◆ 化生 ◆


 


少年の頃、夢心に連れられて山を降りたとき、戦場跡を通りかかったことがある。
屍はまだ新しいにも関わらずその殆どが山犬や烏につつかれ無惨な有様を示し、そして具足の大半ははぎ取られた後だった。
葬ろうにも葬りきれない数の屍が晒されている平野は土すら血を吸ってどす黒い色に変わり、生き物が立つことを拒むようだった。
習い覚えたばかりの経を読み、弥勒は夢心と共に野ざらしの屍に手を合わせた。
普段は酒浸りでいい加減だった夢心が、その時ばかりは数珠を鳴らして真摯に経を唱え、そして弥勒に語る。
「死のなんと無惨なこと。生のなんとあっけない事。見ろ、弥勒。此処は少し前までは緑成す地だった。それが今では一面の死の野原。なんとまあ…壊すに容易い世の中であることよ…」
その時、死者の中で何かが蠢く。
山犬に食いちぎられたか、半ば肉を無くした雑兵の頭部を大事そうに掲げている女の姿。
弥勒はその姿に戦慄を感じて夢心の僧衣にしがみついた。
 
「おお…ありゃ、狂女だ…御陣女郎か…?惚れた男でも亡くして狂ったか?」
女はその肉の剥がれた顔に化粧を施しているようだった。
血で唇を染め、白粉を無惨な傷跡に塗り込めている。
そうして出来上がった顔を矯めつ眇めつ見直しては袖で化粧した部分をこそげ落とし、また繰り返す。
髪はまだ黒くそう歳がいっているようにも見えないが、焦点の合わない目と半ば開いたままの口のせいで、もはや老女のようにも見えた。
ややあって数人の男達が現れ、死体の首を抱えたままの女を連れて行ってしまった。
「夢心様…」
女がどうなるのか不安に感じた弥勒は、師の顔を仰ぎ見る。
夢心は首を振ると、悲しげに弥勒にいう。
「わしらには何も出来ぬよ、弥勒。あの女の定めを知るはあの女と御仏のみ。哀れな女だが、同じような定めを生きる女はこの世にあふれておる。血に野ざらしにされた男達の数と同じくらいに、数え切れぬほどな」
 
生きること、そして死ぬことの無常。
少年の弥勒の中に、その光景は深く刻み込まれていた。
 

◆◆
 


「殺生丸様、殺生丸様!!!」
息を切らしてりんと邪見が走ってくる。
なんの騒ぎかと思えば、りんの着物に僅かに残る邪気の跡。
僅かに眉を潜めた殺生丸に構わず、りんは大仰な身振り手振りでしゃべり出した。
「あのね、あのね!鬼婆が出たの!りんが枇杷を集めてたら、美味しそうだねってどっかからおばあさんが出てきてね、一個上げようとしたら、あたしの方が美味しそうだって言って、いきなりがばーーーっと牙を剥いたの!」
そういってりんは口を大きく開くと噛みつく真似をした。
「でもね、邪見様がその時、杖で鬼婆をひっぱたいたの!!そしたら、鬼婆、逃げていったの!邪見様、つよーい!」
興奮したままのりんにそう褒めそやされ、邪見は自慢げに胸を張った。
その弾みに懐に入れてあったらしい木の実がこぼれ落ちる。
「あーーー、邪見様!枇杷が汚れる!潰れる!」
「あわわわわ…」
今度は実を拾うのに大騒ぎを始めた二人を横目で見て、殺生丸は考え深げになる。
僅かに残る邪気の跡。
奈落の匂いは無いが、万が一という事もある。
…邪気を追ってみるか…。
まだ大騒ぎをしているりんと邪見に背を向け、殺生丸はそう考えた。
 

◆◆
 
 
町にはいってすぐの路地裏での騒ぎに気がつき、かごめはおそるおそるのぞき見た。
そこでは数人の子供が木の枝を持って蹲った1人を囃し立て、殴りつけている。
「こら!やめなさい!」
かごめが怒鳴ると、子供達は蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げていく。
「かごめちゃん、どうしたの?」
「あ、あの子たち、数人で1人を苛めてて…」
珊瑚と二人で路地の中を覗き込み、そしてそこに蹲っているのが老婆だと判ると、かごめは急いで駆け寄って助け起こす。
「おばあちゃん、大丈夫ですか?」
その後に続き、顔を上げた老婆に気が付いた珊瑚が顔色を変えた。
「かごめちゃん、離れて」
そういってかごめの腕をひく。
「え?なに?」
驚くかごめを、老婆が見上げる。その顔を見た瞬間、かごめはぎょっとして後ずさった。
老婆は顔に深く白粉を塗り込めてべったりと紅をつけていた。それだけではなく、その目も、表情もまったくまともには見えない。そして、何か腐ったような匂いも漂わせている。
老婆は歯の無くなった顔でにやりと笑うと、懐からひびの入った壷を取り出した。
「お嬢ちゃん…優しいね…化粧してやろうか?綺麗にしてやろうか…?」
そういって老婆はくつくつと痩せた胸を振るわせて笑い出した。
怯えたかごめを、珊瑚は抱えるようにして老婆の側から引き離す。
取り残された路地裏で、老婆は笑いながら歌うように呟く。
『もう一つ貰おう、もう二つ貰おう、そしたら百になる、全部全部元通り…』
 
 
「…びっくりした…」
「あれ、多分、元女郎かなんかだよ。ずっとそういう商売をやってる女にはよくあるんだって。病の毒が頭に回って狂っちゃうんだって」
「そうなんだ…」
「近付かない方がいいよ」
珊瑚に支えられたまま、かごめは力無く頷く。
その二人を見つけた弥勒が、宿の暖簾をまくり上げて手招きした。
「二人とも、どこへ行っていたのですか?…おや?かごめ様は御気分でも?」
弥勒の後ろから犬夜叉も顔を出し、青ざめているかごめに気が付くと傍らに寄った。
「なんでぇ、どうしたんだ?」
「うん、ちょっとね」
珊瑚は少し気まずげな顔をした。
 
 
「それは驚きましたね」
宿の部屋に入ってから話を聞き、弥勒はかごめを労るように言う。
あの老婆は、町の噂では都付近から流れてきた元女郎で、どうやら戦場での首化粧の役もしていた女らしい。頼まれもしないのに世話を焼いていた宿の娘が茶を並べながら話に加わり、いろいろと愚痴を語る。
「気持ち悪い婆さんでしょ?完全にイっちゃってるの。どっか行ってくれればいいのに、その辺うろうろしては人んちの厨に入り込んで、勝手に物食べちゃうの。うちだって、干し魚だの味噌だの、どれだけ手をつけられたことか。でも誰も触りたくないから、結局力尽くで追い出せなくてああしてふらふらしてるの。ああ、いやだいやだ」
宿の娘は若々しい丸顔の鼻に皺を寄せてそう言うと、母親の呼ぶ声に急いで立ち上がった。それでも出ていく直前に弥勒にしっかりと秋波を送る事は忘れない。
珊瑚が冷たい視線を向ける。
「口説いてたの?」
「人聞きの悪いことを言いますね。手相を見てあげただけですよ」
「ふーん…。あたしやかごめちゃんがいやーな気分に浸ってたとき、法師様はいい気分になってたんだ」
「…だから…どうしてそういう冷たい目で見るのですか」
弥勒と珊瑚のいつもの遣り取りにようやく顔色を取り戻したかごめが、小さく声を出して笑った。
 
 
その夜、布団に横になりながら、弥勒はなかなか寝付けずに天井を睨んでいた。
かごめと珊瑚が出会った狂女の話に、昔見かけた光景がだぶって見える。
死者の首に化粧をしていた女。哀れな女の1人。
病に冒され、生きながら腐り果てて死んでいく女。
 
――当たり前に生きるという事が、なんと難しい事…。
 
弥勒は小さく息を付く。ふと空気が変わった気がした。
弥勒が身体を起こすと、すでに目覚めていたらしい犬夜叉が低く声を掛ける。
「よう、何か嫌な気配がしねぇか?」
「気が付きましたか」
「そんな強かぁねえが…何て言うか、気にいらねー気配だ」
犬夜叉がくんと鼻を鳴らす。
どたどたと足音がして、宿の女将が転がるように走り込んできた。
「お、お願いです、お坊様とお弟子様!お助け下さい」
「誰がお弟子様だ!」
犬夜叉の憮然としたつっこみを無視し、弥勒は気が動転している女を抱え起こす。
「落ち着いてください、一体どうなされたのですか?」
「む、娘が物の怪に攫われました!どうか、お助けを、――お助け…」
女はそういって弥勒を拝むうちについに気を失ってしまった。
「さっきの気配は妖怪のものですか…」
「ちっ、行くぜ、弥勒」
気を失った女の介抱をかごめと珊瑚に任せ、弥勒と犬夜叉は外へ飛び出した。
騒ぐ宿の主の声に起こされたらしい男達が松明を持って町の中を走り回り、混然となった匂いに犬夜叉の鼻も妖怪の匂いをかぎ取れない。
「別れて探しましょう」
「しゃあねえな」
それぞれに空気に残る僅かな邪気を追って走り出す。弥勒は何か奇妙な勘に導かれるように町の中を走り抜け、外れの草原にたどり着いた。
1人だった。
夜気が濃くなっていた。
 
 
弥勒は草をかき分けるようにして奥へと踏み進む。風に混じる邪気に、弥勒は自分の勘が正しかったことを知る。気を引き締めて草原の斜面を登り、そしてそれを下った所に蹲る姿を見つけた。すぐ脇に流れる川に十三夜の月が明るく映り、蹲った女の黒髪を濡れ濡れと光らせる。
女は白い顔を上げ、弥勒を見た。
その口には、血に濡れた細い手首がくわえられている。
足下に横たわった宿の娘からはすでに生の息吹が消え失せていた。
 
 
女はくわえた手首を旨そうにしゃぶっている。舌で若い肌を舐めとり、細い指をまるで木の実をかじるようにこりこりと音を立てて咀嚼していく。
弥勒はおぞましさと娘の哀れさに顔を歪め、札を懐から取り出した。
女は血まみれの口でにやりと笑う。
足下の娘の身体を胸に抱くと、弥勒を見つめたまま愛おしそうにその身体を撫でさすりだした。
女の赤い唇が謡うように同じ言葉を繰り返す。
 
『もう一つ貰おう、もう二つ貰おう、そしたら百になる、全部全部元通り…』
 
娘の身体が女の身体に溶け込んでゆく。娘の身体が沈む度に女の顔は若返り、つるりとした白い顔の中で黒い瞳が大きく輝いている。
弥勒はその変貌ぶりに目を見開いた。娘の姿が完全に消えた後で女――いや、10歳ばかりの少女がすらりと立ち上がったのだ。
寸法の合わないぼろの着物が滑り落ち、少女は白い裸身のまま弥勒に向き直ると、明朗な愛らしい声で呼びかける。
 
「おや、法師様……あたしの最初のお客になりに来たのかえ?」
少女はその幼い顔に似合わぬ年増女じみた物言いをした。
「でも生憎だったねぇ…この身体、そんなにもたないんだ…客になるなら早い方がいいよ…お代は…」
少女の唇がぐるりとめくれ上がり、鋭い牙がむき出しになった。
「お代はあんたの血肉でもらうよ」
少女のあまりの素早さに、弥勒は風穴を開く間もなく少女の身体に押し倒されていた。
鋭い牙をむき出しに噛みつこうとしてくる少女の肩を押し返すのが精一杯で、自分の身体の上から振り落とすことが出来ない。
「お前は――一体何者なのです!」
「おや、あの娘から聞かなかったのかえ?泥棒ババアと、罵っていたであろうに。あの娘はいつもあたしに水を掛けてたよ、犬を追っ払うようにね」
少女は甲高い声で笑う。
「お前は……かごめ様達が出会った…?」
「おや、お前はあの娘達の知り合いかい?可愛い娘だねぇ、健康ないい体だ…あれを食べたら、あたしの身体も少しは保つかねぇ」
うっとりと少女が呟く。その僅かな隙に弥勒は少女を跳ねとばしすが、 野生の獣じみた動作で少女はあっさりと四肢をついて地に着地する。少女はにんまりと笑った。
「乱暴だねぇ、あと少しなんだよ…これまで99人の娘を喰らった。あと1人喰らえば、あたしは生まれ変わる。綺麗で元気だった頃のあたしに生まれ変われるんだ…あたしはね、生き直すんだよ、法師様」
「愚かな…」
少女の言い分に、弥勒は痛ましさに眉を顰めた。
「人を喰らって真っ当に生まれ変われるなど、ある筈がない」

「だってあたしは若返ったよ。若い娘を喰う度に、あたしは若くなる。ほら、…あたしは無邪気な子供だ…でも駄目なんだ…すぐにもどっちまう。百人喰らえば、きっと本当に生まれ変われるんだ。あたしは若い娘になって、人生生き直すんだ」
少女は頬に手を当て、そして不快げに唇を尖らせた。
「嫌だ、ほっぺたが溶けてきちまった…早く喰らわないと、またあの汚いババアにもどっちまう…あんたの血肉をおくれ。そうすりゃもうちっとは保つだろう、あの娘を喰らいに行く間くらいは保つだろう」
再び少女の牙がむき出しになる。
「喰らわせておくれ、法師様。あたしは今度こそ真っ当に生き直すんだ。惚れた男と一緒になって、子供を産んで…畑仕事でもなんでもするよ、おっかさんのいう事も聞く。あたしはもう身体を磨り減らして生きるのはまっぴらなんだ」
少女が弥勒に飛びかかる。打ち払おうとする錫杖にしがみつくと、弥勒の眼前でにこりと笑った。
「法師様、子供を打てるの?」
無邪気な声。弥勒の動きに僅かな躊躇いが混じる。少女は無邪気に笑ったまま、牙をむき出しにして弥勒の身体に四肢を絡めるとぎりぎりと男の身体を締め付けた。
締め付ける力の強さ。それ以上に、弥勒は女の全身からあふれる願いに身が竦む。
 
ねえ、あたしに喰らわせて。
ねえ、あたしを生き直させて。
ねえ、あたしは幸せになりたいの。幸せになって、笑って生きたいの。
ねえ、お願い、あたしに力を貸して。ねえ、お願い。
 
無邪気で我が儘な願い。
女の口が大きく開く。めくれ上がった唇からのぞく鋭い牙、それが弥勒の首筋にかぶりつこうと迫ってくる。
 
――やられる――
 
首筋の鋭い痛みに殆ど本能的な動きで、弥勒は女を押しやった。女は錫杖を銜えて首を振る。金属が耳障りな音を立てて錫杖が弥勒の手から放れる。
だがその瞬間に弥勒は身を捩って女から離れた。首にたてられた牙の痕から細く血が流れる。
 
「うふふ、逃げられないってば」
女は無邪気な少女の顔でさえずるように笑った。足で錫杖を遠くに蹴ると、眠たげな動作で目を擦る。瞼がどろりと溶け、女は泣き出しそうになった。
「ああ、嫌だ。最近壊れるのが早いの。娘を喰っても一晩も保たないなんて。早く100人目を喰わないと、早く身体を取り替えないと」
「無駄です」
辛そうな弥勒の声に、女は目に手を当てたまま拗ねた顔をした。
「お前の身体はすでに黄泉の底に落ちている。娘を喰らうたびに罪業が増えてさらに沈むだけだ」
「嘘だよ。法師様」
女はぼそりと言った。
「あたしは生き直すんだ」
「無駄です」
もう一度、言い聞かせるように言う。
「お前はもう人ではないのですよ」
「嘘だよ、法師様。みんなあたしに嘘ばかり言う。もう騙されないんだから」
「哀れな……」
弥勒は符を取り出した。女は四肢を地に着き、獲物に飛びかかる直前の猫めいた動作で弥勒との距離をゆっくりと縮めてくる。
ふいに――少女の身体が眼前から消えた。
弥勒が振り向くより早く、頭の上を飛び越えた少女は背中からしがみつき牙をむき出す。尖った犬歯と赤い口腔が弥勒の視界一杯に広がった。
(しまった!)
そう思った弥勒の前で、女の身体が急にのけぞった。弥勒の身体を突き飛ばすようにして背後に倒れ込み一度大きく体を震わせると、一声だけ大きく吠え、女の体はあっけなく溶け崩れてゆく。
ボロボロに脆くなった細い白骨だけ残し、女は完全に消滅していた。
 
突き飛ばされた衝撃で地面に手を付いた弥勒は、その時になってようやくその場に立っている姿に気が付いた。
女の身体を背後から貫いた殺生丸が、手に残った腐汁を汚らわしげに払っている。
冷ややかに自分を見下ろす金色の目に、弥勒はなぜか泣き出しそうな気分になった。
 

◆◆

 
乾いた夜風が吹き抜ける。
声もない弥勒に歩み寄ると、殺生丸は抑揚無く声を掛けた。
「貴様、何をしている」
「何をするも何も…見ての通りです」
 
なんとまあ、素っ気ないお方だろう。
泣き出したい気分なのに、なぜか笑いもこみ上げてくる。曖昧な顔つきで立ち上がる弥勒の顔を不審そうに眺めつつも、殺生丸は何も言わない。
「あなたこそ、このようなところで何をなさっているのですか?」
「別に」
「私に会いに来てくれた、などとは冗談でも言ってくださらないので?」
軽口に珍しくも困ったような顔つきになる殺生丸に、弥勒はどこか投げやりに笑う。
「困ってしまうような事を申しましたか。それは失礼をいたしました」
錫杖を拾うと、それを抱えて疲れた動作で草の上に座り込む。
「何はともあれ、助けて下さったことにはお礼を申し上げます。例え何かのついでであっても」
慇懃に言って俯く。物を考える事にも疲れを覚え、言葉を選ぶ気も起きない。弥勒は目だけで残された女の白骨を見つめた。
 
真っ白で薄い――脆くて触れただけで崩れそうな骨。
女が生きてきた無惨な時間を示すような――。
天寿を全うできなかった女も、そして喰われて命を吸われた娘達も、ただひたすらに哀れだった。
 
突然弥勒の襟首が引かれた。
「わ!」
殺生丸が僧衣の後ろ襟を掴み、座ったままの弥勒を乱暴に引きずっているのだ。
「あわわわわ、殺殿!」
ごつごつと背中や尻が地面に擦られて弥勒は立ち上がる事が出来ない。
殺生丸は弥勒の呼びかけを無視したまま川岸に行くと、そのまま引きずってきた男を川の中に放り込んだ。
そう深くはない川に大きな水柱が上がり、弥勒は川の中に後ろ手をついてへたり込む。
頭からびしょぬれになりながら、弥勒はよほど驚いたのか、「殺殿、殺殿、なんて事をするんですか!」と猫の子を叱るような言い方をした。
 
殺生丸は川岸に立って、びしょぬれで目を丸くしている男を見下ろすと、素っ気なく言い放った。
「頭を冷やして、穢れを落とせ。祓う度に亡者に取り憑かれる法師など、ものの役にも立つまい」
弥勒は虚をつかれたような顔になった。
「私は憑かれておりましたか?」
「死にたがっている顔をしているぞ」
その言葉に弥勒は自分の顔を撫でる。
死にたがっている顔――。
「私は取り憑かれておりましたか…」
弥勒は厖として呟く。
不意に川の水の冷たさが全身に染み渡り、弥勒はぶるっと体を震わせた。
自分の顔から血の気が引いていくのが判り、川岸に立ったままの殺生丸に無駄かも知れないと思いながら声を掛ける。
「まだこの辺におりますか?もし時間があるのでしたら、火など熾していただけるとありがたいのですが…」
そう言って、大きなくしゃみを1つした。殺生丸の返事は聞こえない。

「いえ、先程の無礼を怒っているというなら、無理には申しませんが…」
さっき嫌みな礼の言い方をしたことを思い出し、別な意味で顔を青ざめさせる弥勒の眼前にぱあっと赤い光が灯る。 殺生丸は河原の適当な大きさの石を1つ足で転がすと、それに火を点けていた。
どういった技かは知らないが人の頭ほどの大きさの石が勢いよく燃え上がり、赤々と周囲を照らす。
その火の横に立ち、殺生丸は川の中の弥勒を見つめていた。
見守る、というには素っ気ない表情。でも立ち去るでもなく、黙って弥勒を見つめている。炎に反射した瞳の色そのものが燃え上がる炎のようで、なぜかとても暖かい色合いに見える。  
 
弥勒は冷たい水を両手で掬って頭から被ると、首を振って髪の滴を飛ばした。
それから何度も手で顔を擦る。
何度水で流しても、目の熱さが消えない。視界がぼうっと滲み、それを冷やすように弥勒は水を顔にかけた。
 
 
様々な思いを乗り越えて、弥勒は今まで生きてきた。
だからといって全てを達観できたわけではない。生まれながらに背負った運命への怒りも、恨みつらみも、時に表に現れては熾き火のように心を焦がす。
例え口には出さなくても、あの女のように「生き直したい」と何度も思った。
でも、今、生まれて初めて思う。
この生で良かった。
顔を上げた弥勒の視線の向こうには、殺生丸がいる。
自分だけをじっと見つめている金色の瞳が見える。
当たり前に生きることも死ぬことも難しい定めだけれど、何度生まれ変わっても今の自分がいいと、心から言える。
この生を生きていきたい。
けして見失うことのない道標を手に入れた――そんな気がした。


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