◆ 紅鏡2 ◆

 


 
 
とっぷりと日が暮れたところで、主は店じまいを始めた。
りんは奥の母屋で夕食を招かれているらしく、店先には選んだ品物だけが風呂敷に包まれて置いてある。
殺生丸は、土間に置かれた床子にうんざりした様子で座っていた。
「さて、まいりましょう。その前にちょっとした下準備など」
店の主は弥勒に促されて紅をつめた小皿と手鏡を持ってきたあと、不安顔で帳場にちょこんと座った。
「どうも、化粧を施したおなごが確実に神隠しにあうらしく…」
弥勒は殺生丸に向かい合うと、小声で聞いた。
「そう言うわけで、紅をひいていただきたいのですが、使ったことはおありですか?」
「あるわけがない。何を考えている…」
そろそろ堪忍袋の緒も限界か、爆発寸前の凄みのある声である。
弥勒は店先でそわそわしている亭主を憚り、しーっと口に指を当てた。
「まあ、そうだと思っておりました。私がつけて差し上げますゆえ、鏡だけ持っていてください」
「うかれ女のように化粧をした顔など、みたくもないわ」
殺生丸は膝の上に鏡を伏せてしまう。
苦笑しながら弥勒は灯り皿を手元に引き寄せ、紅を薬指の腹で擦る。
だが小皿に薄く塗り込められている紅はかっちりと乾いており、ただ指を滑らせただけではついてこない。
弥勒は薬指を自分の口元に運びかけ、困ったように殺生丸に問うてきた。
「すみませぬが…ちょっと指を濡らしていただけませんか。別に自分で舐めてもよいのですが、
そうしますと…」
気まずい沈黙が降りる。
「…どっちも嫌ですか…そうですね…では筆でも塗らして持ってきて貰いましょう」
じいっと唇を引き結んだままの殺生丸に、さすがの弥勒も誤魔化し笑いをしながら腰を浮かせかける。
だがその時、面倒くさくなったのか、殺生丸はため息と共に弥勒の右手を掴んだ。
「…もういい。さっさと終わらせろ」
おや、と弥勒が殺生丸の次の行動を待ち受けていると、殺生丸は掴んだ男の右手を口元に持っていき――やっぱり嫌そうにその薬指の腹を唇に当て、小さく舌を指しだして舐めた。
 
桜色の唇の間から覗く桃色の舌が己の指をぺろりと――その行為に、弥勒は不意に身体の奥がぞくりとざわつくのを感じた。柔らかい唇に濡れた舌。それが自分の薬指に触れる――ただそれだけのことが、どうしてこうも淫猥に身体の奥に響くのか。
思ってもいなかった衝動に、弥勒は手を預けたまま動けずにいた。
唇を放した殺生丸が被衣の下から金の瞳で弥勒を見る。
震えを押し隠す男を不思議そうに見ているその眼差しに、弥勒はようやく我に返った。
濡れた薬指をもう一度紅の上に滑らせ、鮮やかに指に移った色を大妖の形の良い唇の上に載せていく。普段から淡い桜色の唇が、より華やいだ紅色に染まる。
紅を馴染ませるために二つ折りにした紙を口元に差し出すと、妖は黙って軽くそれをくわえた。
紙に残る唇の形。
それを目の当たりにすると、また弥勒の身体の奥がぞわりとざわめく。
 
『妖と対峙しようって前に、何を考えてるんだ、俺は』
弥勒は頭をふって登りつつあった欲情を振り払った。こんな時に色ボケするとは、なんとも未熟者だと己を叱咤する。
「では、まいりましょうか、殺殿。亭主、吉報を待ってろよ」
ことさらに明るく言うと弥勒は殺生丸を伴って店の外に出た。
 
 
日の暮れた町はずれの店の前はひやりとした風が吹くばかり。
件の橋はどういう訳かぼんやりと白く煙って見える。
すたすたと橋を渡り始める殺生丸に、弥勒は思わず
「…多少は警戒した方がよろしいのでは?」
と、声をかけた。
「警戒してどうする。妖が出てこなくては話にならぬだろうに」
「そ、それはそうですが…意外に大雑把な方ですなー」
犬夜叉に似ているかも…と内心でちろりと思ったことはおくびにも出さず、弥勒は付近を警戒する。
 
橋の中頃まで来たとき、ふっと周囲の町の気配が消え、まるで橋だけが浮いているような状態になった。程なく正面から現れたのは白い袿を纏った女。深く被った市女笠から垂れる薄布が、そよそよとなびいている。
弥勒はくらりと視界が回るのを感じて錫杖を握り直し、しっかりと気を保つように気合いを入れた。なるほど、こうやって男達は気を失ったのかと思った。
殺生丸は僅かに被衣を上げ、じいっと女を凝視している。こちらは気を乱されている気配がない。
女が霞むような声を出した。
 
「美しい紅じゃのう…美しい唇じゃ…よう似おうておる…」
女は足を動かさずにすっと殺生丸の側にたつと、羨望と妬心の混じった喘ぐような声で訴える。
「ぬしは美しいのじゃろうな…紅を引き、男の気を引き、愛されておるのじゃろう…?昼も夜もなく可愛がられ、玉の肌を朱に染めておるのじゃろうのう…妾とは違う…妾とは…」
女は急にぶるぶると震えだした。激情に絶え切れぬように薄布を握り、力任せに引きちぎる。
笠がずれて頭から滑り落ち、女の顔が露わになった。
否――女には顔がなかった。
つるりとしたのっぺらぼうの顔に、唇もなく一本の線のような口が大きく裂け、中から腐臭にもにた息がしゅうしゅうと漏れている。
「うわ…!」
驚いた弾みか弥勒の意識がはっきりとした。
 
女はそれに気が付き、今度は長い黒髪を引きちぎりながら身悶えする。その足下にぼうっと湧いてきたのは、気を失っている、おそらくは神隠しにあった女達。
「おぬし、見たな!男が見たのじゃな、妾の顔を!」
女は身悶えしながら衣装の前袷を大きく開いた。
殺生丸はその瞬間に自分の身体が女の懐に引かれ、霞んで消えていくような感覚をうける。
「く…」
女の正面から身をかわすように殺生丸が跳ぶ。
朽葉色の衣が翻り、その下から腰に剣を履いた常の姿の殺生丸が現れ、空を踏むように中空浮く。鮮やかに浮かぶ天人めいた端正な姿を目の当たりにし、女は狂乱して叫びだした。
「男が紅をひくか!そうか、それほどまでに美しければ、男であろうと紅を引くことを許されるのか!妾とは違う、妾のように引かれた紅が不憫と罵られることもなく、美しく装うことが許されるのか!おお、妬ましや、憎や…美しき容貌を持つものも、それに気を奪われる男も、憎らしや!」
女の身体が虫めいた動作でぴょんとはね、中空に留まっている殺生丸に襲いかかる。それを難なくかわし大妖は橋の欄干に降り立った。
 
己を見下ろす冴えた美貌に、女の狂乱は酷くなった。
かぎ爪を伸ばし、気を失った女達の身体を踏みつけ、口から火を噴きながら今度は弥勒に襲いかかる。
「男なぞ、おなごの表皮しか見ぬ者よ!おぞましや、おぞましや」
その声音のあまりにも浅ましい響きに、弥勒は顔を顰める。
「おぞましき者は嫉妬から他の者を貶めようとするその心根!成敗いたす!」
懐から取り出した符を女に向けて飛ばした刹那、女の口から吐き出た毒気が呪符を瞬時に梳かす。だが女が符に気を取られたその僅かな瞬間、間合いをつめた弥勒の錫杖が女の脳天を直撃した。
物が砕け散るときの鋭い音が辺りに響き渡るり、細かな破片が飛び散る衝撃に弥勒は顔を伏せた。そして――すべてが元に戻る。
気が付けば、橋の上には気を失った何人もの女達が倒れていた。
弥勒が助け起こすと女達は自力で起きあがり、狐につままれたような顔つきで自分の足で帰っていった。それを見送り安堵の息を付きながら振り返ると、再びくすんだ女衣装に戻った殺生丸が何かを拾い上げてる。
 
妖の手の中では、砕け散った鏡の欠片が涙の滴のように光っていた。
 
 
 
 
「はい、覚えておりますよ。これは私がある娼妓に売った鏡でございます。それから、大店の妾に、妻に、武士の娘に、それから…」
「ちょっと待て、亭主。お前、一個の鏡を何人に売ったんだ?」
砕けた蒔絵の鏡を手に蕩々と数え上げる古道具屋の主に、弥勒は呆れて聞き直した。
「いやー、どう言うわけですか、売った先で皆さん不都合があったとかですぐ引き取りを求めて来られるのですな。そしてまた磨いて店頭に出すと、すぐに売れるという…いや、実に稼がせてもらましたわ、はっはっは」
脳天気に笑う主に、弥勒の額に1つ2つ青筋が浮いてくる。
 
「…それだけ胡散臭い物をよくもまあ平気で売り飛ばしやがったな…どっかで祓ってもらおうとは思わなかったのか?」
「いや、それがまあ、聞いてくだされ。これを持ち込んだのはさる名家の者でしてな。なんでもこれを覗いたおなご達がみな己の顔が醜いだの、見るに絶えんだのと喚き散らすようになるので、どうにもこうにも体裁が悪くて仕方がないので、どこぞでこっそりと処分してくれと只で持ち込まれたのですわ。処分するには惜しい細工ですゆえ、なんともこう…惜しいという商魂がうずきましてな。出来心ですわ」
またしてもわっはっはと笑う主。弥勒ははり倒したくなるのを抑え、低い声音で言う。
 
「って事はだ、亭主。てめえ、最初っから曰く付きを承知で売ってたな…」
「いや、そこが商売人根性というもので」
「それはもうわかった。で、曰く(いわく)の由来は知ってるのか?」
帳場にどっしりと座っている主は悪びれもなく頷く。
上がり口に座った弥勒は、隣で顔を隠したまま黙っている殺生丸に人間の強欲さを見せつけてしまった気がして、気恥ずかしくなってきた。
 
「なんでも持ち込んだ者に寄りますと、この鏡の持ち主はその家何代か前の若君の嫁に来た姫の持ち物だったそうです。これまた名家の、有名な美人姉妹の1人だったらしいのですが…なぜかこの姫だけ、親が違うのではないか、というほどのご面相だったらしく…それでも親心でなんとか嫁ぎ先が見つかったらしいのですが…」
主はため息を付いた。
「その亭主となるべき男が、寝化粧を施した姫の顔に萎えてしまい、……どうにもならずに初夜の床を逃げ出してしまったらしいのですな。恥をかかされた姫は己の醜女ぶりを恨み、ついに自害して果ててしまったそうな…。お気の毒な話です」
「…それ聞いて祓いもせずに売るか?」
口先だけ気の毒そうな、本心ではちっとも悪びれていない主に、弥勒は脱力してきた。
 
「いえ、ですから、見た目は何ともない実に見事で高価なお道具でしたから」
「それはもういいって言うに。それでその鏡をどうしたんだ」
主はこそっと口に手を当て、弥勒に耳打ちした。
「それがですな。処分を頼んできた家に鏡の噂が聞こえたらしく、間違いなく処分したかと問われ、ばれるとまずいかと思って、たまたま戻ってきたばかりだった鏡を…」
主の言葉を聞いて、弥勒は思わず大声を出した。
「あの橋の下に捨てちまっただと?」
「ああ、お声が大きいです、法師殿…」
苦々しい顔つきで睨み据える弥勒に、主は汗を拭きながら取りなすように笑った。
「いや、ですからこの商売、信用第一ですから…」
その一言に、ぶちんと弥勒の堪忍袋が弾ける。
唸る拳に巨大なたんこぶをつくってひっくり返った主に、弥勒は言い放った。
「この、因業亭主!一生祟られてやがれ!」
 
 
 
 
深夜の人気のない通り。町の外れに向かう道を、弥勒は気疲れした顔で歩いていた。
その背には待ちくたびれて眠ってしまったりん、後ろに回した手には買い物包み(当然すべて只)。殺生丸は人気がないために被衣をおろし、小袖だけの姿で少し前を歩いている。
これで妖の人間蔑視が酷くなったのではないかと、弥勒はなんとなく気が重くなってきた。
「…あの、殺殿…本日はどうも妙なことにおつき合いさせてしまい、申し訳ありませんでした…」
詫びの言葉は聞こえているはずなのに、殺生丸は答えない。
「いや、がめついのは知っておりましたが、まさかあの親父があそこまで短慮でがめつかったとは…何ともはや…」
返事がないので独り言を言っている気分になり、弥勒は情けなさにため息を付く。
そうこうしている内に町はずれにでると、殺生丸は足を止めた。
ふわりと衣装が揺らぎ、一瞬で普段の姿に戻る。白い袂が翻る様に、弥勒は目を細めた。
 
「おなご装束もよろしいが、やはりそのお姿の方がお似合いですな」
「ふん」
ちらりと男に目を向けた後、殺生丸は空に向かい小さく手をひらめかせた。
雲が割れ、邪見が手綱を操る双頭竜が現れる。
殺生丸は弥勒を見ると素っ気なく手招いた。竜の背に眠っているりんを移せという事だろう。
胡散くさげに控えている邪見を尻目に、弥勒はりんを竜に乗せるとその横に風呂敷包みを置き、それから懐から小さな袋を取り出した。
「これは亭主からせしめた礼です。一応、若い娘用の櫛と手鏡です。りんに使わせてください」
「…どこぞの女の念がこもってるとも知れぬ古道具など、いらぬわ」
(あー…もろに悪い印象もたれちまったな…)
弥勒は舌打ちしたい気分ながら、愛想笑いを浮かべた。
 
「これは正真正銘の新品ですよ。夜逃げした店に残ってたものらしいので」
言っているうちに、なんとなく夜逃げした店の主の念がこもってるような気がしてきて、さらに弥勒は気まずくなった。
「本当に、なんでもないです、私が保証しますよ」
慌てて言い添えると、殺生丸は苦い顔つきながらなんとか納得したらしく受け取り、包みの中に入れる。
「それともう一つ…先ほどの紅ですが」
弥勒はもう一つ、小さな紙包みを懐から取り出した。
「見本で紅売りがもってきた物らしくあまり量は多くありませんが、これもいずれりんが使うでしょう。お持ち下さい」
殺生丸の眉がまたもや苦々しげに顰められる。化粧をしたことなど、記憶の向こうに放り投げたいらしい。とりあえずそれを受け取りながら、ようやく殺生丸が口を開いた。
 
「…あの鏡、貴様が引き取ったのか?」
「あ、気が付かれましたか?」
弥勒の懐には、もう一つ包みが残っていた。割れた鏡である。
「話を聞けば哀れな女の念です。顔の美醜は、己の努力だけではどうにもならない部分がございますからな。新床で辱められ、どれほどお辛かったか察してあまりある物がございます。せめてしかるべき寺にでも収め、供養して差し上げたいかと存じます」
「人の慈悲とやらか?」
「いえ、どうしても美しい目鼻立ちに目がいってしまう、馬鹿な男の1人としての罪滅ぼしでございますよ」
「くだらぬな」
にっこりとしながら言う弥勒に、殺生丸は眉を顰めたまま言い捨てた。
 
「人の容色など、冬の狂い咲きの花よりも簡単に萎れくすんでしまうもの。そのような儚き物に一喜一憂する人間の気が知れぬわ」
「それはまあ、人より長く生きる殺殿方より見れば、人の美しい時期は一瞬でございましょうが…」
弥勒は苦笑しながら頭を掻いた。そして、ふと真顔になる。
「その一瞬の美しさを物の哀れと愛おしむも良し…只一度の儚き時を己のすべてとし、その瞬間に狂うてしまいたいと願うのもまた人でございますれば…」
口ごもるように語尾を濁し、弥勒はじっと殺生丸を見つめる。
常に飄々とつかみ所のない法師の見せる、訴えるような真摯な目を受け止めきれず、殺生丸は目をそらした。
「狂いたければ勝手に狂え」
手綱を取りかけた主に、控えていた邪見は急いで近くに駆け寄り、そしてあっと驚きの声を発した。目と口を開けっ放しで何か言いかけては口をぱくぱくするだけの従僕に、殺生丸はいぶかしげになる。
ふと気が付き、弥勒は急いで懐紙を一枚取り出すと、殺生丸に差し出しながら囁いた。
「…いや、さすがに小さくても妖。邪見は目がよいのですな、…多分、紅がまだ唇に残っております」
 
月明かりだけで弥勒にはよく見えなかったのだが、邪見には主の唇が紅色に染まっているのが見えたらしい。
殺生丸はひったくるように懐紙を取ると、乱暴に唇を拭って投げ捨てた。
「…まったく、貴様のせいで余計な手間がかかったわ」
「鏡でご自分の顔をきちんとご覧にならなかった、ご自分の不注意ではございませんか」
「誰のせいでそのような羽目になったのだ!」
殺生丸は憤りながらそう言うと、今度こそ手綱を握り、竜を操って夜空に消えてしまった。
まったく後を引く気配もない、見事な立ち去りっぷりだ。
弥勒は1人それを見送りながら、詰めていた息を長く吐いた。
「あーあ…せめて…別れの一言ぐらい…って考えるだけ無駄かぁ」
殺生丸が投げ捨てた紙を拾い上げると、そこにはぬぐい取られた紅の痕がくっきりと残っている。自分の薬指で引かれた紅。
己の指を舐めた妖の濡れた舌――思い出すと、強烈な快感が弥勒の背を這い登る。
 
 
初めて見たときから強い執着を感じさせた美しい大妖。
でもそれは、おそらくは美しい芸術品などに抱く気持ちに近かったような気がする。
だが、今自分が感じているのは――。どくんと身体の奥が脈打つ。
濡れた舌が自分の指に触れたのを感じた瞬間、弥勒はこの妖が作り物でも御伽草子から抜け出た挿し絵でもない、血肉を持った生々しい存在であると自覚したのだ。
あの唇から吐き出される息は甘いのだろうか。
あの舌を吸ったら――どんな心地がするのだろう。
 
夢見るように美しい大妖。
あの大妖への望みを果たせた瞬間に時が止まったら。
どれだけ幸せなのだろう。
 
『狂いたければ勝手に狂え』
 
「…はい、狂いますとも…あなた様への想いに…私は狂うてしまうかも知れませぬ…」
夜風だけが吹き抜ける野に1人立ち、弥勒はそっと呟いていた。