◆ 幻華 ◆

 


 
そよと踊る、花びらのような一枚の葉。
柳の枝が風にしなる。
弥勒が振り向くと、1人の女。
油を塗ったように艶のある黒髪を長く流し、裾を引く白い帷子を襟元をはだけるように着こなして紅絹のしごきをだらりと結んだ、一見して遊女に見える女だ。
柳の木に添って立ち、風になびく長い髪は女の顔の上半分を隠し、僅かに見える口元は血の色の赤。ぬめる質感の肌が白粉をはたき込んだように白い。
女は唇を引き絞るようにして、にいと笑う。
髪の間から見えた一重の切れ長の目が、伏せた三日月のような弧を描く。
 
『お前、待っているのだろう?』
女は弥勒にそう囁いた。
 
『お前、待っているのだろう?』
 
その言葉の意味を問おうと、弥勒は口を開く。
途端に女の哄笑が響き渡った。
 
『お前、待っているのだろう。待って、待って、骨になるまで待つのだろう』
女の黒髪が風に踊る。柳の枝と同じ動きで。
 
『愚かな男』
そう一言残し、女の姿は消え失せた。
 
 
◆◆
 
 
ぼーっとした顔つきで弥勒は身体を起こした。
宿の破れ障子の窓から、夜が明けた直後の白っぽい朝日が射し込んでいる。
衝立の向こうでは、寄り添うように眠っている少女二人の寝息。夜中に転がったらしい七宝の足が衝立の端からはみ出ている。
そして壁際にはいつものように鉄砕牙を抱えたまま目を閉じている犬夜叉。
いつもの朝。
 
弥勒はぼんやりしたまま障子をそうっと開けた。
宿の裏手は細い川で、その川岸に一本の柳の木が立っている。風に揺れた柳の枝が夢に見た女の姿を思い出させ、弥勒はぞくりと背を振るわせた。
 
『お前、待っているのだろう?』
 
待っているのだろうか、私は――誰を?
 
 
◆◆
 
 
『いつも1人でいるのだね』
女がねっとりとした口調で問う。
 
「お前は一体誰なのだ?」
弥勒が問うと、女は口をすぼめてほほ、と笑う。
『妾(わらわ)が気になるのかえ?』
「妖に取り付かれた覚えはないのですがね」
女はまた、ほほ、と笑った。
 
『お前、愛でたであろう?あの時』
「あの時?」
胡散くさげな弥勒の顔に、女は口に手を当ててにんまりと笑う。
『あの時、お前は愛でたであろう。自分を捨てた男を待ち続けて死んだ哀れな女の墓の前で、その傍らに咲いた小さな花を愛でたであろう?哀れな女を慰めよと、そう念じたであろう?』
「お前は花の化身ですか?それとも、その哀れな女が迷い出てきたのですか?」
女は答えず、ただ気怠げな動作で弥勒を掬い上げるように見る。
 
『妾の正体など、どうでも良きこと。妾は知っている、ただ、それだけ』
「なにを知っているというのです」
弥勒の声に警戒が混じると、女はよりいっそう可笑しそうに肩を振るわせた。
 
『お前が恋をしていること。報われるはずもないのに、待っていること。そうであろう?お前は都合の良い夢を見ている。思い人が自らその身を差し出す時を、諦めながらもそうあって欲しいと願っている。待っているのだろう?お前の思い人が、お前を訪なう日を』
 
女は腕を上げた。麻の大袖がぞろりと広がる。
まっすぐに横に伸ばした女の腕は、闇の一点を指差す。
つられて指の指し示す方に目を向けた弥勒の前に、ふわりと揺れる銀の髪。
肌が透ける絹の単衣を纏っただけの殺生丸が、その白い顔にとろける媚を浮かべた笑みで弥勒に流し目を送る。男を誘う遊女そのものの表情に、弥勒は汚らわしさに唇を噛みしめた。
 
『おや、不愉快そうじゃのう?』
女の声はくっくっと笑いを含んでいる。
「当然です!幻覚を見せるにしても、質が悪い」
『幻覚じゃというか?妾が、お前を謀(たばか)るために見せたと?』
「違うというのですか?こんな…」
弥勒は悔しさに奥歯を噛みしめた。
「あの方に対する、侮辱です」
ほほ、と女は笑った。
 
『お前、そうではない、妾が見せたのではない。お前が見たのは、お前の願望。妾はお前の思い人がいかような姿形をして、いかような心根を持っているのかなど何も知らぬ。見たのはお前の望みよ。もしもお前の目にした思い人の姿が、思い人を侮辱しているというのならば、それはお前がそうさせているのじゃ』
 
「嘘だ!」
弥勒は大きく腕を払った。
「私は、あの方をこのように見てはいない」
『ほう、どう見ているのじゃ。お前は何を見たのじゃ。お前が知る思い人とはまったくかけ離れた姿を目にしたのか?ほほ、相当己を誤魔化していたと見える。答えてみよ、お前はどう見たのじゃ?』
女の声は抗えない圧力を与え、問いを拒む言葉が浮かんでこない。
『ほほ、言ってみるがいい。お前の目の前で、お前の思い人はどの様な姿を曝している?』
弥勒はひくりと体を震わせた。
いつのまにか目の前に立った殺生丸が、とろりとした動きで弥勒の頬に指を這わせる。
頬、鼻、そして唇へと指は動き、淫らな動きで何度も唇をなぞる。
弥勒がごくりと唾を飲み込むと、眼前の殺生丸は満足したように微笑む。
瞳の金色は蜂蜜のような甘い色をたたえて僅かに細められ、自分の目線より少し高い位置から見下ろしている。
 
――お前、こうしたいのであろう?
 
女の口調で、殺生丸が問う。
 
――お前、私にこうやって触れたかったのであろう?
 
殺生丸は挑発するようにゆっくりと舌で唇を舐めた。淡い色合いの唇が濡れて真紅に変わる。まるで花開いたように――。
 
――お前、私を己のものにしたいのであろう?
 
「違う!」
弥勒の叫び声に、科を作った殺生丸の姿は弾け飛んだ。
変わりに唇を一文字に引き結んだ女の姿が、闇からわき上がるように現れる。
 
『愚かな男。夢を叶えてやろうと思うたのに』
弥勒は僧衣の胸元を掴んだ。心臓の鼓動が早い。今にも胸を割って飛び出しそうで、声を出すにも努力がいる。弥勒は怒りで青ざめた顔を女に向けた。
「私はこのような夢などみてはおりません」
『お前は、その目で見た。誤魔化しても無駄じゃ』
「いいえ――いいえ、私は…」
何度か深呼吸を繰り返し、弥勒はようやく真正面から女を見返した。
「確かに私は、あの方に触れたいと願っている。だが、それはあの方があの方であるからだ」
女は顔にかかる髪を掻き上げた。
真っ白な顔の中で、目尻に墨と朱で線を入れた細い引目と赤い唇だけが目に映る。
「あの方ならぬあの方など、例え姿形は同じでも欲しいとは思わない。例え拒まれていようとも――あの方でなければ、このように思い煩おうなどと思わない」
 
『お前、泣いていたくせに。女の墓に手を合わせながら、泣いていたくせに。心の中で、思いが叶わなかった女と自分を重ね合わせ、寂しさと悲しさに泣いていたくせに』
弥勒を蔑むように女が吐き捨てる。
「その通りです、――私は寂しさを感じている――だが」
宣言するかのようにきっぱりした口調で言う。
「偽物などいりませぬ」
『いらぬというのか?』
「いりません。姿形だけが同じでも、中身が違えばそれは、思い人とは全くの偽物!」
女は口元に手を当てると、背をのけぞらせて笑った。
大きく激しい哄笑が渦巻き、弥勒の回りを幾多もの笑う女が取り囲む。
 
『男よ、教えてあげよう、本物だろうと偽物だろうと、どれほどの差があるというのじゃ。その様な青臭い恋情など、いずれは消える。拘るだけ無駄じゃ』
 
反響する声が幾重にも弥勒に絡みつく。
『意地を張って手に入る者を拒むのか?。よせよせ、無駄じゃ――欲しければ奪え、心も体も命も。すべて自分の物にして、そして共に消えよ。それこそが、恋の執着の行き着くところ――生ある者の心は移ろうもの。当てにならぬ恋心など求めるな、そなたの欲しいものを妾が与えてやろうと、そう申してやっているのじゃぞ』
 
「当てになるもならぬも、思いが壊れて泣くは我が身のみ。お前にどうこういわれる筋合いはありませんね」
弥勒は毅然と言うと錫杖を前にかざした。
女が笑う。
 
『ほう、法師よ。妾を成敗するか?』
「乱暴はしたくありませんでしたがね。お前はどうやら質が悪すぎる。人の心を弄ぶやり口は、見過ごせませんな」
 
女はまた、ほほ、と笑うと、自分から弥勒に近付いた。
すぅと手を伸ばし、錫杖を握る弥勒の手に自分の手を重ねる。否、――弥勒に触れた女の手は、弥勒の身体を突き抜けた。
目を見開く弥勒の眼前に迫った女は、にい、と口元と目尻をつり上げる。
細い一重の下から、黄色い獣の目が弥勒を射る。
女の身体そのものが、弥勒の中を通って背後に抜けた。
急いで振り返る弥勒に女は袂で口を覆うと、楽しげに声を転がす。
 
『無駄じゃ、法師。妾を成敗することなどできぬよ。ほら、見るがいい』
 
そこかしこの空間から蹲っていた女の身体が立ち上がる。
同じように髪を長く下ろし、白く底光りする長い項を見せつけるように着物の襟を開き、肩を落として袂を口に当てる。
 
ほほ、と女達は笑った。
『妾達は、女が男のために流した涙の化身。男にはけして消滅せしめられぬ者』
 
女達は笑う。袂を翻し、踊るように弥勒の回りを取り囲む。
『お前のために流された涙もあろうの』
 
女の口がいくつか同時に動く。そして、まったく同じ言葉を、僅かに調子の違う声で語る。
『母や祖母や姉や妹はおらぬか?幼なじみの娘はおらぬか?お前の後を追って流した娘の涙もあるのではないか?』
 
一歩後ずさった弥勒の顔を、背後から圧し包むように近付いた女が首を伸ばしてのぞきこむ。
『お前にはどうやっても勝てぬよ。男にはどうあっても勝てぬ。こぼれた女の涙は、男が意地のために流した血よりも多い。地にたっぷりと染みこみ、いつでも見ているのだ、男の身勝手さを』
 
女達が一斉に笑う。
 
『お前は慈悲を拒んだ。法師よ、お前は1人朽ちていくがいいさ』
するりと背を向けた女の姿が、闇にとけ込んで消える。
 
『哀れな法師。お前の望みは、叶わぬよ』
花が散るように女達の姿が消える。笑いながらの、呪いの言葉だけ残して。
 
1人取り残された弥勒は、錫杖を握る手に力を込め、己に言い聞かせるように呟く。
「偽物の慈悲に縋るほど、落ちぶれてはおりませぬよ」
目を上げた先に、朧気な蛍に似た柔らかい光がぽつりと灯る。
 
そこに浮かび上がる白い姿。氷にも似た冷たい表情に無機質に光る瞳。
優しさの欠片も見えない面差しを持つ妖に、弥勒はいっそ清々しささえ感じて小さく息を零した。
 
「あなただから、触れたいのです」
 
殺生丸の表情は変わらない。弥勒は泣き出しそうな笑顔を作る。
 
「苦しむのなら、あなたのためがいい」
 
つい、と背を向けた妖を呼び止めるように、弥勒は手を伸ばした。
その手に熱い火花が触れた。
 
◆◆
 
 
パチパチと爆ぜる薪の火の粉に、弥勒は伸ばした手を引っ込める。
あたりは野営に選んだ丘の上。背後に大岩が壁のようにあり、焚き火を中心に仲間達が休んでいるのが見えた。
 
――夢か?いや、幻覚か…
 
弥勒は薪の側に纏めてあった木切れを取ると、小さくなりかけていた火の中に放り込んだ。
ぱあっと広がった炎の向こう、弥勒のちょうど正面に、鉄砕牙を抱いて俯いている犬夜叉の姿が見える。眠っているのかどうか、顔を上げる気配はない。
炎に照り映える銀髪がこの場にいない人を思い起こさせ、弥勒は少し切なげな息を付いた。
岩に寄りかかろうかと少し座所をずらしたところで、弥勒は大岩に半分潰されるようになって咲いている小さな萩の花に気が付いた。
 
(…そういえば、あの墓の横に咲いていたのも、これくらいの小さな萩だったな)
 
か細くて短い枝に、薄紫の花をみすぼらしい程まだらに咲かせていた。
あれも、女達の涙を吸って咲いた花なんだろうか――そんな事を考えていると笑う女達の声が耳に蘇り弥勒は振り払うように頭をふった。
顔を上げて、中天に上った月を見つめる。青白い月が妙に眩しく感じられ、弥勒は顔を上げたまま目だけを閉じた。
 
夜明けはまだ遠い。