◆ 行きつ戻りつ 中 ◆


 

教えられた山道を登る途中で、弥勒は小さな塚を見つけた。
どうやら、この先にかつてあったという村の人々を祀った塚らしいが半分崩れかけている所を見ると、里の住人はろくすっぽ手入れも供養もしてないのだろう。
(仕方ないですねぇ……関わりになりたくないってとこですか)
そう半分割り切った気分で弥勒は線香を立てて手をあわせ、さらに山道を登っていく。
弥勒は僅かに眉を顰めた。
妙に気を逆なでするような、嫌な気配が辺りに漂っている。
立ち枯れかけた木が目立ちだし、成る程、普通の里人なら近付きたくないと思わせるような不気味さを感じる。
枯れた草を踏み、雑木の林を抜けて弥勒の目の前にかなり広く、入り組んだ形の池が広がった。
邪気が靄のように池全体を覆い、視界をかなり悪くしている。
これは殺された村人達の怨念なのだろうかと、弥勒は緊張を解かないまま周辺を歩き回った。
靄の向こうからかすかな頼りない赤ん坊の鳴き声が聞こえる。
弥勒は一つ息を飲み込んでそちらへと足を向けた。
赤ん坊の泣き声に、柔らかな子守歌を歌う女の声が重なった。


◆◆



濃い邪気を帯びた水。
ねっとりとまとわりつくような害意に、殺生丸は不快を露わにした。
『不快そうでございますね』
「当たり前だ」
女は首を傾げ、唇だけで笑みを形作る。なにもかも判っていると言いたげで、癇に障る笑い方だ。
『あなた様は不思議なお方……強大な妖気を放ちながら、邪気とはまるで無縁のような清浄さをも持ち合わせていらっしゃる……。混沌とした人間の穢れは成る程不快でございましょう。ですが、これが人間の業というものです…誰もが持ち合わせている故に、人にはけして浄化できないのです…』
「人の業などどうでもいい」
聞く耳を持たぬ殺生丸に、また女は微笑む。

『……そう言いきるお方だからこそ、穢れにも捕らわれぬのでしょうね。では、参りましょう……この水底、邪気の中心へ』
ごぽっと耳元で水がふくれあがり、弾けるような音がする。
女に導かれるまま、殺生丸は粘液めいた感触の水の底へと身体を運んでいった。


◆◆



赤ん坊をあやす歌声。その微かで悲しげな響きの歌声のする方へ、弥勒は辺りに気を配りながら歩いていく。
靄の向こうに佇んでいたのは赤ん坊を抱いた若い女。
旅装束なのか小袖の上に袴をはき、髪の先は布で包んである。
村の女にも見えず、弥勒は静かに声を掛けた。

「赤子が泣いておりますな」
女は顔を上げた。美しいとは言いがたいが、ふっくらとしたまろやかな顔立ちだ。
だが顔色は白を通り越して青くなり、どろりとした目は何かを映しているようには見えない。
紛れもなく幽鬼の類だ。ただ腕の中で泣いている赤子は間違いなく生者。里で攫われた赤ん坊に間違いないだろうと思われた。
「赤子は腹を空かせているのではありませんか?」
あくまで丁寧に、優しい口調で話しかける弥勒に、女は顔を歪めた。
『乳が出ないのです』
「里に下りて貰い乳をしては如何でしょう。里には子を産んだばかりの若女房がおりました。子が攫われて飲む子がおらぬと、あふれる乳を持てあましております」
『この子の私の子です』
女は首を振る。弥勒は女を刺激しないように、丁寧に言葉を選んだ。

「違うとは申しません。ですが乳が出なくては赤子は育つことが出来ません。よろしければ私が赤子を預かりましょう」
『嫌です…だって私の子ですから』
女は泣く赤ん坊をしっかりと抱きしめると、怯えた風で二、三歩後ろに下がる。
「赤ん坊が死にますよ。母ならば、赤ん坊の命を第一に考えるものです」
弥勒は声を張り、叱りつけるように言う。
びくりと体を震わせた女は、赤ん坊と弥勒の顔を交互に見た。
『この子が死ぬのは嫌です…』
「でしたら、お渡しなさい。けしてその子のためにならないような事はいたしません」
弥勒はそう言ってから慎重に女の様子を見る。
女は震えながら赤ん坊を抱きしめ、そしてちらちらと弥勒を見る。弥勒の言った言葉は理解しているらしい様子に、怯えさせないように気配りしながらゆっくりと手を差しだした。
「……さあ、赤子を渡しなさい」
女は躊躇いながら弥勒と赤ん坊を順に見る。それから震えながら赤ん坊を弥勒に渡そうと腕を上げかけた瞬間、不意に女の首が前に倒れ、そしてゼンマイ仕掛けの勢いで頭が跳ね上がった。その姿が別の男の物へと変わっていた。先程までの女と違い、明らかに攻撃的な怨念に満ちた形相に弥勒は大きく後ろへ跳んで距離をとる。

「お前がさっきの女性を縛り付けているのか?」
弥勒は顔を顰めた。
新たに現れた男は、先程の女と違い言葉を聞こうとする様子が見えない。
ぐるぐると喉奥をならし、歯をきしませながら獣じみた唸り声をあげる。
「どうやら、お前には説得は聞かないようです。ならば――」
符を取り出そうと弥勒が懐に手を入れたその一瞬、男は大きく口を開け、咆吼を上げた。
そこから大量の邪霊があふれだし、弥勒に襲いかかってくる。
咄嗟に弥勒は結界を張った。
周辺一帯が穢れた邪気に満たされ、弥勒は念を凝らしながら歯がみする。
「ちっ、…とんだ失態だ。やっぱ、女相手に仏心出したのが失敗か?」
さっさと封じておけば良かったなぁと状況を笑い飛ばすように愚痴ってから、弥勒は邪気の中心の男を睨み付けた。
どうする?


◆◆



底に近付くにつれ、不快な『穢れ』も強くなっていく。
殺生丸の背後に続く女が、問われもせぬのに密やかに語り始めた。

『かつてこの一帯を荒らし回っていた盗賊の一団がおりました』

腐泥が水をどす黒い色に濁らせ、眼前に流れ出てきた魚の死骸を殺生丸は忌々しげな表情で避けた。

『その盗賊の頭領は、この近在を収める土豪の三男でございました。父の権力を盾に配下の若い侍を率いては我が物顔に村々を荒らし回り、泣き寝入りを強いられた村人達は星の数ほどもおりました』

水はでたらめに渦を作り、底に沈んでいた倒木の根が浮かび上がる。
視界が利かず、鼻も利かない水中で、殺生丸は無言で邪魔な漂流物を粉砕しながらさらに深みへと潜っていった。

『ですが、あまりの暴虐に耐えかねた者達がついに領主に訴えでました。盗賊の正体を知らない主君に討伐を命じられた土豪は、息子に二度と盗賊行為を働かない、という念書を書かせ、それと引き替えにある一つの命令を下しました。すなわち、息子の身代わりとなる首を用意せよ、と』

殺生丸はちらりと後ろを見る。殺生丸の周囲は女が作る薄い膜に包まれていて、穢れた水が彼自身を濡らすことはない。
女がそこにいる事は判るが、濁った水に阻まれて姿は見えない。

『その頃、この池の畔にある善良な行商人の夫婦が通りかかりました。妻は身ごもっており、故郷で子を産むために里へ帰る途中でした。よそ者であり、誰も身元を知らない夫婦は身代わりとして申し分なく、夫は盗賊の頭として首を切られ、そして妻も口封じのためにと斬り殺されてしまったのです』

肌が粟立つような感覚が押し寄せてくる。
巨大な生きものの呼吸音じみた音と共に、いくつもの気泡が視界を覆うほどに水底からわき上がる。

『自分の身代わりになんの関わりもない男の首を跳ね、そして妻までも無惨に殺した土豪の息子は、血にまみれて刃こぼれした己の刀をこの池に投げ捨てました。無実の者の血に穢れた刀はやがて水中で錆び、清らかだった池を穢し、その刀にまとわりついた男の怨念を強め、そしてついには、かつてこの池の周辺に暮らし、夜盗に襲われ皆殺しにされた村人達の無念の怨念まで引き寄せ、池を邪気の塊へと変えてしまいました』

濁った水が何かに切り裂かれるように割れた。
その中心には強い邪気に禍々しい光を放つ錆び付いた一振りの刀。異様な程の大量の死骸が周辺に積もり、その中には人骨と乏しき物もある。
刀は胸が悪くなるような色合いに明滅を繰り返し、その度に煙のような邪気を水中に放っている。

『私はこれ以上近付くことが出来ません。どうかあれを壊してくださいませ』

「ふん」
背後の女がその場に留まる気配に、殺生丸は剣を抜いた。
そこから放たれる純粋な邪気に、女は小さく声を漏らして顔を逸らす。
殺生丸は水中を穢す人間の怨念と腐臭の入り交じった邪気の中に突っ込んでいった。


◆◆



中心の男の顔が険しさをまし、耳が痛くなるような甲高い叫び声をあげた。
結界がまき散らされた邪気と雑霊に押され、弥勒は錫杖を握る手に力を込め、さらに念に集中する。
凄まじい怨念に鳥肌が立つ。
「ち…何に怒ってんだか知らねーが、自分一人哀れんで八つ当たりしてんじゃねーぞ!」
弥勒は思わずそう怒鳴った。
感じるのは生きている人間に対する憎悪。どんな死に方をしたのか、まるで幸せに生きている人間が許せないと言わんばかりの怒りに、弥勒は腹立たしくなってくる。
「てめーな!自分だけが可哀想だと思ってんのか?ふざけんな!さっきの母親はどうした!泣いてるじゃねーか!怒ってる男の隣で泣きやむ女なんていねーぞ!わかってんのか、この野郎!」
怒鳴ったところで聞く耳を持たないのは判っていた。この男の魂はすでに説得云々ですむような状態ではない。悪霊化していると言ってもいい。
符の一枚二枚でどうにかできるとも思えない、それ程の強力な悪意だ。
「……ほったらかしにして逃げるか?これは俺の専門じゃねーな…」
弥勒は舌打ちしながらそう考える。だが逃げるにしても結界を解いた瞬間にこの大量の念に飲み込まれ、押しつぶされるのは目に見えている。それに――。
視界をふさぐ濃い邪気の向こうから聞こえるか細い赤子の声。
今自分が逃げたら、間違いなくあの赤ん坊は死ぬ。逃げるとしたら、あの赤ん坊も一緒にかっさらって行かなくてはいけない。
一瞬でいい。あの邪気を祓い、結界を解き、赤ん坊を掴んで逃げるための、隙が欲しい。
弥勒は表情を険しくすると念を凝らす。
好機はきっと来る。


◆◆



殺生丸が翳す闘鬼神に恐れを成したのか、邪念の塊達は悲鳴を上げながら左右に散っていく。

くだらない――殺生丸は冷笑した。
妖怪の持つ邪気に比べ、人間が放つ邪気は混沌としている。
憎しみ、怒りだけではない。悲しみ、怖れ、迷い、時には特定の対象にだけ向けられた感情――恋情や執着なども交じっている。
妖怪の放つ邪気の大元は『歓喜』。
血を流すこと、敵を引き裂くこと、それを望み喜ぶ妖怪の本能に基づいた邪気は迷いがない。
人はその迷いのなさにすら怯え、あっさりと道を明け渡していく。

「これしきのことに怯えるのであれば、さっさと散るがいい!目障りだ!我が前より消えよ!」
闘鬼神が強い光を放つ。
それに吹き飛ばされて大量の邪気が散っていく。
(惑い漂うだけの念など、意味がない)
再び冷笑する殺生丸の眼前に、邪気の大元の刀が姿を現す。
そこに宿る念に殺生丸は僅かに眉を潜めた。

 
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