた化け犬の一族だな。訊ねたいこととは何だ」
「金の体毛を持つ猩々を探している。この森に住んでいると聞いた」
そう殺生丸が言った途端、住人達は爆発したように笑い出した。
 
「あれ、あの猩々だと」
「ああ、あの愚か者の猩々か」
「ほほ、今更あのものを探しに来るとは、哀れなこと」
「いや、いと愚かしき物知らず。あの猩々か」
「あの愚か者の猩々。今頃になって名を聞くとは、いと可笑しき事よ」
森全体が可笑しくてたまらないというように震えている。殺生丸は不愉快そうに眉を顰めた。
「なるほど、猩々がこの森に住んでいたことは間違いないらしい。今はどこにいる」
するとまたもや小馬鹿にしたような笑い声が上がる。
「今どこにじゃと」
「ほう、今の所在を訊ねているのか」
「ほほ、今どこじゃ、愚かなる猩々はどこにおる?」
「決まっておるわ。あの愚か者の躯は、あの立ち枯れの野にて曝されておるわ」
囃し立てるような妖怪達の言葉を身を竦ませて聞いていた春花が、突然悲鳴を上げた。
『躯ってなに?どう言うこと?あの方はお亡くなりになったの?』
こらえきれない春花の悲鳴は、つむじ風となって森の木を大きく揺らした。
『あの方は死んだの?なぜ?どうして!』
叫ぶ春花に引きずられ、弥勒は心臓が引き絞られるような激痛を覚える。
(姫、落ち着いてください、落ち着いて…)
『いやよ、あの方が死んだの?いやよ、嫌、嫌…』
身体の支配を取り戻そうと弥勒はあがくが、狂乱した春花はなにも聞いていなかった。
我を忘れた死霊の嘆きは弥勒の法力と相まって不気味な霊気を森中にまき散らしてゆく。
それを感じ、妖怪達もまた興奮して騒ぎ出す。
 
「なんじゃ、こやつ。あの猩々の色女を中に入れておるのか」
「人の身でこの地に来るとは命知らずの物よ」
「森を荒らした人間じゃ、喰ろうてやろうか」
カカカとむき出しの歯を鳴らして髑髏が笑う。森全体が揺れるほどに、妖怪達は愉快そうに騒ぎだした。春花は狂乱したまま身を捩らせ、身体をかきむしるように動く左手が、弥勒の右手の封印の数珠を邪魔くさそうに引きちぎる勢いで掴む。
(姫!それは駄目です!落ち着いて!)
春花の狂乱に意識を飲み込まれそうになりながら、弥勒は声にならない声で叫ぶ。
その弥勒の額に、舌打ちした大妖が指を当てた。
大きく弾かれたような衝撃を感じて身をのけぞらせた弥勒の腕を掴み、殺生丸は叱咤するように言う。
「意識を保て。支えてはやらぬ」
その言葉通り、次には弥勒の身体は突き放される。先ほどの大妖の行為で春花は失神でもしたのか大人しくなっており、弥勒はなんとか錫杖を支えに体勢を立て直した。
「…助かりました…死ぬかと思った…」
息を吐き出しながらの弥勒の呟きを聞くと、殺生丸は面倒くさげに言い捨てる。
「貴様ごとき脆い人間が、死霊なんぞを体の中に入れるからだ」
そうして、大妖は胸を張ると声を張り上げた。
 
「馬鹿笑いは止めて答えろ。その猩々はどこだ、なぜ死んだ」
ざわめいていた妖怪達がぴたりと静まった。
落ちつきなく木々の間を移動しながら、遠巻きに殺生丸を見やり、コソコソと住人同士で言葉を交わしあう。
「そも貴様は何の権利があって我らに命令しよるのじゃ」
「ここは我らの森じゃ。よそ者が偉そうに何を言う」
「そうじゃ、我らに命令するではない」
そうじゃ、そうじゃと合唱するように声を合わせながら、大量の妖怪達が二人の身体を飲み込もうと襲いかかってくる。殺生丸は舌打ちをして闘鬼神を抜きはなった。
「たわけた下等妖怪ども。見境も無しか」
 
殺生丸は僅かに右足をひくと、気をのせて闘鬼神を大きく横一線にふりぬいた。
剣圧が木々をなぎ倒し、迫りつつあった妖怪の群が一気に消し飛ぶ。
遠巻きにしていた妖怪達の気配が一斉に怯えたものに代わり、悲鳴を上げてその場からまろぶように散っていく。
殺生丸は逃げてゆく妖怪達の中に最初に話したカラス頭がいるのを見て取ると、一足飛びでその前に降り立った。カラス頭は空へ逃げることも忘れて細い悲鳴を上げると、尻餅を付く。
「質問に答えよ。答えねば二つに叩き割ってくれる」
感情を見せない声で告げ、カラス頭の眉間にぴたりと闘鬼神を当てる。
カラス頭はひぃと細く声を上げると、震えながら遙かな東を指差した。
「黄金の猩々はここより東にある野で死んだ…人間のおなごに恋いこがれ、付きまとうたとして、多くの武将や僧の手によって調伏されたのだ…猩々の躯は今もその野にある。春がきても夏がきても花も咲かず、虫も住まず、鳥すらもその上を飛ぶことの無くなった立ち枯れた草だけが生い茂る野に……」
 
 
殺生丸が剣をひくと、カラス頭はおぼつかない様子で羽根を羽ばたかせ、森の奥へと飛び去っていった。今、周辺には妖怪の気配はなにもなく、静寂だけがある。
弥勒は錫杖に縋りながら殺生丸へと近付く。この森へ着くまであれほどに心をときめかせていた春花は、今はもう凍り付いたように何一つ感情が動かない。
殺生丸は青ざめた顔で近付いてきた男を見ると、一瞬だけ痛そうな表情を浮かべ、すぐに消した。そして、問いかける。
「娘、聞いたか。貴様の思い人は今は東の野に躯を曝している。いくら探したところで逢うことは出来ぬ」
その言葉に弥勒は再び心臓が痛むのを感じた。現実を突きつけられた春花の痛みだ。
「選ぶがいい。このまますべてを諦めて昇華するか、それとも己の目で猩々の行き着いた果てを見定めるか」
弥勒は、凍り付いていた春花の心が痛みながら大きく揺れるのを感じる。
「……殺殿…今すぐに答えを出せと言うのはむごい言い様です…」
「永の時をそのあさましい姿のままで待ち続けたのは何のためだ。今更答えを出すことを拒むのか?春花」
春花、とそう殺生丸は名前で呼んだ。弥勒の鼓動がひときわ大きくなる。
 
春花――黄金の猩々は、自らそう名付けた娘のために死んだのだ。彼女を追って、その為に命を落とした。
『……会いに行くわ…私…』
春花の言葉と共に、弥勒は自分の目から涙があふれ出たのを感じた。
『私、会いに行く。その為にずっと待ち続けていたのだもの。どんな姿になったって、あの方は私の愛しいお方。消滅するのは、せめてもう一目会ってからと、そう決めていたのだもの…』
ほろほろと涙はあふれ続ける。
弥勒はその己の涙を指ですくった。涙がこぼれるたびに春花の中にあった心の揺れは小さくなってやがて完全に消え去ると、代わりに芯の通った強い意志だけが残る。娘が心を定めたのだ。
 
◆◆
 
 
東の野に向けて竜は再び空を駆ける。弥勒は先ほどの騒動ですっかり体力を使いきり、大妖の背にぐったりと辛うじてしがみついていた。
春花は覚悟を決めたようで今は穏やかだ。しんと静まりかえり、暁の空気のような透明感を漂わせている。弥勒は無言で手綱を操る殺生丸にしがみつきながら、不思議な物のように考えていた。
 
……あの時、なぜ殺殿は春花姫を名前で呼んだのだろう。まるで突き放すような物言いだったのに、あれはそう…まるで後押ししているかのように、名前を…。
(判らない?法師様――判らない…?)
いきなり大人びたような春花の声が胸中にだけそっと響く。
(私も判らないけど、判るような気がする……あの人はきっと、私が逢いに行く道を選ぶ事を、望んでいたの…私があの方を慕う気持ちが本当かどうか、見定めたかったのよ……)
 
 
ふわりと空気が変わったように感じた。
一面に広がる立ち枯れた草の原。まるであの世の風景のように生きている物の気配がない。
その中央に小山があり、草原を枯らす障気はそこからあふれ出ていた。
「あれが…躯ですか」
「間違いあるまい」
感慨もなく答えると、殺生丸はふわりと竜を地におろした。
弥勒は操られるように小山の前に立ち、錫杖でその表面に凝り固まった土や枯れ枝をこそげ落とそうと叩く。それは薄皮のようにあっさりと剥がれ、中から数珠や呪符に絡み捕られた、猿とも人ともつかぬ巨大な骨が現れた。骨にはいくつもの錆びた鏃が食い込み、この妖がどれだけ激しく抵抗したのか目に見えるような気がした。
(!)
弥勒はいきなり何かに突き飛ばされた感じを受けた。よろめいた背を、反射的な動作で前に出た殺生丸の手が支える。自分を支えた殺生丸の視線の先に弥勒も目を向けた。
そこには――若い女が1人立っていた。
この数日自分の中にいた娘の姿を、はじめて弥勒は目にしたのだった。
 
 
綾の唐衣で艶やかに装い、薄く向こうが透けて見える若い娘。
垂髪よりもまだ尼削ぎの方が似合いそうな、丸みを帯びた頬の幼い顔立ちだった。
娘はその幼い顔に女の表情を浮かべ、うっすらと目に涙を浮かべたまま猩々の骨を撫でさする。
 
『ごめんなさい、痛かったでしょう?私を追ってきてくださったのね……?私、この衣装を着て走ったの。この衣装をあなたにお見せしたかったの…これを着て、あなたの妻になりたかった。綺麗だよと言って欲しかったの…ごめんなさい、私があなたを殺してしまったのね』
透ける娘の手が戒めの符や数珠の上を撫でると、それらは皆役目を終えたというように灰となって散った。
それと同時に、骨だけだった猩々の身体に肉が付き、そして体毛が生える。
娘の手は猩々の全身を癒すように撫でさする。その度に猩々は生前の力強い姿を取り戻していく。
 
黙って見守る弥勒と殺生丸の前で、猩々はゆっくりと自らの意志で腕を動かした。
取り戻した瞳に柔らかい色を浮かべ、猩々は透ける少女の身体をそうっと腕に抱きしめた。
『やっと逢えたわ。ずっと待っていた…やっと逢えたのね。私の愛しいお方』
春花の声は悲嘆から歓喜へと変わる。
『ずっとずっと共に参りましょう、愛しいお方。誰よりも好きだったの。どんな立派な公達よりも武士よりも、貴方だけが大好きだったの…』
抱きしめあった猩々と春花の姿は足下から色を変えてゆく。
弥勒達が見守る前で二人の姿は一つに解け合い、そして輝くような一つの白い石へと姿を変えていた。
 
 
白い石。
弥勒がそれに触れると、済んだ鈴の音にも似た波動が感じられる。すでに障気は跡形もなく消え去り、不思議と空気の色まで変わったような気がした。
「…ようございましたな…春花姫」
弥勒は石に触れたままそう呟く。時を超えて一途に思い続けた童女の恋。
それがまさかこのような形で昇華されるとは思ってもいなかった。
弥勒はそっと石から離れると、少しばかり悔しそうに殺生丸に言う。
「正直、あなたが姫に決断を迫られたときは、なんという心ないことを仰るものかと思いました。ですが、あなたの方が私よりも姫のことを判っておられたようですね」
殺生丸は不愉快そうに顔を背けた。その表情を見ながら、弥勒は薄く笑みを零す。
 
 
冷たくて情など知らぬようなお方。でもひょっとしたら。
結びつく心の絆を見定めたいと思っていたのは、誰よりもこの方だったのかも知れない。
春花の想いをこの方は認めてくれたのだ。相手が妖であろうと、自分が死を迎えようとも慕い続けた強い心。
人は妖よりもか弱い。だが、心だけなら強くもなれるという事実は、この妖に何かの変化をもたらしてくれたのだろうか……少しくらいは影響されて欲しいと、弥勒は自分のためにこっそりと祈る。
 
(そういや、俺、本当にあの時なんて言ったんだろう。結構大事な事を言ったような気がするんだがなぁ)
空を仰いで首を捻る弥勒を殺生丸は素っ気なく急かした。
「用は済んだ、帰るぞ。来ぬのならば置いてゆく」
「ちょ、ちょっとお待ちを。本当に感傷とか情緒に乏しいお方ですなぁ」
弥勒はぶつくさ言いながら、鞍の後ろにまたがった。
知らんぷりで殺生丸が手綱を引くと、竜はたちまちのうちに空を踏み、雲の上へと舞い上がる。
ぐんぐん小さくなる白い石を眼下に見ながら、弥勒は呟いた。
 
「この立ち枯れの野も、来年の春には一面の花を咲かせるのでしょうな…あの猩々と姫が見ていたのと同じ、美しい春の花を…」
完全独り言のつもりだった。そのような先の事、この妖が気にとめるはずもないと勝手に思い込んでいたのだが――少しばかりの間をおき、殺生丸は前を見たまま小さく答える。
「そうだろうな」
その言葉に、思わず「え?」と声が出た。
殺生丸は振り向きもせず、その一言についてそれ以上なにも言う気配はない。
弥勒は僅かに呆気にとられたような顔で風になびく銀の髪を持つ大妖の後ろ姿を眺めていたが、やがて嬉しそうな満面の笑顔になった。
(お見事です、春花姫。救われたのは私の方だったのかも知れませんなぁ…)
 
野から離れてゆく弥勒達の傍らを、鳥の群がすれ違ってゆく。
朝には鳥が鳴き、夜には虫の音が響き、昼には花が咲き乱れる。
その美しい野の風景を石と化した二人は永遠に眺め続けるのだろうと、弥勒は自分でも柄でないと思うほど感傷的に考える。
そしておそらくはこの大妖もそんな二人が幸福であるのだと判ってくれている。
 
希望が生まれた――そんな予感がした。
 
 
 
 
 
 
 
春花姫のモデルはなぜかりんちゃんだったりします。
この子は殺生丸が化け犬の姿でも構わず慕うんだろうな…などと思ったもので。