◆ 行きつ戻りつ 後◆


 

(……ほう…人でありながら、鬼と化していたか)
そこにはもう迷いはなかった。生きている物全てに対する不満、憎しみ、鬱屈は、散らばっていった死者の念にまで怒り、そして引き寄せる。
その怒りをぶつける相手が誰であろうと関係ない。刀に宿る邪気は、ただひたすら目の前の存在を滅ぼすことだけを欲している。
それはある意味心地よいほどだった。
「だが、この私に敵対するのであれば、容赦はしない。消えよ」
殺生丸は唇の端を歪め、挑発するように笑う。
『刀』はその大妖の姿を見た。
強い気を放ち、傲慢に他者を見下ろす生まれながらの強者たる大妖。
『刀』はその存在に強い怒りを覚えた。
弱い者を雑草のように踏みつけ、そこに痛みや悲しみといった感情がある事すら知らない存在を憎悪した。 『刀』は散っていた邪念を再び引き寄せ始ると、細い無数の針のような刃にして一気に噴出させた。その一つ一つに暗い念がまとわりつき、どす黒い障気を感じさせる。
殺生丸は薄く笑った。
『刀』のぶつけてくる念が、まるで耳元で叫ばれているようにはっきりと言葉として聞こえてきたからだ。
「私が許せぬか。存在そのものが許せぬと申すか。『強き者』『迷いを持たぬ者』がそれほど迄に憎く、そして羨ましいか。惑うことしか知らぬ弱き者の足掻きを聞く耳持たぬ事が、それほど迄に罪だというのか」
殺生丸は笑いながら剣を握り直す。
いっそ慈悲深くすら見えるその笑みは、優雅に美しい。
大地に生きる人の苦悩を知らない、天人のように。
『刀』の憤りを感じ、殺生丸は然も有りと思う。

妖には人の様な混乱はない。
なぜなら、彼等は生まれながらにして己がどの様な存在なのか知っている。
鳥が飛ぶことを知っているように、魚が泳ぐことを知っているように、妖というのは己に出来ることを最初から熟知している。
人のように無駄な足掻きをすることがない。
そして、変わることも――。
殺生丸はそう考えて不快気な顔になった。

人間という生き物のなんという不安定なこと。
地を這いずっていればいいものを、時に妖を凌駕する力を持つ者がいる。
妖と通じる者がいる。
1人の人間でさえ、成長過程で鍛えられて別人のように変わることもある。
同じ生き物でありながら、なんという多様性を見せることか。
妖にはその様なことはない。他の妖怪と合体し、別の存在に変わることがあっても、そのままで本質が変わることはない。
もしもあったとすれば、――人ならば成長、進歩と呼ばれることも、妖にとっては「変質」。
そして妖が変質する過程には、大抵は人間が関わってくる。
人と通じ変質した妖の脆いこと。半妖の親となった妖は大抵が長生きすることはない。
妖が変わるという事は、存在自体が曖昧希薄になるようなものだ。他者の心の内に想いを馳せるようになっては、以前と変わらぬ冷酷非情さを維持することは到底出来ない。
ピシリと耳元で何かが弾ける音。
殺生丸の尖った耳の端が僅かに切れ、そこから細く血の糸がひく。
自らの血の臭いに殺生丸は、自分が一瞬でも戦いを忘れて考えに没頭したことに怒りを感じた。たかが「人鬼」の放つ妖気の刃を弾くことが出来なかった己の油断が、そして心の隙が許せない。
殺生丸は忌々しげに剣をかざすと、目の前の『刀』に力を集中させた。

「これ以上の恨み言は聞かぬ。人は人らしく地に戻るがいい」
闘鬼神に妖気が満ち、爆発するような勢いで『刀』に向けて噴出した。
圧倒的な力を受け、『刀』が集めた不安定な邪気による塊は霧散するが
人鬼となった念が最後の抵抗で剣の放った力の軌道を避け、殺生丸に襲いかかる。
殺生丸は気を込めて剣を無表情にふりぬく。
池の底が真っ二つに割れ、『刀』はその力に耐えきれず粉々に砕け散っていた。

◆◆


突然池から巨大な水柱が立ち、弥勒はぎょっとした。その瞬間集中していた意識がそれ、結界が弾け飛ぶ。守りを失った弥勒の身体に水柱が雨のように降り注いぎ、怨霊が待ちかねていたように大きな口を開け、弥勒を飲み込もうと襲いかかる。だが。
「あ?」
瞬間的に背筋が凍るような感覚を味わった弥勒は、その次のあっけない展開に間抜けた声を出した。
弥勒に襲いかかった男の念は弥勒を通り過ぎ、そのまま苦悶の声を一声あげて消滅してしまったのだ。
「…おい、何がおきたんだ…」
弥勒は呆然として呟いた。
その耳に届いたのは、細い赤ん坊の泣き声。
弥勒は急いで声のする方へと向かう。水辺にはえた草をかき分けてすすむと、ぼんやりとした影が泣きわめく赤ん坊を守るように包み込んでいる。
影が最初にあった女だというのは判った。そして、その傍らにもう一体。
弥勒は僅かに緊張の面もちで足を進める。女の傍らにいたのは、先程の怨霊となっていた男だったからだ。だが先程までの様子とはまったく違い、女と同様の純朴そうなごく当たり前の姿になっている。男は弥勒が近付くのを見ると、女と赤ん坊を抱き寄せた。まるで、家族を守ろうとしている父親のように見え、弥勒の胸が微かに痛む。

「お前達は夫婦だったのですか」
男が弥勒を威嚇するように睨む。だが、そこにはあの恐ろしい鬼と見まごうような凶暴さはない。本当に、ただ家族を守りたい、その一心だけが見える。
「…お前が私を憎んだ気持ち、判らなくもない。おそらくは、なぜに自分がこんな目にあわねばならぬのか、と言いたくなるようなむごい目にあったのだろう。お前だけではなく、妻も子も」
弥勒はゆっくりと両膝を着きそして、錫杖を傍らに置くと両手も地に着いた。
「だが、その赤子はお前達の子ではない。生者には生者の、死者には死者のそれぞれ果たさねばならぬ務めがある。どうか、その赤子を生者の世界へ戻してやって欲しい」
そう言って、深く頭を下げる。見ず知らずの法師が見せたその姿に夫婦の魂は何を感じたのか、弥勒が細い赤子の声に顔を上げたとき、彼等の姿はその場から消えてしまっていた。

弥勒は赤ん坊を腕に抱きあげ、感慨深げに静まりかえった池を見つめていた。
あの暗く重苦しかった障気も邪気も全て消え、清浄な気配が辺りに満ちている。
一体何があったのだろう?
自分が何かしたわけではないのは確かだが、明らかにこの場は浄化されていた。
弥勒は訳が分からない不満さに、頭を掻いた。
ふと、自分を呼ぶ声が聞こえてその方向を向く。
「法師様ーーー!」
「珊瑚。どうしてここへ?」
妖怪退治屋の服に着替えた珊瑚が雲母にまたがり、駆け寄ってくる。
彼女は弥勒の傍らに下り立つと、きょろきょろと辺りを見回した。
「さっきものすごい邪気を感じたから、みんなと急いで来たんだよ!何があったの?」
「みんなって…他のみんなは?」
問われて珊瑚は気まずげになった。
「……でも途中まで来たところで邪気が消えちゃったし、法師様は別にケガもしてなさそうだって犬夜叉が言い出して、途中で帰っちゃった…」
「……はあ、……帰りましたか…」
「……うん、帰った…」

僅かの間、弥勒と珊瑚は脱力した風で向かい合っていたが、やがて弥勒がこほんと咳払いをする。
「私を心配してくれたのは、珊瑚だけ、という事ですな。まったくもって、冷たい仲間達です」
「ち、違うよ!法師様のことを信頼してるからみんなは…」
急いで言い訳しようとする珊瑚の腕に、弥勒は「はい」と赤ん坊を預けた。
「……何?この子」
「依頼の赤ん坊です。腹を空かせているようですので、先に村に連れて帰って下さい」
「連れて帰れって…法師様は?」
「私は供養してから帰ります。どうやら、この周辺では過去にかなりの事があったようですし」
「危ないよ、一旦帰ってみんなで戻ってきた方がいい」
「いえ、危険はもうありません。それは判ります。ただ、法師として放っておけない気がいたしますので…」
「でも!」
説得しようとした珊瑚の腕の中で赤ん坊が火が点いたように泣き出した。
「ああ、どうしよう…」
オロオロする珊瑚を弥勒が宥める。
「お腹がすいてるんですよ、きっと。とにかく、早く帰って母親を安心させてやった方がいい」
珊瑚はまだ気になるようではあったが、泣いている赤ん坊を連れて村へと戻っていった。

1人残った弥勒は池の畔にそっと膝をつき、手を合わせると誦経を始めた。
あの夫婦の気配は今は何も感じない。完全に成仏してくれたのだろうか?
あの夫婦が遭った災難とはなんだったのか、今となっては知る術もない。何一つ後に語られることなく消えていく命が、今の時代は多すぎる。
もしも弥勒が1人旅のまま誰とも交わらずに今もいたら。彼が使命を果たせずに風穴に飲み込まれた後は、誰もその行方を知らないままだろう。遠く夢心が、戻らぬ弟子に想いを馳せるだけで。
弥勒は今の旅仲間達と、そして偶然のような縁を持った銀の髪の大妖を思い出す。
(俺が消えたら、少しは気にしてくれるんだろうか。泣いてくれとまでは言わないが、……いずれはひょっとしたら、なんて思っちゃ駄目なもんかな)
池は静かに澄み、目を閉じ、合掌する弥勒の姿を映していた。

◆◆



いつのまに水中から出たのか、足下に踏む草の感触に殺生丸はいぶかしげな目を上げた。正面にはあの女が立ち、あえかな笑みを浮かべて会釈をしている。
『ありがとうございます。お連れ様はもうさっきの場所で何がおきたのかと首を捻っている事でしょう。どうぞ、わたくしをお気が済むようになさってくださいませ』
静かに言われ、殺生丸は面倒くさげに舌打ちをした。
「今更貴様を消滅させるなど、これ以上、手間を掛ける気はない」
その素っ気ない言い方に、女は可笑しげに笑った。
『つれない事を仰るお方ですね』
その男を宥めなれた口調に、殺生丸は顔を背けながら問う。
「貴様は何者だ?この池の主か?」
『その様な大それた者ではございませぬ。わたくしは、かつてこの池の畔に住んでいたただの村娘でございます』
「その村娘がなぜそんな姿でうろついている。何故成仏しない」
また女は笑い、それからふっと懐かしそうに池を見る。

『わたくしはここより遠く離れた場所で死にました。ここへ還りたいと、そう願いながら。……ここには、わたくしが幸せだった頃の全てがありますから…』
女は殺生丸の顔を見て、くすりと笑う。
『このような事、興味など無いようですね』
「ああ、どうでも良い」
突き放す物言いに傷ついた様子もなく、女は清浄さを取り戻した池を見渡した。
『人から見たら、本当にどうでも良いことでしょう…ですが、わたくしはここがよいのです。永遠にここにいて、懐かしい夢だけを見ていたい…蛍が飛ぶ、懐かしいあの時の夢だけを』
女の中で懐かしい記憶が蘇る。遠い遠い昔、幼なじみの少年とここで夫婦約束を交わした。少年は戦に行って手柄を立て、褒美を貰って家を建てよう、とそんな夢を語り、娘は黙って頷いた。
少年に渡された蛍袋を手に持ち、蛍の舞う中二人で手を繋いで娘の家まで歩いて帰った。
その後、少年は戦に行ったきり村に戻ることはなく、娘は村が夜盗に襲われたときにさらわれ、何人もの男達の手を渡って最後は遠い町の路地裏で死んだ。
雪の降る夜、あの幸せだった夏の夜だけを思い浮かべて。

女は無表情な殺生丸に、儚げな笑みを浮かべたまま言う。
『お連れ様の所へお送りいたしましょうか』
殺生丸は首を振った。女が造った妙な障壁が消えた今、りんと邪見の匂いははっきりと判る。そう遠い場所ではない。彼ならば半時もかからずに戻れる距離だ。
『……では、わたくしは参ります。本当にお世話をおかけしました…』
「礼など言い。目障りだ。さっさと消えろ」
女は目を細めて微笑む。そして一礼すると、すうっと背を向けた。
その傍らに1人の男の姿が浮かぶ。気配も何もない、完全なただの幻。女は少し背が低く幼い姿になり、その男と手を繋いでゆっくりと歩いていく。
その周りにはたくさんの蛍の光。すべては幻影で生きている者も、死んでいる者も存在しない。

(このためにここへ留まっているのか)殺生丸はそう悟った。
大切な男とただ手を繋いで歩いた。その思い出のためだけに、この女は死んだ後もこの場を漂い続けている。
もう取り戻せる事もない過去のただ一瞬を懐かしむためだけに、女は次の世に幸福な望みをかけることもなく、永遠にただ彷徨っている事を選んだのだ。
(愚かな)
そう考え、殺生丸はこの女が誰に似ているのか判った。 無女に似ているのだ。
過去も未来もなく、自我さえもなく、ただ子供への情念だけで永遠にこの世に留まっている愚かな女。
そう思いながらも、その愚かさを切り捨てることが出来ない自分にも気が付く。
たった一つの思いに捕らわれ、どこにも行けずに彷徨い続ける心。
かつては下らないと、嫌悪までしたその存在の心中が僅かながらも理解できる。

殺生丸は池の向こう岸に目を向けた。
(何故……私はこの場に留まっているのだろう)
あの向こう、木陰に隠れて見えない場所に、殺生丸が知る人間の男がいる。
女の障壁が消えたときそれはすぐに分かった。
だからといって、会いに行こう、等と思ったわけではない。
そうでもないのに、殺生丸は何故か立ち去ることもせずにこの場にいる。
踵を返しかけた爪先が水際を叩き、水面に映る殺生丸の像を歪ませる。
それを見て殺生丸は、忌々しげに舌打ちをした。
歪む水面の像。それは、今のはっきりとしない自分の内面を写しているように見える。
普段ならば常に冷静で澄んでいる筈の己の心の底が、自分自身で判らない。
なんのためにここへ残っているのか。
何故立ち去らないのか。

戸惑う心は揺れるばかりで答えが出ない。
行きつ戻りつする心のままに踏み出せない足先は、ただ水面をゆらすばかり――。



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