◆ 行きつ戻りつ 前 ◆

 
戦場を彷徨う女がいる。
怒るでもなく、祟るでもなく、ただ一つのものを探しながら。
己が愛するべき子供の姿を求め彷徨う女。
母の情念から生まれた妖怪、無女。

空っぽな心に子供を求める本能だけで蠢く女の姿は醜悪だと思った。
「お前は永遠に探すだけなのか」
侮蔑を込めて問う殺生丸に、女は応える。
「わたくしは子を愛おしむためだけに存在いたします」
ただそれだけのために妖怪となり永遠に彷徨い続ける女の情念は、殺生丸にはとうてい理解できないものだった。


◆◆


「女の妖怪が出る」

その噂を聞いたのはある小さな城下町。
立ち寄った茶屋で一休みしていると、初老の行商人が小女相手に吹聴していた。
隣国へ抜ける山道を夜通ると、白い帷子を着た女が手招きをするのだという。
そして言う。
『子供が飢えております、どうぞ、何か食べるものを分けてください』
豆の一粒でも渡してやると女は礼を言ってすっと消える。
何もないと言って追い払おうとすると…。

「女の白い顔が突然鬼になって、『ではお前を喰ってやろう!』と…」
「きゃ!」
行商人の男の台詞があまりにも真に迫っていて、かごめは思わず声を上げた。
「喰われちゃったのに、なんでそんな話がつたわってんの?」
けろりとした珊瑚に男は、はは、と笑い声を上げる。
「そりゃ、お嬢ちゃん、決まってるだろう。その旅人は二人連れで、1人が喰われて、1人は食い物を分けてあげたからさ」
「成る程」
「珊瑚ちゃん、冷静だね〜〜」
ぶるっと震えるかごめに、弥勒はくすくすと笑う。
「子供を育てるために食べ物をせがむ母の妖怪というのは、良くある話ですよ」
「よくある話っつったって、人喰ってんだろ?」
「まあ、良くある話だけにおもしろ半分に話が大きくなってると言うことも、往々にしてありますので。いざ妖怪退治、といさんで出かけたらただの美人局だったという話もございます」
犬夜叉と弥勒の会話を聞いて、男は笑う。
「さすがお坊様はよく知ってるねえ、確かにこいつは又聞きの又聞きの又聞きだから、どこまで本当かわかったもんじゃない」
あっさりと認めた後、男は立ち上がり弥勒に軽く会釈をした。

「まあ、本当でも嘘でも夜の山道は嫌なもんですので、わしは日が暮れないうちに参ります。御坊様がその女にでっくわしたら、供養でもしてやってください」
「そうですね」
男の別れ際の言葉に、弥勒は気安く頷いた。
その時はそれで終わったのだったが。


◆◆


たまたま通りかかっただけの村で、犬夜叉達はいきなり殺気立った村の男達に取り囲まれた。男達の手にはそれぞれ鍬や鎌が握られている。
「何しやがんでぇ」
背後にかごめを庇い、犬夜叉がドスの利いた声で村人達を睨め付ける。
恰好だけは威勢がいいものの、気圧されて顔を見合わせながら後退る男達の怯えた顔に、弥勒は「まあまあ」と宥めに入った。
「私達はたまたま通りかかっただけです。お前達にその様に敵意を持たれる覚えはないのですが?」
丁寧ながらきっぱりとした口調の弥勒に、男達はまた気弱げに顔を見合わせる。
「何か困ったことが起きたというのならば、相談に乗るのもやぶさかではありませんが、問答無用で我らを打ち据えようと言うのであればこちらにも考えがあります。言葉と拳骨と、どちらがお望みですか?」
弥勒の言葉にあわせ、いかにも人外の風体を持つ犬夜叉が拳にやる気満々で息を吹きかける。
男達は当初の勢いはどこへやらで完璧に逃げ腰になっていた。
そこへ、ようやく到着したらしい名主らしき老人が前に進み出る。
弥勒の言葉に縋ろう、という気になったらしい。
老人は一行を屋敷に案内すると、腰低く話し始めた。

「子攫い?」
犬夜叉が頓狂な声を出した。
「はい、今年に入ってもう3人もの赤子が行方不明になってしまいました。つい数日前には私の初孫が…」
老人の言葉に、その家の嫁らしい若い女が袂を目に当てて泣き伏してしまう。
「孫が行方不明になった夜、畑を見回っていた若い者が蛍池の方にむかって空を飛ぶ妖らしき若い女を見たと言います。それで皆様方を見たとき、つい…」
一行はてんでに顔を見合わせた後、犬夜叉の顔に注目する。
「なんで俺を見るんだよ!」
「はあ…ですから、長い髪の妖が来た、と言うことで、ひょっとしたらと思いまして…」
老人の言葉に、犬夜叉はついに腹に据えかねたように怒鳴った。
「髪が長いくらいで勝手に女にすんな!!」
その剣幕に老人はもちろん、濡れ縁の外に立っていた男達も一斉に頭を地にすりつけた。



「機嫌を直してよ、犬夜叉」
腕組みをしてむくれている犬夜叉に、かごめがご機嫌取りするように寄り添っている。
それを横目で見ながら、弥勒は老人にさらに詳しい話を聞いていた。
「蛍池というのは、この山の中腹にある池のことです。何年か前までは村があったらしいのですが夜盗に襲われて全滅したとかで、それ以来…その出ると言うことで…」
老人はおっかなびっくりに声を低くすると、両手を胸の前でたらして見せた。
要するに村人の幽霊が出るので、恐ろしくて誰も様子を見に行く事が出来ない、という意味なのだろう。
「それにあそこは縁起が悪くて……」
老人の息子――つまり攫われた赤ん坊の父親だという男が、言い訳するような顔つきで言う。
「何年か前にこの辺りに質の悪い盗賊が逃げ込んだのを、守護代の侍達があの池の畔で成敗したらしいのですが、その時盗賊は旅の孕み女を人質に取ったあげくに殺したとかで、その恨みの妖怪も出るらしいと言うものですから…」
「つまり、我が子がその妖怪に攫われたらしいと判っていても、恐ろしくて自分達ではいけない、という事なんだね」
珊瑚が嫌悪感を露わにずばりと言う。村の男達は後ろめたそうな顔つきを見合わせた。
苦笑いの顔で弥勒は取りなすように言った。

「致し方ありません。誰もが得体の知れない妖怪に立ち向かえるとは限りません。だからこそ、あなた達のような専門家の力が必要とされたのでしょう?」
「そりゃそうだけどさ」
――自分の子供の危機に我が身の安全ばかり気にしてる親の姿なんて、見苦しいだけだよ――。
こっそりと耳元で囁かれた珊瑚の言葉に、弥勒はまた苦笑いで頷く。
「とりあえず、その蛍池とやらに様子を見に行ってみますよ」
「行くのかよ」
不満げな犬夜叉に、弥勒は薄く笑いながら頷いてみせる。
「とりあえず、様子を見に行くだけですから。妖怪の仕業でなくただの人さらいだったとしたら、私達の出る幕はありませんからね。そうでしょう?」
確認するように名主を見ると、名主親子は戸惑った顔を見合わせた。
「人間相手だった場合は侍に助けを請うなり、先程のように勇ましく武器を持つなりしてください。いいですね」
珍しく厳しい口調で言い捨てると、弥勒は1人教えられた山中へと足を踏み入れていった。

◆◆


突然の水の気配に殺生丸は僅かに警戒の素振りを見せた。
傍らではりんと邪見が火を熾し、捕ってきたばかりの魚や木の実を焼いている。
「殺生丸さまー、どうしたの?」
顔を上げて空を睨む殺生丸にりんが無邪気な声を上げるが、返事をしない。
不快な気配だった。
人とも妖怪とも違う。かといって不浄という程でもなければ、清浄という程でもない。
正体を断定するには淡すぎる気配。
だが捨て置く事も躊躇われるような微妙な力加減を持った気配だった。
「あ?」
りんが妙な声を上げた。
すぐ傍らにいたはずの少女の匂いが急に途絶え、殺生丸は眉を険しくする。
側仕えの小妖も少女も気配ごと姿が消えてしまった。
それどころか足下から立ちこめた靄はあっという間に視界を白く染め上げ、すべての景色を隠してしまっている。

『突然申し訳ございません。ですが、こうでもしなければお話を聞いては頂けないと思いましたので…』
掠れた吐息のような声が殺生丸の耳に届く。
ようやく絞り出した、と言わんばかりの力のない声だ。
殺生丸が感じた不快な気配の主、透けるような容貌の若い女が畏まるようにして立っていた。

「貴様、何者だ」
横柄に問う殺生丸の声に女は竦むような仕草をするが、目の前の大妖の力を判っているのかどうかも怪しい茫洋とした表情で口元に手を当てる。
『お力を貸していただきたいのです』
「貴様ごとき得体の知れぬものに貸す手など、持ち合わせてはおらぬ」
とりつく島のない殺生丸の言葉に、女は首を傾げて考え込むそぶりをする。
『……それではお連れ様は永遠に戻りませぬが』
「ほう、私を威す気か?」
小馬鹿にしたように言われ、女はまた考える様子になった。
『威すつもりはありません…私にそれ程の力はありませんし…』
反対側に首を傾げ、女は上目遣いで殺生丸を見る。
白い帷子を纏ったいかにもありふれた村の娘、といった風体の女だが生者でないことは確かだった。

女は困ったように口元に手を当てたまま、機嫌をうかがう口調で言う。
『ですが……あなた様が気配を探れないようにするくらいでしたら、私にも出来ましょう…お連れ様方に危害を加えることは出来ませんが……このまま行方知れずにすることは可能かも知れません』
「……ほう…」
女の言い分に、殺生丸の瞳が剣呑な光を帯びる。
女は一歩後ろに下がると、また困ったような声で言う。
『お願いを聞いていただけましたら、お連れ様方はすぐに姿を現します。あなた様のお力でしたら、さほどの労力ではないと感じました…聞いては頂けませんか?』
無言のままの殺生丸に女は重ねて言う。仕草ほどこちらに怯えていないのは明らかだ。
女の目は静かに揺れることなく、殺生丸をじいっと見つめている。
「願いとは何だ」
その問いに女はあえかに笑った。儚げでどこか殺生丸の癇に障るような笑顔だった。
どこかで見たような気がする笑い方――どこだったか?

『ある物を壊していただきたいのです』
「ある物とは?」
『一本の刀でございます。血で錆び付き怨念を呼ぶ不浄な刀――わたくしでは近付くことが出来ませぬゆえ、壊してくださる方を探しておりました』
「その程度のこと、通りすがりの人間でも出来よう」
『いいえ、人ではいけません。それは人が行き着けぬ場所、深い水底にございます』
反応を見せない殺生丸に女は再び首を傾げ、媚びる仕草をした。
『人が人を害し、そして投げ捨てた刀でございます。人に近すぎるのです。人ではないお方でなければ、これを壊すことは出来ません』
「ふん」
女の追従めいた言い方に、殺生丸の目が冷ややかになる。
『わたくしがお気に召さないのであれば、滅してくださっても結構です。ですが、願いだけ聞き届けていただきとうございます』
頑固な殺生丸に女は言葉を尽くすのが面倒になったのだろうか。それとも今までの女女した態度全てが演技だったのか、女は乾いた声で抑揚無く告げた。
「ふん」
もう一度言ってから、殺生丸は薄く笑みを履いた。変に媚を向けられるよりは、その愛想のない態度の方がむしろ心地よい。
「良いだろう、その場はどこだ」
『案内(あない)いたします』
「私を謀ったのであれば、その瞬間、貴様を滅してくれる」
『どうぞお気のすむように。その時は如何様にもなさってくださいませ』
物慣れた動じない口調は、先程までの女の印象を一変させていた。

乾いた女だ――。
様々な害意に出会い、怯えることを忘れてしまった女なのだと思った。
そう考えてから、殺生丸は女の透ける後ろ姿を見ながら苦笑する。
女は生者ではない。
怖れるものなど、ある筈がない。


 
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